晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

野本三吉

2009-05-24 21:29:25 | Weblog
 友人の紹介で入手している高知県馬路(うまじ)村のゆず製品。ゆずの香りがとってもいいです。酸っぱいもの好きの私は、酢の物はもちろん、秋刀魚を焼いたのにも酢をかけています。

 本日は厚別でコンサドーレの試合があったのだが、2週間後のJAL千歳ハーフに向けて練習。コンサの方は、第1クールが終って5位、まあまあ最低限の結果を残しているというべきか。伸びしろの大きい選手達だから今後に期待するとしよう。

 さて、走り込みの方だが、今日はそれほど暖かく無かったのだが、蛇君が歩道で日向ぼっこをしていた。先日も遭遇したのだが、最近蛇が増えていませんか?

 木の枝だろうと思っていたら、直前で蛇ということが判明、ひゃアッと悲鳴を上げて飛びのいたのだけれど、その拍子に五十肩の右肩がギクッと、必死に痛みをこらえるが誰にも説明できないこの痛さ。



 『図書新聞インタビュー 語りの記憶・書物の精神史』(米田綱路編著 2000年 社会評論社刊)その4

 野本三吉(1941年生まれ)には『未完の放浪者として 受けとめ語り伝える暮らしのなかの思想』と題したインタビューを行なっている。氏は、小学校教師や児童相談所職員を経ながら放浪を続け様々な人々の聞き取りをしている。私は氏の著作のうちでは唯一『子ども観の戦後史』(現代書館2000年刊)を読んでいる。

 氏のテーマは子どもであり、子どもを通して社会を捉えるという方法論に立脚している。以下引用するが、氏は、「子どもと関わっていけば、社会性に取り込まれたものではない、初々しい自然性の感覚が取り戻せる。そう考えて子どもと付き合おうと思ったのが原点」という。

 「教育や子どもをどう見るかということが、次の時代、社会像をどうつくりかということと、密接に関係している。子ども観を確立することが次の時代をつくるんだと思う。」

 このことは、真理の一面を突いているのだろうが、そこには「子ども=純粋」という前提を踏まえる中で、その子どもをテーマにしている著者(野本)の思想も純粋だとの欺瞞性が隠れている。絵本作家、童話作家、童謡作家、・・幼稚園や保育園の先生、学校の先生・・など子どもに関わることを生業をしている者たちに共通の臭いがする。

 「やはり現場を離れては考えられない。自分の思想や価値観が生まれてくるというのも、どういう暮らしをしているかとことからしか見えてこない。」

 現場主義に徹して記録をすることの意義は認めるが、同じ野本氏が20代の著作で書いた「多様ゆえに、<異なる>ゆえに、<事成る>世界が生まれる。<革命>とは、<覚命>すなわち<命に目覚めること>だ。」の方が強烈なインパクトを感じる。


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