メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

武器よさらば(ヘミングウェイ)

2007-07-30 21:54:40 | 本と雑誌
「武器よさらば」(アーネスト・ヘミングウェイ A Farewell To Arms 高見 浩 訳)
確か中学か高校のときに大久保康雄訳で読んだはずであるが、ほとんど覚えていない。しかし、この程度の話だったのか。当時は「誰がために鐘は鳴る」と並んでヘミングウェイの代表作だったはずである。やはり戦争が題材というのは当時まず関心を呼んだ、論じやすかったということだろうか。
 
第一次世界大戦、1918年頃の北部イタリア戦線で、アメリカから多分義勇的な看護兵として参加した作者の分身と思われる若者、イギリスから来た看護婦(新訳だから看護師となっている)と仲良くなり、一度離れてしまうが、砲撃で負傷した後また一緒になって、今度は二人の恋が全ての中心になっていく。そして、イタリア軍退避の混乱に巻き込まれて追われる羽目になり、彼女の妊娠、二人の逃避行となる。
「武器よさらば」というのは、直接的な反戦というよりは、戦争から「私生活」への転換だろう。
 
問題はこの女性キャサリンが最初は毅然としたところもあるいかにもイギリス女性として登場するのに、二人が燃え上がるにつれ、ただのべたべたした、わがまま女になってしまうところである。主人公の男にたいして一途になっているのは男にとってはいいのかもしれないが、読む方はなんともどうでもいい表現が続く。
 
これは作者29歳の作品だから、若いことは若いのだが、それでも2年前の「日はまた昇る」で出てくるブレットはまことに魅力的な女性である。キャサリンにはモデルがおり、この作品の背後には作者の苦い経験があるとのことで、それはそうなのだろうが、でもそれはヘミングウェイ研究の対象ではあっても、この作品の評価とは別である。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神尾真由子のメンデルスゾーン

2007-07-22 21:58:53 | 音楽一般
メンデルスゾーン: ヴァイオリン協奏曲ホ短調 op.64
ヴァイオリン:神尾真由子、BBCフィルハーモニック管弦楽団、指揮:ジャナンドレア・ノセダ
  
今年の6月29日、チャイコフスキー・コンクールで優勝したことから、先ごろNHK BSで放送されたものを録画して聴いた。2004年11月18日ミューザ川崎。
 
優勝するまでこの人の名前を知らなかったが、コンクールでの実績は随分あったひとらしい。この演奏は18歳のとき。
 
曲の冒頭から粘りのある音で、ちょっと遅いのではと一瞬聴くものに注意を向けさせて自分の音楽に引っ張り込んでしまう、なかなかだぞと思わせる。そしてこの最初きれいだなと思わせてあとはなかなか興味が続かない曲を緊張が途切れず、表現的というか、ちょっと表情が過剰気味だが、大変な説得力で持っていく。第一楽章のカデンツァは短いからこれくらいやらないと、オーケストラと張り合うコンチェルトにはならない。第2楽章はもう少し柔らかさが欲しいけれど、意識してそれをやると今の彼女には力を抜くことになるのだろう。しばらくこれでもいいのかもしれない。
 
それにしても音が大きく、オーケストラに埋没しない。確かサントリーが貸与したストラディヴァリの名器のはず。楽器がいいと違うのだろうが、それを弾く資格を取るのもその人の器だろうか。
第3楽章のフィナーレなど、気持ちよさそうだった。また、終わってオケ団員も皆感心したように拍手していた。
 
この曲だけで判断は出来ないが、聴く方としてちょっと苦手なこの曲以外で、例えばチャイコフスキー、シベリウスなど、聴いてみたいものである。
 
高い方の弦を弾くとき、弓をほとんど垂直に立てる姿が、彼女が桐朋で習ったといわれる原田幸一郎が東京カルテットのトップを弾いていた頃を髣髴とさせる。師のリリカルなところに表現の強さが加わっていると見た。期待しよう。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ジーン・シモンズのロック・スクール

2007-07-10 22:42:16 | 音楽一般
「ジーン・シモンズのロック・スクール」、30分弱X7回、おそらくイギリスのTV番組で、エデュテイメントつまりエデュケイションとエンターテイメントをあわせたものとのこと。最近WOWOWで放送された。
  
アメリカのロック・バンド「KISS」のベーシスト、スーパー・スターのジーン・シモンズ(このとき55歳)が、イギリス郊外の硬い感じの私立校の音楽に力を入れているクラスに招かれ、短期間でロックを教えデビューさせるまでの話だ。このクラスは皆クラシックが好きで演奏もかなりやる13歳の男女たち。
 
となると「スクール・オブ・ロック」(2003)を連想してしまうが、こっちはジャック・ブラック演じるロックおたくが偽って代用教員になりすまし学校に入り込んでロックを教えてしまうという話しで、生徒はもっと手におえないから、ロックそのものと同様にドラマの面白さも追求している。
 
ところがこっちは実在のスーパー・スター本人であり、おそらくかなり結末は想定しながら、誘導もしたとは思われる。予定調和的なところが中盤から鼻につく、つまりジーン・シモンズは傲慢だが実はやさしいという、、、
しかし、私にとってはそういうことより何より、ここでジーン・シモンズの言動を中心にくりひろげられる「ロックとは何か」が新鮮だった。
 
ロックというものは音楽の一ジャンルであり、他の音楽とは音楽論として分類できるものという考えが頭にあるけれど、どうもそうではないらしいということが今回わかってきた。
つまりロックの始まりには、一人の人間の自分のエゴの全的肯定、肯定したいという本能があり、それをさえぎるものを跳ね飛ばしたいという衝動がある。そうして、音楽的にうまいかどうかより、まずそういう自分が白紙の上に、何を出せるか、そこから全てが始まる。もちろんその先は音楽の出来でどれだけ売れるかもあり、また人間だからエキセントリックなものには苦労がついてまわる。
 
こういう順序でわかりやすく、堂々と、大物が説明したことがあっただろうか。
 
私がどうにかわかる、頭の中でまとまっているのは、エルトン・ジョンあたりまでで、おそらくKISSも含めたヘヴィー・メタルと呼ばれるいくつかのグループについては、名前を知っているものはあるし、曲を聴けば記憶にあるものも少しという程度だ。
 
がしかし、このシリーズを見て、KISSのあの隈取りのようなメイクにも、なるほどと親近感がわいてくるから不思議である。
もちろん、こういう理解とリアルタイムの体験は違うものである。しかし、成功した人たちというのは、こうしてロックを始めどこかでそれを意識化した人たちなのだろう、と考えても間違いではあるまい。
 
各回の最後に、日本版としてローリー・寺西がギターを弾きながら解説している。これがとてもよく整理されていて、わかりやすい。
ローリーは「時効警察」シリーズⅠ最終回でも自称アマデウスという作曲家を演じ、彼ならではであった。頭のいい人である。
 
それにしても、KISSのメンバーなど知らなかったから、この番組を見る前は、ジーン・シモンズ? 往年の上品な名女優でしょ?

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ダロウェイ夫人

2007-07-06 23:12:19 | 映画
「ダロウェイ夫人」(Mrs. Dalloway、1997年、英・蘭、97分)
監督:マルレーン・ゴリス、原作:ヴァージニア・ウルフ、脚本:アイリーン・アトキンス
ヴァネッサ・レッドグレーヴ、ナターシャ・マイケルホーン、マイケル・キッチン、アラン・コックス、サラ・バデル、レナ・へディ、ジョン・スタンディング、ロバートポータル、オリヴァー・フォード・デイヴィス、ハル・クルッテンデン、ルパート・グレイブス
 
1923年6月、ロンドン上流階級のクラリッサ・ダロウェイが朝から準備を始めたパーティが終わるまで、一日の物語である。
彼女は政治家の妻で、夫があらわれる前に親しくもしかしたら一緒になったかもしれないピーターがちょうどインドから帰ってきて昼間会いに来る。映画では若き日の回想シーンと現在がかさなり、二人とも動揺する。
そしてパーティが始まり、そこに集う若き日の登場人物たち。
 
いかにもイギリスらしいしつらえであるが、そんなにドラマとしての起伏があるわけではない。あるとしてもそれは内心のつぶやきであり、それをどう見るものに伝えるかが、この映画作りの腕である。工夫はわかるし、だからクラリッサの心の動きも理解は出来るが、それでも新鮮というにはちょっと足りない。
 
そう、今の夫とクラリッサを争ったピーターの野望と世の中を批評できる眼、しかしそれは財産も未来もあり人はいいがあまり気のきかない不器用なダロウェイには結局勝てない。女性は結局ダロウェイを選ぶ、話の先は見えている。世の中の男だって少し歳をとればそれは理解できるのだ、ヴァージニア・ウルフはそうでないと思っていただろうが。
 
原作にあるのかどうかはわからないが、大戦中の1998年イタリア戦線で注意が足りず同僚を死なせてしまった(と思っている?)戦争神経症の若者とその妻が併行して描かれる。不思議に思っていると、パーティ会場で人のつながりがあることが明かされるけれど、このあまり長くない映画の中ではバランス的に不自然である。おそらくその悔恨をクラリッサの心情に重ねることを意図したのであろうが、必要なものだったか。
クラリッサはヴァネッサ・レッドグレーヴ、このときほぼ60歳だからこの「ジュリア」(1977)の闘士も、自信無げな初老の女性にフィットしている。それでも真っ直ぐこちらを向いて眼を開き口角を少しあげて微笑すると、これはジュリアのときの強さを思いださせてしまう。だから悪いというのではないのだが。
 
他の協演者は知らない人たちだが、せめて相手の男二人にはもう少し身長が欲しかった。
往時ロンドンの情景、風俗、特に服装は眼にいい。
 
この原作(翻訳)を以前読もうとしたが、しばらくして読み進められなくなった。朝からの準備とクラリッサの思い出、内心の描写が、何故かフィットしなかったのだ。映画より評価が高いこれを読む機会はも少し後に取っておこう。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ゼルキンのディアベリ

2007-07-01 19:17:06 | 音楽一般
ベートーヴェン「ディアベリ変奏曲 Op.120」  ピアノ:ルドルフ・ゼルキン
1969年4月25日、ロイヤル・フェスティバル・ホール(ロンドン)
BBCのLEGENDSシリーズCD
 
一つ一つの変奏が生き生きと弾んでいて、しかも表情豊か、ピアノは最後まで響きの美しさと、真摯なフレージングを失わない。期待はしていたが、それを上回った。
ゼルキンはこのとき66歳、そういっては失礼だがこんなにソノリティが良いこともあるのだろうか。
ピアノで演奏されるベートーヴェンの変奏曲はとっても好きなのだが、ディアベリは苦手である。
このディアベリの主題をもとにして展開される33の変奏曲、50分を超える全体がまず長く、どうしても退屈する。これはゼルキンの演奏でも避けられない。専門家が分析すれば、この全体がグループ分けされたり、その進行に構造もあるのだろう。しかし、それが連続して演奏され、聴いているときに、流れの中での構造的迫力とでもいうべきものにはなっていない。
 
6つの変奏曲、32の変奏曲、エロイカの主題による変奏曲などにはそれがあって、聴いていると最後はどこかへ持っていかれるのである。リヒテル、グルダはディアベリを演奏しているが、前記三つの変奏曲で素晴らしい演奏を残しているグールドがこれを録音しなかったのは、彼らしい見識だと思う。
 
このピアノ変奏曲の中ではおそらくもっとも晩年に書かれた、そうあの最後のピアノソナタよりも後に書かれた曲は、ちょっと違うものなのかもしれない。
それでも、とにかくゼルキンの演奏ではいま弾かれている変奏、そしてそれと主題との関係に注意をしていれば、他の人のものに比べ、聴くことに浸っていられる。何か好きだけれどちょっとくどいブラームスの変奏曲や小曲集を聴くときのように。
そういえばゼルキンはそれらが得意であった。
 
最後の変奏が始まると、あっ帰ってきたという感がして、それが心地よい。そのあとは、どこか最後のピアノソナタの終盤を連想させる。最後の強打を除いて。
 
このCDには他に1975年同じ会場のライブ録音で、メンデルスゾーンの前奏曲とフーガ、ブラームスの間奏曲・ラプソディなどが収められている。これらの出来もいい。
一度だけゼルキンを生で聴いたことがある。このディアベリの10年後、1979年10月8日、東京文化会館で、バッハの「イタリア協奏曲」、ベートーヴェンの「熱情」、ブラームスの「ヘンデルの主題による変奏曲とフーガ」、シューベルトの「即興曲Op.142-2」であった。
 
音も指の動きもこのCDほどではなかったけれど、そうでなくても正直に何か深いところに迫っていく、そしてそこから何かを取り出していることの喜びが伝わってくる、そんな演奏だった記憶がある。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする