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『教育をめぐる虚構と真実』 その1

2011-09-03 21:51:53 | Weblog

ようやく土曜日。紀伊国屋書店で本探しの後、イノダでケータイに案内のあった「ヒレポークコルドンブルー」を食す。ボリューム充分で美味。苦味のある独特のコーヒーで一服。

 

 

『教育をめぐる虚構と真実―教育をダメにするものー神保・宮台 激トーク・オン・デマンドⅥ』(神保哲生、宮台真司著 春秋社 2008年刊)

 

その1 いじめをなくす処方箋(内藤朝雄、神保哲生、宮台真司の対談)

 

 札幌市内でいじめが原因とされる中学生の痛ましい自殺がまた発生した。若い命が本当に惜しい。いじめは大変デリケートな問題なので慎重に議論するべきであると思うが、これまで様々な提案がありながらも解決できていない問題である。

 

 本書における対談は、従来からの言説と少し観点が違う。(以下、要約する。)

 

 いじめによる自殺の原因は、子どもたちが教室という共同体から逃げることができない、嫌なことがあっても再び教室に行かなければならない制度にある。諸外国における学校の形態を比べると、日本や韓国は共同体型、他は教習所型である。共同体主義のベタベタした距離感が問題である。

 

 学年別いじめ発生件数は、日本では中1、中2がピーク、中3で激減する。他国は、小5、小6がピーク、中学校で減少する。その要因は、日本では中学校に入ると制服の着用など共同体帰属意識を高めようとする方向に強制されるからである。他国は日本とは逆に共同体主義からの自由と自己責任を教えられる。中3で減るのは、自己に向き合わざるを得ない受験勉強の効用であり、中高一貫教育は高校入試が無くなる点では良くない。

 

 いじめの解決策としては、学校の内部に警察や司法が介入し、いじめた側を処罰すべきである。

 

 また、いじめやパワーハラスメントなどは、「言ったもの勝ち」であってはいけない。過剰な当事者主義(個人主観)は問題であり、共同主観によって判断されるべきである。(要約おわり)

 

 

 昨日までは、共同体のあり方の中に理想社会のイメージを持てないかと考えてきたが、いじめ問題からは、人間による共同体の難しさを感じる。人と人との距離感、共同体自体の開放性(閉鎖性)も課題である。

 

 警察や司法の介入による解決は、私自身には抵抗感がある。この対談の中で、それに抵抗感を持つのは、学校を権力からの聖域として捉えてきた左翼に共通する病理と批判されている。大学の自治とは質が違うということを認識しなくてはいけないのか。批判を承知で言うと、私の気分は、権力に魂を売り渡したくはないというものである。

 

 従来からの私の主張は、「渾身の一撃」論である。暴力絶対否定ではなく、暴力を行使する権利を留保するべきであると考える。死ぬ勇気があるなら、いじめた側を一発痛い目に合わせてやれ!と、もう二度といじめたくはないと言う位に。

 

 復讐か、権力による断罪か、いずれにしても教育的配慮という名でいじめた側を守りすぎているのではないか。


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