盲目物語 : 谷崎潤一郎 著 新潮文庫
先の「吉野葛」と同じ1931年の発表、文庫にも一緒に収められている。
織田信長の妹お市の方の半生が、彼女に按摩や音曲で仕えた盲目の奉公人の口を通して語られる。語り部は話からすると1552年生まれ、語っているのは大阪夏の陣があって、家康の死のすぐあとということで、1617年である。
お市の方の悲しい生涯は、私もいくつかの大河ドラマなどでいろんな角度から知ることとなったが、戦国の題材として作家側からすると、もっとも意欲がわくものであろう。
信長の妹、浅井長政に嫁ぐが、信長からすると政略結婚の一つであり、越前朝倉に対抗する布石であったはずが、浅井も朝倉との縁を捨てきれず、長政は結局信長に攻められ自害、お市と娘三人は生きて逃れる。お市に恋慕する秀吉でなく柴田勝家に嫁ぐが、これも秀吉とのせめぎあいで夫婦は自害、娘三人は生き残り、長女茶々は淀君として秀吉の子秀頼を生み、三女小督(江)は徳川秀忠の子家光を生むことになる。この血筋は後々まで続き、また多くの物語を生むことになる。
これも物語の形式という観点からすると、作者がすべてを見渡し三人称で書くのではなく、この奉公人に語らせることで、出来事、その空気がより臨場感あるものとなっている。しかも盲目であることから、音や触感について豊かな表現が綴られようになる。
これまで何度か言及している批評理論入門でも書かれているように、これはメアリー・シェリーの「フランケンシュタイン」があの怪物、それを作ってしまった主人公に会った探検航海者が姉に向けて書いた手紙という形をとることによりより自由で豊かな表現を獲得しているのに通じるところがある。
文章は切れ目が少なく、改行と改行の間が数ページにゎたることもある。「春琴抄」ほどではないが句読点は少ない。文章のリズムが作者の意図通り保たれる自信があるのだろう。
この文庫の解説はなんと井上靖であるが(そういう時代に文庫になった)、そこで書かれているように、やはり谷崎は物語りの作家であり、その物語は女性に向かっている。
先の「吉野葛」と同じ1931年の発表、文庫にも一緒に収められている。
織田信長の妹お市の方の半生が、彼女に按摩や音曲で仕えた盲目の奉公人の口を通して語られる。語り部は話からすると1552年生まれ、語っているのは大阪夏の陣があって、家康の死のすぐあとということで、1617年である。
お市の方の悲しい生涯は、私もいくつかの大河ドラマなどでいろんな角度から知ることとなったが、戦国の題材として作家側からすると、もっとも意欲がわくものであろう。
信長の妹、浅井長政に嫁ぐが、信長からすると政略結婚の一つであり、越前朝倉に対抗する布石であったはずが、浅井も朝倉との縁を捨てきれず、長政は結局信長に攻められ自害、お市と娘三人は生きて逃れる。お市に恋慕する秀吉でなく柴田勝家に嫁ぐが、これも秀吉とのせめぎあいで夫婦は自害、娘三人は生き残り、長女茶々は淀君として秀吉の子秀頼を生み、三女小督(江)は徳川秀忠の子家光を生むことになる。この血筋は後々まで続き、また多くの物語を生むことになる。
これも物語の形式という観点からすると、作者がすべてを見渡し三人称で書くのではなく、この奉公人に語らせることで、出来事、その空気がより臨場感あるものとなっている。しかも盲目であることから、音や触感について豊かな表現が綴られようになる。
これまで何度か言及している批評理論入門でも書かれているように、これはメアリー・シェリーの「フランケンシュタイン」があの怪物、それを作ってしまった主人公に会った探検航海者が姉に向けて書いた手紙という形をとることによりより自由で豊かな表現を獲得しているのに通じるところがある。
文章は切れ目が少なく、改行と改行の間が数ページにゎたることもある。「春琴抄」ほどではないが句読点は少ない。文章のリズムが作者の意図通り保たれる自信があるのだろう。
この文庫の解説はなんと井上靖であるが(そういう時代に文庫になった)、そこで書かれているように、やはり谷崎は物語りの作家であり、その物語は女性に向かっている。