晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

『初期マルクスを読む』 その3

2011-03-26 16:07:24 | Weblog

 大丸デパート札幌店地下1階、UCCカフェメルカードは、いつも混んでいますが、たまに空いている時があります。ここでは、ひとりひとりに違うコーヒーカップで淹れてくれます。

 

 

 春は会社の異動シーズンです。この春は、私も担当が変わったので、自粛ムードとはいえ歓送迎会が多くあり、挨拶の機会もまた多くあることでしょう。

 

 かつての上司から、普段中々顔を合わせない人たちとの会合などでの挨拶は非常に重要であり、紋切り型ではなく、自分をしっかり表現すべきと教わりました。

 

 私も挨拶の内容を随分と考えます。その場の求めに合わせて、そこに集まる人に合わせて、お礼など言わなければならないことを忘れずというところを基本としています。

 

 笑いを取れる人たちか、自分の考えをどこまで言える場か、当たり障り無く行くか、ラディカルに毒を交えるか、悩みどころです。

 

 

 週末ランを継続しています。この時期としては、順調以上に体重が落ちています。正月に比べマイナス3kg!体重計が壊れていなければ良いのですが・・・?

 

 

 

 ノオト その3

 

○初期マルクスの人間観・自然観

 初期マルクスの著作は、1841年マルクス23歳『デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学の差異』、184325歳『ヘーゲル国法論の批判』、『ユダヤ人問題のために』、1843-4426歳『ヘーゲル法哲学の批判・序説』、184426歳『経済学・哲学草稿』、1844-4527歳『ドイツ・イデオロギー』であり、著者はそこにマルクスの人間観・自然観を読み取ろうとしている。

 

○『ヘーゲル国法論の批判』

 マルクスは、近代批判としてヘーゲル批判をする。

 ヘーゲル批判の第一点:家族、市民社会が元になって、そこから国家や国家の理念が出てくるのに、へーゲルでは、理念及び国家が、家族や市民社会を生み出すことになっている。そこには、主語と述語の転倒がある。

 ヘーゲルは、家族、市民社会は矛盾に満ちたものなのだが、最後に国家が覆いをかけて全ての矛盾を解決する。従って、時代が国民国家に向かうことを肯定する。

 

○市民社会と政治的国家の非連続性

 ヘーゲル批判の第二点:ヘーゲルは国家制度が人間を作るとしたが、マルクスは民衆が国家制度を作るとした。

 マルクスは、立憲君主制の方が民主制に比べて抽象的・非現実的な面を持っているとして、民主制の方が現実性を持つとした。

 ヘーゲル批判の第三点:ヘーゲルは市民社会と国家が連続的につながり、国家が市民社会の矛盾を解決し、統一していくとしたが、マルクスは市民社会と政治的国家は非連続性であるとした。この矛盾の解決のために、国民国家とはちがう、新しい共同体を構想する。

 

○マルクスのユダヤ人問題(『ユダヤ人問題のために』)

 ヨーロッパ国家は、キリスト教を国家宗教としていたが、政治的解放とは、国家が宗教から解放されることである。(政教分離)しかし、この政治的解放は、真の人間的解放ではない。

 

○共産主義社会の原イメージ

 政治的生活においてどんなに人権が確立しても、利己的な関係の中で、格差、貧困、差別などの問題が解決されない限り、現実の生活の問題は解決されない。

市民社会と政治的国家の二重性が、市民社会の側から解体・克服されていって、政治的国家の生活が市民社会の生活を豊かにするような方向性を持つ。これを人間的解放という。

 

○人間の解放(『ヘーゲル法哲学の批判・序説』)

 理論は、それが人間に向けて展開されるとき、大衆をつかむことができるが、人間に向けて展開するにはラディカルでなければならない。

 

 

 

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