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『教育をめぐる虚構と真実』 その2

2011-09-06 20:43:01 | Weblog

『教育をめぐる虚構と真実』(神保哲生、宮台真司著 春秋社 2008年刊)

 

その2 誰も知らない教科書検定の正体(浪本勝年、神保哲生、宮台真司の対談)

 

 対談では、教科書検定の仕組みが説明され、実際の検定実務を行なっている文部科学省の教科書調査官のレベルが低いとか、他国の制度と比較してより望ましい制度などを議論している。特筆すべきは、この国で一年間に出版される書籍の全部数は、約72000万部、うち教科書は1900万部で15%を占め、300数十億円のマーケットということである。

 

 対談では触れられていないが、子どもの頃、教科書を販売している書店は釧路市内では毎年同じだったと思う。使う教科書の出版社もいつも同じだったと思う。単価の高くない書籍だから利幅は薄いのだろうが、堅い商売が成り立っているのだろう。

 

 これまでの教科書に関する議論は、検定制度を前提としたそれも社会科における歴史の記述内容を巡る物が中心であったが、それはそれで大変重要な論点を含んでいるが、私は、そもそも学校で検定教科書が無いと授業が成立しないのだろうか、教師が自分で子どもたちのために良かれと思う本を使って授業ができないのだろうかと問いたい。

 

戦前の国定教科書、戦後の検定制度は、ともに国家の要請による教育を前提としている。国家の関与によって、全国で標準的な教育を受けることができるというメリットもあるが、教師はマニュアル(学習指導要領)に従う個性なき教育ロボットにならなければならない。

 

「国民国家の黄昏」を言ってきた私は、あらゆる分野で出来る限り国家の役割を縮小、無力化し、国家無き社会を構想したいと思う。検定(国定)教科書を無くした場合は、教師の力量によって教育内容に格差が生じる可能性があるが、そのリスクは自らが負わなければならないと考える。中央集権を見直し分権化を進めることと同じくそこには自己責任が伴う。

 

例えば、家永三郎を使う教師、小林よしのりを使う教師がいても良いだろう。ただそこには学校や教師を選択できる制度も合わせて導入する必要もある。

 

現に私立学校は存在しているが、国家の庇護を取っ払った制度は、なんと厳しいものか。

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