晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

「『資本論』の中におけるマルクスの心情」 その13(最終)

2014-11-11 19:52:23 | Weblog

 金沢21世紀美術館、水槽の中から上を見るとこのようになります。見ている人が見られている。見られている人が見ている。人間が動物を見るのでもなく、動物が人間を見るのでもない。人間が人間を見て、見られるのです。

 ここ数日、「正義を装った頽廃」(吉本隆明から)という言葉にこだわっています。「進歩」や「ヒューマニズム」という言葉にも権力性を感じます。

 

 「『資本論』の中におけるマルクスの心情」 その13(最終)

 第一巻の最終章は、第二五章「近代植民理論」である。マルクスが直接に書いた『資本論』第一巻の最後は、「しかし、ここでわれわれが論じたいのは、植民地の状況そのものではない。われわれにとって唯一の関心の対象は、旧世界の経済学が新世界において発見し、はっきりと公言している秘密なのである。その秘密とは、資本制的な生産と蓄積の様式が、言いかえれば、資本制的な私的所有が、自己自身の労働に依拠している私的所有を破壊すること、つまり労働者の財産収奪を条件としている、ということである。」と結ばれる。

 資本主義社会には、労働者の私的所有を破壊し、資本家が労働者を搾取する自由がある。労働者の子は生まれながらにして労働者である。

 『資本論 第一巻 ㊤』(今村仁司・三島憲一・鈴木直訳、筑摩書房マルクス・コレクションⅣ 2005年刊)の冒頭に戻る。

 マルクスは『資本論』の刊行にあたり第一版序文の結びで(P11から引用)「科学的な批判であれば、私はあらゆる批評を歓迎する。しかし、私はいわゆる世論なるものには、私は一度も譲歩したことはない。世論の偏見に対してはいまもなお偉大なフィレンツェ人の格言がまた私の格言でもある。(汝の道を行け、そして人びとの語るにまかせよ!)」と述べる。

 ここに、『資本論』の刊行に当たってマルクスの決意が示されている。『資本論』に至るまで数々の著作を刊行し、実践活動を行って来る中で、数々の理論的な対立があった。しかし、この社会の本質を明らかにするというマルクスの揺るがぬ決意が示されている。

 ほぼ1年かけて『資本論』第一巻を自分なりの読み方だったが読み終えた。私が、マルクスの心情が溢れている部分に注目して読もうとしたのは、資本の論理の方は『資本論』が刊行された約150年前と比べて現代ではかなり変質していると思われるからである。しかし、近年は、ひところに比べて資本の暴力性が再び露わになってきており、マルクスの心情に学ぶべきところも多いのではないかと思ったからである。

 マルクスがわずかしか書き残していない資本主義社会に代わるオルタナティブ、次の社会を考え続けたいと思っている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする