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中沢新一編著 『吉本隆明の経済学』 その2 

2014-11-22 20:22:42 | Weblog

 以前、金沢城址には金沢大学があったが、大学の移転後公園として整備が進み、城の一部が復元されている。北陸新幹線の開業がせまり、都市の魅力を必死でプロモートしようとしていることが伝わってきます。

 最近、無意識のうちに腕組みをしている自分にハッとすることが多いと感じています。会議や打ち合わせで腕組みは相手にいい感じを与えないと思っています。腕組みは、何にも考えていないのに考え深そうなポーズをしているような、自分に自信が無いので身構えているような、また自分の弱さを隠す完全な自己保身にも見えます。胸襟を開くという言葉がありますが、腕組みをやめようを今のテーマにしようと思います。

 

 『吉本隆明の経済学』(中沢新一編著 筑摩選書 2014年刊)その2

第五章 都市論

「像としての都市―四つの都市イメージをめぐって」(1992.1.21、日本管主催の講演)

 資本主義が消費資本主義の段階に入り、都市設計にクレオール化現象(稚拙化)が発生している。吉本の都市論の鍵は「視線」にあり、都市を視線の構造によって四つの系列に分ける。

 第一系列:低い住宅が並ぶ下町の市街地。人は身長の高さの水平な視線と、真上からくる視線とを同時に用いて都市の自立像を得ている。

 第二系列:ビルとビルの谷間につくられた人工的な広場。水平な視線に、下から上を見上げるしかない垂直な視線が交わっている。

 第三系列:異化領域とも呼ばれる。サービス業のためのビルの屋上に畑や林が設けられ、壁面に緑が植えつけられ、そこにハイテク工場が同居したりする。見上げた屋上から自然的(第一次産業的、排泄的)な要素が下に向かって落ちてくるような、ねじれた視線構造が生まれる。吉本が、一番興味を持っている系列であり、あとで氏の言う「超資本主義」の段階に関わってくる。

 第四系列:ビルの密集地帯で、高層階から別のビルを見たとき、いくつもの視野が上空で重なり合っている感覚が生まれる。上空にある視線同士が重なり合っている構造である。(以上、中沢氏解説から)

第六章 農業問題

「農村の終焉―〈高度〉資本主義の課題」(1989.7.9、「修羅」同人主催、長岡市で行われた講演)

 先進資本主義国においては、農村そのものがいずれ消滅に向かっていく。それは、農業が天然自然を直接相手にする産業だからであり、交換価値を価値増殖の原則とする資本主義では、農業が貧困化していく。

 吉本氏は、エコロジストや有機農法家に対して批判的だった。自然史の過程のように必然的であるものに対しては、それを受け入れた上で、出てきた問題についての対処を考えなければならない。自然史過程に逆行していても「オルタナティブ」なものがすぐさま可能であるように言う主張には、批判的であった。(以上、中沢氏解説から)

 農業問題に対しては、吉本自らが認めているように素人であり、『農業白書』の解説のような講演を行っているが、そこでは何事も語っていないし、凡庸で陳腐なものである。吉本は、農業からはもっとも遠いところにいる人であり、都会の人であり、東京の人だと思う。

第七章 贈与価値論

①「贈与論」(『母型論』 学習研究社 1995年刊)

②「消費資本主義の終焉から贈与価値論へ」(『マルクスー読みかえの方法』 深夜叢書社 1995年刊)

 吉本の贈与論は二つのタイプがある。一つは、未開社会の贈与慣行をめぐるものであり、国家の発生を結びつけた考察が展開される。

 未開社会では、母方の叔父に威信があり、父親の存在は影が薄い。これは、母親は出産をつうじて根源的な贈与をもたらす存在であり、それに比べ、父親の存在は形而上学的な意味しかもたない。「贈与は遅延された形而上学的な交換である」とされる。

 未開社会での贈与関係はいつも揺らいでいる。この揺らぎを停止させ、関係性を固定化する動きの中から国家が発生する。このとき贈与は貢納に変わり、その拡大がディスポティズム(専制)的国家を生み出す。

 もう一つは、消費資本主義の終末以後の人類史に関わる。消費資本主義は最終的に、交換価値のみによる先進資本主義の地帯と農業により食料を供給する地帯に分割される。その絶対的非対称を解消するためには、消費資本主義の地帯は食料調達地帯へ無償の贈与を行わなければならない。そうなると、交換価値が消滅し、贈与価値が問題になる。(以上、中沢氏解説から)

 吉本は、贈与価値は資本主義の始源にあらわれ、その後姿を消すが、資本主義の終末期である消費資本主義の中に再び姿をあらわすと言い、資本主義の次の社会のイメージに贈与が重要なポイントであることを示唆する。

第八章 超資本主義論

①「超資本主義の行方」(『超資本主義』 徳間書店 1995年刊)

②「世界認識の臨界へ」(『世界認識の限界ヘ』 深夜叢書社 1993年刊)

 1990年代半ばからのこの国の不況期にケインズ的政策は誤りである。消費資本主義の段階に入っている国では、公共投資は教育、医療、福祉などの第三次産業に向けなければならない。

 消費資本主義社会のほんとうの主人公は国民と企業体であるが、「支配の思考」は、それらがそのことに気付き、その意思を政治に直接反映させようとする事態を恐れている。それを超えると、超資本主義の段階に入る。

 吉本氏は、超資本主義の世界を、「アフリカ的段階」の要素を保存したままの世界、すなわち人間の心の原初構造がハイパー科学技術と結合した未来をイメージしていた。(以上、中沢氏解説から)

 

 根源的なところで吉本は詩人であると思う。詩人的であることによって、独創的な発想をするが、アカデミックな論理性には今ひとつ欠けている。吉本は、詩、文学批評、言語論、宗教論、史論など広範囲に思想を展開し、また現実社会への発言などを行ってきたが、なぜか社会学などの一部を除いて学会で氏の思想が論争になったことはないのではないか。学会では、吉本思想は、無視され評価の対象にすらなっていない。それは、吉本の思想が詩的発想から始まるゆえであり、氏の思想は常にモヤモヤと霧がかかったようなところがあって、肝心なところに論理的な飛躍を感じてしまう。しかし、それ故、吉本はこれまで誰も到達したことの無い領域で、誰も考えたことの無い仕事をしたのだと思う。ザクッとしているが氏の中には未来社会を構想するヒントが存在していると思う。


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