メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

ルイジアナ・ママ

2017-07-30 17:43:13 | 音楽一般
音楽教室の発表会で、「ルイジアナ・ママ(Louisiana Mama)」を歌った。バンドを組んでのエントリーが原則で、企画者はエレキ・ギター、そのいわば雇われヴォーカルに応募したもの。会場はヤマハ銀座の地下スタジオ。
 
この曲はジーン・ピットニー(Gene Pitney 1941-2006)が自ら作詞作曲して、1961年、デビュー直後に歌った。
日本でもヒットしてラジオからよく流れてきて口ずさんでいたから、人前で歌ったことはなかったけれど、やることが決まってからの練習にはスムーズに入っていけた。
 
リハーサル、本番と、近くにドラムが入ってくると、気分もいいし、歌いやすくなった。カントリー出身の人の曲にyくあるようにキーは高いがなんとか私の声域、そしてあのところどころフレーズの最後で「ヒィッ 」となるヒカップ(hiccup しゃっくり)も、むしろ入れなさいということで、入れた。この方がむしろ歌いやすい。
 
他のエントリー曲は新しいものが多く、それらに比べて短いこともあり(レコード媒体の制限か、CD以前は3分以内が多い)、それではと、繰り返し部分を一回増やし、そこをあの飯田久彦が歌ったバージョンにした。この漣(さざなみ)健児の訳詞、ふざけた部分も含め、会心の名訳だと思った。
今年に入って「リバティ・バランスを射った男」と「ルイジアナ・ママ」、偶然ピットニーに縁があったわけだが、あらためて聴きなおすだけの価値はある人である。
  
今回のようなことがあると、長生きはするものだ、と思う。



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アイ・ソー・ザ・ライト

2017-07-25 21:02:25 | 映画
アイ・ソー・ザ・ライト(I saw the light、2015米、123分)
監督:マーク・エイブラハム
トム・ヒドルストン(ハンク・ウィリアムズ)、エリザベス・オルセン(オードリー)、チェリー・ジョーンズ(リリー)、マディー・八ッソン(ビリー・ジーン)、レン・シュミット(ボビー・ジェット)
  
私がものごころついたころ、またポピュラー・ソングに親しみはじめたころ、つまり中学校あたりだが、ウェスタンと呼ばれるジャンルは珍しいものではなく、ラジオ番組などでも、アメリカのロックと隣り合ったもののような感じだった。
 
この映画はその分野で最も有名なハンク・ウィリアムズ((1923-1953)の半生を描いたものである。生涯後半の6年間ほどの活動で、自作自演の名曲、それもヒットパレード上位に入ったものは数多く、それは今手元にあるベスト盤CDを見てもわかる。
 
時代はプレスリーのちょっと前だから、リアルタイムで聴いていたとはいえないが、この人がカントリーからロック、ポップスへの架け橋の役割を結果として果たしたことは実感としてよくわかる。
 
ハンクは人気が出始めたころ、妻のオードリーもともに歌手活動をしたいという欲求が強かったため、摩擦が多く、家を空けているときの酒と女の問題で家庭が荒れていく。離婚までの決心がなかなかできなかったり、そのあと別の女性とも同様にうまくいかなかったり、酒をたちきれないまま、あとでわかった生まれながらの脊椎の疾患に苦しみ、結局最後は公演に行く途中の車の中で息絶える。
ハンクのそういう人生についてはまったく知らなかったわけだが、知ってみると自作の大きい部分をなす悲痛な歌は、そうだったのかとも思えてくる。
 
ただ、そういう背景があったからかどうかは本当はわからない。悲しみ、苦しみがあってもそれをそのまま表現して聴くものに伝わるものなのかどうか、一度何かを通さなければ長く残るものにはならないはず。それはたとえばシューベルトの多くの曲が底知れない悲しみを感じさせるとしても、それはなにも人生にあった具体的なことの反映ではないのだし、どうしようもない、音楽になるしかない悲しみのようなものがあるのだろう。
 
タイトルの「アイ・ソー・ザ・ライト」は、子供をさずかったシーンで歌われる。これは映画の演出なのかどうかはわからない。讃美歌、ゴスペルの趣がある曲である。舞台で歌われる「Your cheatin' heart」は名曲だが、映画としてはこれもこのストーリーにフィットしている。
 
そのほか私も歌ったことがある「Cold cold heart」ももちろん入っている。ノラ・ジョーンズもファースト・アルバムで取り上げている息の長い曲、古典だろうか。もっともノラはカントリーの出身だから不思議はない。
歌われているかなと思っていたら、出てきてうれしかったのは「Hey good lookin'」、こういう楽しい歌も残してくれたハンクに感謝。
 
ドラマという観点からは面白みにとぼしく、主人公、この分野の音楽に関心がない人には退屈かもしれない。
  
主演のトム・ヒドルストン、主人公のつらい人生はよく演じているが、これだけのスターを演じるのであれば、時に華をみせてほしいところ。容貌はよく似ている。ハットはアルバム・ジャケットにあるものの忠実なコピーのようだ。




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P.D.ジェイムズ 「皮膚の下の頭蓋骨」

2017-07-20 09:28:27 | 本と雑誌
皮膚の下の頭蓋骨(The Skull Beneath The Skin)(1982)
P.D.ジェイムズ  小泉喜美子 訳 ハヤカワ文庫
 
イギリス北部海岸近くの孤島、ここの所有者がその城(屋敷)で芝居をやることになり、女優クラリッサと彼女の関係者が集まる。クラリッサはかねてから脅迫されており、同伴者としてコーデリアが依頼される。
 
その数日間の中で、登場人物のさまざまな過去、関係が詳述されるが、コーデリアの観察と注意にもかかわらず、クラリッサは殺される。島にいた関係者はすべて警察から執拗に尋問されるが、その中にはコーデリアも含まれてしまう。謎解きと彼女自身の弁明、そしてしのぎ方も読み進む時の興味である。
 
脅迫状には古今演劇のの台詞の引用が多く、また古い城のさまざまな様式、装飾など、バロックというか荘重な趣もある。
ただ、読み進むうちに、これは推理の興味よりは、コーデリアから見たひとりひとりの人間描写と動機をあじわうものと思われてくる。それは前作と同様ではあるが、今回はさらに著者の力量が発揮されていて、しっとりとした共感がある。
特にラストは、こういう書きかたもあるのか、という、主人公探偵のこれまでの半生に対する感慨、これからの生き方に関する決心で結ばれている。
 
女性探偵コーデリア・グレイが主人公の作品は、彼女が初めて登場した「女には向かない職業」と本書だけである。前作でコーデリアと対峙したダルグリッシュ警視は、そのほかの作品で活躍を見せるのだが、本作には、主任警部の話しの中に、コーデリアを知っているらしい本町の幹部ということで名前が出るだけである。
 
著者はいくつかダルグリッシュものを書いていって成長し、その結果この成熟したコーデリアものを書き上げたのかもしれない。このあとなぜコーデリア登場させなかったのかは、最後の部分で納得できなくもない。それは著者も共感するものになってしまったからだろうか。
 
叙述は、イギリス女流小説の名作における心理描写を読むようで、翻訳したものからもさぞ素晴らしい英文なんだろうと想像できる。
 
なお直接は関係ないことだが、数年前の大ベストセラーで映画化もされた「ミレニアム」(スティーグ・ラーソン)は、小さい島という限定された舞台と、写真が鍵という点で共通しており、著者は本作に影響を受けたと想像する。

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捜索者

2017-07-15 17:27:04 | 映画
捜索者(The Searchers、1956米、119分)
監督:ジョン・フォード、脚本:フランク・S・ニュージェント、撮影:ウィントン・ホック、音楽:マックス・スタイナー
ジョン・ウェイン(イーサン)、ジェフリー・ハンター(マーティン)、ナタリー・ウッド(デビー)、ヴェラ・マイルズ(ローリー)、ウォード・ボンド(クレイトン)、ヘンリー・ブランドン(スカー)
 
テキサスの巨岩と砂漠がおりなす美しい平原、そこに住む兄夫婦の家に、南北戦争が終わって、南軍にいたイーサンが帰ってくる。兄夫婦には姪が二人、そしてマーティンという先住民の血が少し入っている若者(孤児?)がいる。
 
そしてコマンチ族の牛泥棒を追跡にかかるのだが、これは罠で、帰ってみると兄の家は襲撃され、家族で生き残っているらしいのはさらわれた姪二人。イーサンとマーティンの二人は姪二人を探しに、またコマンチ族のスカー達への復讐に燃えて、執拗な捜索を続ける。
 
私は西部劇の多くはどんなものということには疎いが、この映画はそれにしても復讐の感情表現の連鎖というようなものが表面にでてくることはなく、一つ一つの場面が精密に物語るのものを、見る者は繋げていくことになる。物語のすじからすると、登場人物の性格、感情の流れというものを想像するのだが、これは一つ一つのカットを見事につなげた、つまり舞台ではなく映画の妙でが創造した様式美とでもいえようか。それには素晴らしいカメラワークも貢献している。もちろんロケ―ションもこれ以上ないといってよいだろう。
 
このところいくつかジョン・ウェインを見ていて、この人が主役に据えられるのは何故と考えていたが、スクリーンで映える風貌もさることながら、動きがせかせかしてない、ここというときのアクションは早いが、その前はそうでもなく、充分に見せるというか、ためがあるというか、そういうところだろう。
 
連れ去られた下の姪デビーは唯一の生き残りだが、イーサンは成長してコマンチの一員になりきっていることを許さず討とうとする。この行為が彼にしては?と理解が難しいところである。長じてのデビーはナタリー・ウッド(幼時はナタリーの妹ラナ・ウッド)で、出番の時間は少ないが難しい場面でいい演技を見せる。ただ不思議なのはこの前年の「理由なき反抗」よりは幼く見えること。これも演技のなせる業なのか。
 
この作品、上映からかなり長い間、評価は低かったそうで、それもあって西部劇をある程度みていたころ、タイトルも知らず、その間に今回初めて見るはめになってしまった。今では、ジョン・フォード、ジョン・ウェイン、そして西部劇のベストワンという評価もいろんなところであるようだ。
 
大きな自然の中で(街は全く出てこない)、極限まで贅肉をそぎ落としたような、ハード・ボイルドといえばそう。これに比べれば、ジョン・フォードの最高傑作と一時期言われ、私もそうなんだろうなと思っていた「荒野の決闘」はかなりヒューマンなものであった。
 
アメリカ先住民の扱いは公開時からどう言われたのだろう。何もないとは思えないのだが、あまり大きな動きはなかったようだ。コマンチというものは、コマンチだから、という要素は極力避けられているといえばそうである。



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ゲームの規則

2017-07-03 16:29:14 | 映画
ゲームの規則(La Regle du Jeu、1939仏、106分)
監督・脚本:ジャン・ルノワール、撮影:ジャン・バシュレ、音楽:ロジェ・デゾルミエール
マルセル・ダリオ(シュネイ侯爵)、ノラ・グレゴール(侯爵の妻クリスチーヌ)、ローラン・トゥーダン(アンドレ・ジュリュー)ジャン・ルノワール(オクターヴ)、ミラ・パレリ(ジュヌヴィエーヴ)、ポーレット・デュボスト(リゼット)
 
タイトルはきいた記憶があるが、どんな映画という情報もなく、今回見て、その実験的な内容に驚いた。といっても感心したかというとそうでもない。
 
なかなか真面目に扱われず、かなり後になって論評されるようになったらしい。
 
第2次世界大戦前の貴族の流れを持つ人たちを含むブルジョア社会の恋愛遊戯、感情的なもつれはあっても深くはなく、見ていてそっちに感情移入することはない。
 
飛行機を操縦して大西洋を横断し、クリスチーヌに思いをよせるジュリュー、その状況をわかっていて自分はジュヌヴィエーヴと関係を続けている侯爵、皆をよく理解しながら、自分も微妙な立場にいるオクターヴ、彼らは侯爵の館で狩りに興ずるが、使用人たちも恋愛遊戯では格下ではないところもあり、複雑なドタバタ、間違いの悲劇(喜劇)になる。
 
とにかく早いテンポで休みなく続く場面、今の映画なら倍の時間がかかるだろう。カメラワークはこの時期にもうこれだけ発達していたか思うほど見事、特に狩りの場面。
 
ただ、映画作品として、見てよかった、何か残る、という点からは、やはり実験映画としてなんらかの意味はあったんだろうという印象しかなった。
 
なお音楽のデゾルミエールは当時のオーケストラ指揮者としてそれなりの人だったはずで、レコードも何か持っていたと記憶するけれど、結局出てこなかった。




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