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奥泉光 原武史 『天皇問答』 その1 大正天皇ってどんな人? 有栖川宮威仁親王 山縣有朋 西園寺公望 原敬 御用邸    

2025-03-15 14:21:47 | Weblog

北海道新幹線の札幌延伸が8年遅れて2038年度末になるという。僕ら高齢者たちは、乗れないかも知れないと一抹の不安。そこで、今さら言っても論を2つ。一つは、なぜ難工事が予想された、かつ人口希薄地帯をとおる現ルートを選んだのか。太平洋側の室蘭―苫小牧―千歳の方が良かったのではないか。二つ目は、そもそも新幹線は必要だったのか?新千歳―羽田は90分。新幹線は5時間だ。

 

『天皇問答』(奥泉光 原武史著 河出新書 2025年刊) その1 大正天皇 有栖川宮威仁親王 山縣有朋 西園寺公望 原敬 御用邸 摂政       

今年は、昭和100年にあたる。僕は、明治100年があったことを記憶している。だが、なぜか大正100年は影が薄くスルーだった。では一体、大正天皇とはどのような人だったのだろうか。小説家と政治学者が「天皇」について語り合った。僕が、なるほどそうだったのか!と思った発言を引用する。(*)は僕のコメント。

○神出鬼没の大正天皇(P62~P65)

(奥泉)「大正天皇は皇太子時代、わりと気軽にいろいろなところに行っている。そんなにひょこひょこ出歩くな、とはならなかったのだろうか。」

(原)「あちこち出かけるようになるのは、皇太子(大正天皇)の教育方針に大きな変更があったからだ。東宮輔導になった有栖川宮威仁親王が、皇太子の健康を重視し、実地での学習を兼ねて皇太子が結婚した1900(明治33)年から地方を本格的に回らせた。それとともに、天皇の行幸に見られたような規制を大幅に緩和した。その結果、皇太子は旅行好きになり、行く先々で奔放に振る舞うようになった。突然いなくなるとか突然現れるとか。そして、言いたい放題言った。」

(奥泉)「皇太子時代の大正天皇は結構うまくやっていたとも言える。」「天皇に即位した後も、大隈重信とか原敬とか、政権中枢にいた人たちとの関係はうまくいっていた。」

(原)「大正期の政治家の中でも、山縣有朋みたいに明治を理想とするタイプと、原、大隈のように柔軟に対応するタイプがいて、後者を大正天皇は好きになった。」

(奥泉)「大正天皇は山縣が嫌いだった。」

(*)山縣の天皇観は「玉」というもので、統治の手段としての天皇、そのために有用かどうかだったのだろう。山縣の理想から遠かった大正天皇は、「巻物を丸め、遠眼鏡のようにして覗き込んだ」というような風評を流されたということなのだろう。僕は、とても気さくで普通の人という印象を持った。

 

○大正天皇という人(P106~P110)

(原)「明治が終ったときは第2次西園寺公望内閣だったが、原敬と西園寺が話し合う。大正天皇が頼りなさすぎるのでどうしたらいいか、と。」

(原)「大正天皇は、明治天皇と違うスタイルを築こうとした。天皇になって最初の陸軍特別大演習を1912(大正元)年11月を川越でやるのだが、川越までの道を自分に決めさせろと言う。大正天皇は明治天皇とは異なり思ったことを言ってしまう。」

(奥泉)「大正天皇のほうが自然というか、当たり前の人だね。」

(原)「とにかくおしゃべり好き。」「カメラ好き、写真好き。自分が撮られることに対してもまったく無頓着。」

(原)山縣は、一貫して明治天皇を玉扱いしてきた。これではだめだと、大正天皇にガミガミ言った。」

 

○封じこめられる「大正流」(P111~P115)

(奥泉)「大正天皇が頼りないと支配的エリート層は思っている。一方で、政治の領域では天皇機関説が主流になる。」

(原)「天皇機関説を採れば、大正天皇が少々頼りなくても大丈夫である。一機関にすぎないのだから。天皇の意思が絶対ではないということにしておけば安全。」

(原)「大正天皇には自分なりの考え(大正流)があった。大正天皇は、皇太子時代から葉山、日光の御用邸が大好きだったから、天皇になっても夏と冬は必ず行っていた。ところが時代がそれを許さなくなった。1914(大正3)年の第1次世界大戦、1918(大正7)年の米騒動では、御前会議のため宮中に呼び戻された。あるいは1915(大正4)年の京都での即位の礼と大嘗祭でも、日程を短くしろとか簡素にやれとか言っているが、無視されている。」

(*)そういえば、秋篠宮も現天皇の即位の経費に対して発言している。皇族が、想いを率直に表明すると斥けられる傾向は昔からであり、自由にはものを言えない環境にある。

 

○君主制の危機と新しいイメージ(P115~P117)

(原)「大正天皇は耐えきれずに体調を崩してしまう。だが、周囲は大正天皇を見放し、皇太子裕仁を前倒しして事実上の天皇にしようとした。原も山縣も合意した。」(P65)、そして「1921(大正10)年11月25日、裕仁が摂政になった。」

(原)(P120)「大正天皇が、もしも病気にならないまま在位し続け、山縣をはじめとする明治の元勲たちもみないなくなって『大正流』が定着していたら、全然違っていたと思う。」「神格化なんて絶対なかった。天皇はその辺を歩いていて、気軽に通行人に声をかける。そんな存在になっていただろう。」

(*)歴史に「たら、れば」は無いのだろうが、絶対君主として政治に利用されることもなく京都に戻って俗世間とは距離をおいてひっそりと生活していたかも知れないと思う。

 

 


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