晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

桐野夏生 『日没』

2023-12-31 14:16:07 | Weblog

2023年大晦日。今年は、週1本アップを目標にしていましたが、結果は30本ということになりました。70歳を前にして脳みその劣化を自覚しています。2006年4月から書き初めて17年余、トータル1386本、閲覧数1,256,732PV、訪問数526,941UUです。人気ブログからはほど遠い絶滅危惧種ブログを読んでいただきましてありがとうございます。来年も自分の脳髄トレーニングと備忘録として続けたいと思います。

 

『日没』(桐野夏生著 岩波書店 2020年刊) 

僕は、ほとんど小説を読まない。登場人物が多くなると途中でストーリーを見失しなってしまうことが多々あるので読むことができないといった方がいい。今年を振り返っても、中村文則『私の消滅』、吉村昭『羆嵐』と本書の3冊しか読まなかった。

では、なぜ急に桐野氏の小説を読みたくなったのかというと、ニューアルした『世界』の2024年1月号で『反社会的で、善なるもの いま小説を書くということ』という桐野氏のインタビューを読んだからだ。桐野氏については、大昔に『OUT』で無慈悲、残酷、悪意の表現がリアルで巧い人だという印象を持っている。それで近くの図書に走った。

『日没』は、桐野氏自身を投影していると思われる小説家のもとに「総務省文化局・文化文芸倫理向上委員会」(通称ブンリン)なる組織から召喚状が届くところから始まる。出頭先に向かうと、海辺の断崖に建つ「七福神浜療養所」に収容され、「社会に適応した小説」を書くよう矯正される。そこでは終わりの見えない闘いが続くというストーリーだ。

『世界』のインタビューにおいて桐野氏は、作家や編集者、出版社が過激、過剰な表現を避ける傾向にあるのではないかという。それは、国家による単純な監視や規制ではない。「国民」の側から発せられる声を国家が意図的に使う場合があり、作品の中に差別的表現があるなどという声を理由にして過去の出版物が図書館の書棚から消えたり、作家が表現の場を失ったりしているという。またこのような社会の空気が表現する側の自己規制を産むという。桐野氏は、表現者として現実にぶつかる壁や現在の社会が向かっている先に危機を覚えている。

では、僕自身がブログを書いている当事者としてはどうなのだろうか。過去に一度だけ炎上したことがある。それは鉄道車両について辛口のコメントをした時に、非難のコメントが殺到したのだ。その時以来、慎重に言葉を選んだり、何回も校正したりしている。批判をする時は、「・・・とも言われている。」「・・という考え方もある。」というように他人の口を借りて言葉にすることも多くなった。

今の世の中を見ても、TVでは複雑な問題も30秒程度で表面的に説明できる人がコメンテーターとして重用されている。マスコミは見えない権力の意図を忖度して、自主規制しているのは明らかだ。一見すると良いことのように思えるが、危うさを感じる動きもある。例えば、ヘイトスピーチ規制法も差別的な言説を許さないという点からは良いことのように見えるが、権力による言論規制の端緒になりかねないという危険性もある。コンプライアンスという言葉も、同じような構造を持っていて、法令遵守、公平・公正にという誰も反対できないことを掲げられると、何事も堂々とまかり通ってしまう考え方だと思う。

この小説の中には『日没』という言葉は一度も出てこなかった。作者はどうしてこの題にしたのだろうか。この国は「日出ずる国」のはずなのだが、このままでは沈みゆく国になってしまうということなのか。

 

 

 


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