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『福島の原発事故をめぐって』

2011-09-18 17:38:25 | Weblog

『福島の原発事故をめぐって いくつか学び考えたこと』(山本義隆著 みすず書房 2011年刊)

 

 これまで時局についての発言をほとんどしてこなかった著者が福島の原発事故を取り上げ論評を行なった。(参考までに山本義隆氏は、’70安保闘争における元東大全共闘議長、将来のノーベル賞候補といわれた俊英な物理学徒だったが、闘争の終焉以降駿台予備校の講師をしながら科学史を研究、近年は沈黙を破っ『磁力と重力の発見』『16世紀文化革命』などの著作を著した。)

 

 著者が「あとがき」で語っているように、本書には「特別にユニークなことが書かれているわけではありません」。3100ページほどにコンパクトにまとめられているが、第1章「日本における原発開発の深層底流」では、平和利用が軍事利用と表裏一体であり、この国は潜在的に核兵器保有の願望を持ち続けていること。しかるに、原発政策は外交・安全保障政策の面から周辺諸国の脅威になっていることを述べる。

 

 第2章「技術と労働の面から見て」では、高木仁三郎、吉岡斉、平井憲夫(元原発技術者、ガンで死去)などの業績をなぞり、技術の脆弱性、労働の非人間性を述べる。ここまでは、3.11以降に類書があまた出版されているが、特筆すべき内容は無い。福島原発の現状については私が追いかけている小出裕章氏の発言の方がわかりやすく捉えていると思う。

 

 第3章「科学技術幻想とその破綻」こそ、本書の、科学史家としての著者の真骨頂部分であるはずだった。著者は、現代の西欧近代文明一辺倒社会に対して、これまで『磁力と重力の発見』『16世紀文化革命』などの著作を通じて、イスラム社会における科学技術の発達史や16世紀における技術や経験重視の価値観への転換に光を当ててきた。

 

 15世紀以前には、技術は自然には到底及ばないと考えられていたのだが、17世紀頃からは、技術が自然の上位に立ったような観念が芽生えたという。なお、ここで技術を人間、自然を神と読み替えると面白い。

 

 そして3.11、著者は、「近代科学は、おのれの力を過信するとともに、自然に対する畏怖の念を忘れさっていた」という。何と後知恵で凡庸なコメントなのだろうか。さらに、「科学技術には人間に許された限界がある」、「私たちは古来、人類が有していた自然に対する畏れの感覚をもう一度とりもどすべきであろう。」と言い、3.11以降、著者の中に「神」が再来したことを表明している。

 

 山本義隆、私たち後に続く世代にとっては、絶対に人を裏切らない「義」の人としてカリスマ性を持っていた。やはり、時流に乗ったような発言は控えるべきだったのではないか。

 

 私は、安易に後知恵で語るものを信用しない。今回の事態を基に技術に関わる者は徹底的に考えるべきであろう。特に、遺伝子や臓器移植、脳科学、クローン技術などの生命科学、原子力、核融合などエネルギーなどの先端分野では、安易に「人間に許された限界」(倫理や神)を設けるのではなく、人間と自然をどう捉えるかという観点から思索し続けるべきであろう。

 

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