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震災募金をするコンサ選手、中山選手と握手しているのは私だが、突如前におじさんが出現しピンボケに。私の「サッカーもがんばって!」に対して、ゴンちゃんは「どうもありがとうございます」と応えてくれました。左は、砂川誠選手。
民放は、「東日本大震災」と言っていますが、なぜか犬HKだけは「東北・関東大震災」と使っていますね。
今から30数年ほど前の事だが、工学研究者だった恩師が晩年に「僕は最近、技術というものがわからなくなってきたよ。」と口にしていたことを覚えている。その言葉が何を思ってのことなのかはわからないのであるが、この国の高度経済成長と共に技術も一直線に進歩してきたのが、公害問題(環境問題とは言わなかった。)がクローズアップされ、巨大技術が行き詰まりを見せていた頃であったと思う。
1981年12月9日、北海道電力泊原子力発電所1,2号機第1次公開ヒアリングが北海道における原子力発電への端緒だったのであるが、旧泊中学校体育館の周辺を「実力阻止!」を叫びながらデモっていた中、私はこう考えていたことを思い出す。
この反対派の論理には幾通りかあるなと。①ひとつは、原子力はそもそも人間になじまない、人間が手を染めてはいけない領域なのだ、というものである。
②もうひとつは、現在の人間の技術が未熟なのだから危険なので、技術が進歩すれば必ず制御できる、というものである。
③また、電力資本が進める資本の論理のもとでは危険なのであって、資本主義社会でなければ安全なのである、というものもあった。
さて現在を見ると、
①今日の先端技術の領域、核融合、遺伝子操作、臓器移植、バイオ、ナノテク・・を眺めるとその進歩の驚くと共に人間にとって制御が可能なのかなと思ってしまう。
②今回の原発のような事故を目の当りにすると、ノーベル賞受賞でせっかく取り戻したかに思えた技術への信頼がまた揺らいでしまうであろう。
③とりわけ電力会社の下請会社(テレビでの関連会社という言葉こそその本質を覆い隠そうという意図を感じる。)における原発労働者の使われ方などにおいては、資本の論理は現在も貫徹されている。
しかしながら、今の私は、技術への懐疑、迷いはあるのだが、思考のベースには、超常現象などを否定する合理主義、神を必要としない現実主義、人間の歴史に信頼を置く進歩主義がある。
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