メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

トーマス・ルフ展(東京国立近代美術館)

2016-09-29 16:56:11 | 美術
トーマス・ルフ展
東京国立近代美術館 8月30日(火)-11月13日(日)
 
トーマス・ルフ(Thomas Ruff 1958- )は、写真表現家といったらいいのだろうか。カメラマンの部分は少ない。
展覧会の入り口にあるように、最初は同じアングルで撮ったポートレートを同じサイズ(縦2メートル)に引き伸ばしたものがいくつかあり、これは初期の有名作品だそうだが、なるほど誰?というより大きくした顔という感はあって、作者の狙いは当たったようだ。
 
その他、同じパターンで撮った建物、過去の様々なイメージ遺産、それは報道、天文をはじめインターネット上のかなりいかがわしいものも含まれるが、それらを使って行う表現、多くはやはり大きなタブローとでもいうものだ。
 
おそらくこうやって、現代の人間を取り巻いているイメージの世界、それを彼なりに意識し、そこから何か動きを出していく、そういうことなのだろう。
 
写真のカテゴリーでさてと見に行って、ちょっと「やられた」感はある。以前見た杉本博司にもその感はあったのだが、ルフの方が説明的というかすこしわかる感じはある。
 
印画紙の上に物をおいて露光したものは、本来なら一枚きりなのだが、その延長でコンピュータ処理の中でその環境を実現し、コピー可能にしたり、また報道のイメージなどをもとにしたものでは画素数や圧縮率による限界が明らかになるようにしたり、と今のものという面があり、今後どうなっていくのか、考えさせるものとなっている。こういうものもたまに見ておくといいとは思った。

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小川洋子「薬指の標本」

2016-09-22 09:28:56 | 本と雑誌
薬指の標本:小川洋子 著 新潮文庫(1994年刊行後に文庫化)
 
中編が二つ。表題の作品は、様々なものを標本にして残したい、または閉じ込めたい人を相手にしている会社に入った若い女性が対面する不思議な世界の話。女性は前に勤めていた工場で小指の先を少し欠いてしまい、それがあとあとまでついて回る。事業をやっているのは一人の男で、やがて彼とはいい仲になる。しかし、この話の進行から、はてどこかで、そうこれは「青ひげ」(ペロー童話など)ではないのかと思えてくる。作者はもちろん知っているはずで、それに気づいて読んでいくと、不安でもあり、どこかでそれとは違うものを見せてくれるのか、しかしここではまたそれをうまく変えて、と期待するのだが。結末はネタバレになるので、伏せておく。
 
この建物に住んでいるピアノ弾きの老女、男から送られたあまりにもぴったりする靴を見てなにかと示唆する靴磨きの老人、この二人がもう少し絡むと思ったが、これは作者の小説作法なんだろう。
 
もう一つは「六角形の小部屋」、これもなんだか憂鬱な気分の若い女性がたまたまたどり着いたところで見つけた「六角形の小部屋」、それは折り畳み式で、若い男とその母親が各地を巡りながら持ち歩き、人が自由に来て小部屋に入り、自分で話したいことを誰も相手にせず話して、多少のお金を置いていく。
 
よくこんな仕掛けを作者は考え出したものだが、そういう場所だと思えば、一人で何か話し出すかもしれない、と思わせる。もう一つの作品ほどドラマチックではないのだが、後をひいて考えさせるということではこっちだろうか。
 
またどちらの作品も、もう少し短くした方がより印象が強くのこると思う。
 
この二作、そして前にアップした「まぶた」、どれも若い女性とそう若くもなく魅力が感じられない(そういう風に表現している?)男が、関係を持ってしまうのだが、作者は男女関係、特にその始まりについて、あまり重い意味を感じていない、そう見えるがどうか。

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ワーグナー「ニュルンベルクのマイスタージンガー」(メトロポリタン)

2016-09-17 17:52:49 | 音楽一般
ワーグナー:楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」
指揮:ジェウムズ・レヴァイン、演出:オットー・シェンク
ミヒャエル・フォレ(ハンス・ザックス)、ヨハン・ボータ(ヴァルター)、マネッテ・ダッシュ(エファ)、ヨハネス・マルティン・クレンツレ(ベックメッサー)、ポール・アップルビー(ダフィト)、カレン・カーギル(マグダレーネ)、ハンス=ペーター・ケーニヒ(ポ-クナー)
2014年12月13日 ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場 2016年4月 WOWOW
 
マイスタージンガーを映像で見るのはずいぶん久しぶりだ。この前に見たのはおそらく1988年ミュンヘンオペラが来日したときに放送されたものだろう。指揮はサヴァリッシュ、演出はエヴァディング。
詳しいことは覚えていないが、気持ちよく見ることができたように思う。
 
さて今回、やはりメトロポリタンの舞台と合唱、そしてレヴァインの指揮、これらが組み合わさって、この壮大な作品が見事な舞台になった。オットー・シェンクの舞台は、嘗てカルロス・クライバーの指揮でやはりミュンヘンオペラの来日公演「バラの騎士」で見たように、意識して現代ではなく、時代にあった舞台ではあるがすっきりしたもので心地よく進行を追うことができる。
 
迫力ある見どころは最期の歌合戦の場面だが、前夜の大騒ぎになるところ(ここでも合唱は威力を発揮する)、それが終わって夜警が一人という変化の妙、そしてザックスの部屋で、徒弟、ヴァルター、ベックメッサーが交錯して職人、詩人そして音楽について主にザックスによる議論が展開されるところ。それにここでザックスが決してものわかりのいい聖人ではなく、慕ってくるエファへの思いを断ち切れがたい男やもめ、このあたりが見どころ、聴きどころで、フォレの歌唱、演技は見事。未練ある「おとこ」だから、このくらい若い声でいい。
 
ヴァルターのボータ、歌唱はいいけれど、姿が、、、横幅が大きすぎ。エファのダッシュは地味だけれど、この役はこれでいいのだろう。クレンツレのベックメッサー、風貌などちょっといい人風にも見えてしまうのが残念。でも作者は脚本でもっと強い敵役にしてもよかったと思うのだが。
 
レヴァインは復帰後そう経ってないと思うのだが、この長丁場で指揮はよどみなく、快適に楽しむことができた。気がついてみるとあの第一幕への前奏曲の好きなところは、フィナーレの歌合戦でバックに流れる部分でもあり、あの「実は、ほらね」というようにゆったりと変わっていくところは、メトのオケ、レヴァインの指揮も見事。これまで聴いた演奏で、カラヤン:シュターツ・カペレ・ドレスデンに次ぐ(並ぶに近いか?)もの。それにしてもカラヤンとドレスデン、この一度だけのの組み合わせはかのバルビローリの都合が悪くなって実現したというのだが、本当だろうか。
 
こうして作品も演奏もよかったのだが、そこでちょっと立ち止まると、いろんなことを考えてしまう。
最後のザックスの歌にもあるように、マイスター(職人)を尊び、同時に詩と音楽が必須であって、それをドイツの誇りをもって守り進めていこう、ということは、立派だし文句がないように思える。しかしこの中に、ドイツに対する脅威がせまり云々とあり、それはこの作品が生まれた1868年の直後、それから数十年、まさにそのとおりであった。
 
ワーグナーがドイツに与えた陰のもの、と言えば「指輪」の特に「神々の黄昏」あたりのニヒリズムが言われる。私も「ワルキューレ」は好きだが、「黄昏」は嫌いである。そしてこの「マイスタージンガー」も、その陽の面が、他国から見れば何か不気味なものとなってくるのではないだろうか。特にこの今、それは感じてしまうのである。



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ジャズの名録音(ルディ・ヴァン・ゲルダー)

2016-09-08 14:56:15 | 音楽一般
9月5日の日本経済新聞文化欄に、ジャズの名録音を多く残した録音技師ルディ・ヴァン・ゲルダー(Rudy Van Gelder)が91歳で亡くなったとの訃報が載っていた。
 
ジャズは若いころから多少聴いてはいたものの、クラシックに比べると買ったLPレコードやCDも圧倒的に少なく、所有しているそこそこの性能のオーディオ装置もクラシックに向いたものに自然になっていたと思うから、録音技術、録音技師といってもクラシック畑で多少知っているに過ぎない。
 
記事によると、1950年代からニュージャージーの自宅でジョン・コルトレーン、ソニー・ロリンズ、マイルス・デイビス、セロニアス・モンク、アート・ブレイキーなどの録音を実施し、それは複数の名門レーベルから出ているという。
 
そこで、もしやと何枚かのLP、CDを見てみたら、なんとこれはというものの多くがこの人の録音だった。なかでもロリンズの「サキソフォン・コロッサス」というアルバム(LP)、最初の「セント・トーマス」を聴きはじめたとき、なんだこれはと文字通りぶっ飛んだ記憶がある。もちろんロリンズのテナーサックスの音にである。ただその時は録音がいいからと思ったわけではない。それがゲルダーの腕だろう。

記事にもあるように、個々の楽器が目の前に出てくるような手法で、スタジオのいい席でバランスよく全体を聴くというのではない。ただ、こういう数人の演奏ではソリストが入れ替わっていく部分が多いから、こういう方が効果的だと思う。
 
他にも、CBSに移る前のマイルス・デイビス(バッグス・グルーヴなど)や、最近時々聴いている(これはCDだが)「Somethin' Else」、後者の「枯葉」では、録音によっては痩せて聴こえるマイルスの音に艶があり、そのあとに続くキャノンボール・アダレイのアルトサックスがなんとも生々しく、聴きほれる。
これからも、録音データをもう少しよく見てみよう。

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海街diary

2016-09-05 21:55:42 | 映画
海街diary (2015、128分)
監督・脚本:是枝裕和
綾瀬はるか、長澤まさみ、夏帆、広瀬すず
 
鎌倉の古い一軒家で暮らす四人姉妹、この配役、監督冥利につきるだろう。
 
三人の姉妹の父親が他の女性と家を出てしまい、母も再婚、なぜか三人だけで住んでいる。そこへ父の訃報が入り、異母妹がいることがわかり、一緒に住むことになる。
 
上の三人はもう務めており、四人目の妹は中学生。その後家族関係でそれほど大きな動きがあるわけではないが、そこは昔の日本映画の魅力に通じるというか、淡々と見せていく。長女(綾瀬はるか)と末の妹(広瀬すず)がかかえる問題が、それほど深刻ではないのだが焦点となっている。故人で遺影も見せない父が、背景である程度の存在感を示すかたちになっており、それが見るものに、少し考えさせるしかけになっている。
 
テレビドラマ2回分くらいでもいいようなものだが、最初から最後までこの文字どおり海街のはなしであれば、1回で見る映画がいいのかもしれない。カメラアングルには心地よい工夫がいくつかある。
 
綾瀬はるかは長女の安定感とその裏にあるあせり、いらだちをほのかに感じさせる。
広瀬すずはテレビドラマでその光る風貌と演技は認識しているが、この映画では抑えた演技と、そこから突然出てくるこの役の年齢特有のエクセントリックなところが、やはり大したもの。体のなかにある力を感じさせる生まれながらの女優。
 
私は長澤まさみのデビュー以来のファンだけれども、映画は久しぶり。今回の役は少し引いたかたちだが、時にちょっとはじけすぎる二女を過不足なく演じている。どきっとする容姿の見せ方も、この映画の調子の中で、いいアクセントになった。女優はこうでなくちゃ。
夏帆は4人の中では一番地味な役割だが、終わってみると全員の触媒というか、意外な見せ方の演技であった。ヴィジュアル的には十代の映画やCMの時が一番だが、今後もいい演技を見せてくれるかもしれない。
 
何人か出てくる男の俳優も悪くはないが、やはり女性がうらやましい。

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