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「『資本論』の中におけるマルクスの心情」 その12

2014-11-06 20:21:55 | Weblog

 金沢21世紀美術館の人気展示、水槽の中に人間。

 鵡川町などでイワシの大群が浜に打ち上げられたと報道されています。地震など不吉なことの前兆などという人もいるようですが、私が小学生の頃、50年近く前に釧路の浜でもありました。高波が押し寄せる中、ピチピチはねる活きのいいイワシを拾って帰ったら、母親に褒められました。また、釧路川にサンマの大群が押し寄せたこともあります。岸壁からバケツにひもを付けてすくうとサンマが面白いように採れました。昔は、危ないからやめなさいなんて言う大人はいませんでした。あまり神経臭く考えてはいけません!

 

 「『資本論』の中におけるマルクスの心情」 その12

 第二四章「いわゆる原初的資本蓄積」第七節「資本蓄積の歴史的傾向」では、資本主義社会の成立までの歴史とその限界、それに代わる社会についてのイメージが示唆される。

 (P571)「資本の原初的蓄積は、直接に生産する者たち(農民、職人など)の財産剥奪を意味している。自分自身の労働によって成り立っていたような私有財産の解体である。」これは、(P573)「個人がばらばらにもっていた生産手段が、社会的に集中された生産手段に変えられることであり、多数の民衆の土地、生活手段と労働手段の収奪こそが、資本の前史」なのである。さらに、マルクスはこの資本主義社会の誕生について「いかなる容赦もない暴行によっておこなわれ、不潔きわまりなく、汚辱にみちた、けちくさく醜悪な情熱に駆り立てられていた。」と言葉を尽くして批判的に表現する。

 次に、(P574)「資本制的生産に内在する法則である資本集中の法則」によって、「少数の資本家による多数の資本家の財産収奪、労働プロセスにおける共同作業の形態の発展、科学の意識的な技術への応用、すべての民族が世界市場のネットワークに組み込まれる。」と資本主義社会の歴史的傾向について粗描する。

 そして、「資本の独占は、生産様式そのものを束縛しはじめる。生産手段の集中、労働の社会化は、ついにその資本制的な被膜と合わなくなるところまでくる。そして、この被膜は吹き飛ばされる。」ここで遂に、マルクスは声高らかに「資本制的私的所有の終わりを告げる鐘が鳴る。収奪者たちの私的財産が剥奪される。」と宣言する。

 資本主義社会が独占段階で行き詰まり、資本主義社会の終わりが宣言されるが、ここには論理的な飛躍があり、次の社会への変革プロセスなどは示されていない。マルクスの主観的願望といって良いであろう。ここに、マルクスに続く後世の世代が、「革命」を必然的なものと思い込んでしまった原因があったと考える。

 さらにマルクスは、(P575)「個人が自分の労働によって得た、分散化した私的所有が資本制的な私的所有へと変わっていったプロセスは、すでに社会的な生産経営に現実に依拠している資本制的所有が社会的所有へと変わるプロセスに比べれば、比較にならぬほど長く、苛烈でかつ困難をともなう過程であった。先の場合には、少数の略奪者によって膨大な民衆が搾取された。それに対して今回は、少数の略奪者を民衆が略奪するのである。」と結ぶ。

 まさに、体制転覆ということになるが具体的な方法論には触れていない。民衆が略奪者を略奪する、否定の否定ということになるが、その後がどのような社会を目指すのかといったイメージ、それを実現化する方法については何も語っていない。自分で考えろ!ということである。

 そして、この章の最後に、(註252)「産業の進歩は、競争によって労働者を孤立させる代わりに、アソシエーションによる彼らの革命的統合をもたらす。巨大産業の発展とともにブルジョアジーの生産の基盤、彼らが生産物を自分たちのものとしていた基盤が、彼らの足もとから取り払われていくのである。要するにブルジョアジーは自分たちの墓彫り人を作り出しているのだ。今日ブルジョアジーに対立しているいっさいの階級のうちで、プロレタリアートだけが現実に革命的な階級である。」とカール・マルクス、F.エンゲルス共著『共産党宣言』から引用している。

 これが、「正義を装った頽廃」(吉本から)集団、前衛党の結成根拠である。残念ながら、否幸いなことに、私の会社のまわりの同僚で、現実社会を手放しで肯定しないが、この前衛党と称する集団の言っていることをそのまま信用しているものも皆無であると言える。ここが思案のしどころである。

 

 

 

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