晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

『吉本隆明―論争のクロニクル』

2014-08-10 20:27:17 | Weblog

 準備、本番、片付け。今年は町内会の役員の当番が当たっていて、夏祭りに時間を取られてしまって、週末の「晴走雨読」生活がままならない。楽しいという人もいれば、半ば義務的にと思っている人も多い。豊作を祈願したり、収穫に感謝したり、先祖を敬ったりと宗教性や歴史性のある祭りは、それなりの意味を持つと考えるが、地域や伝統に根っこのない「ただの夏祭り」というのは、いくら回を重ねても無味乾燥な徒労に思えてならない。

 

 『吉本隆明―論争のクロニクル』(添田馨著 響文社 2010年刊)

 本ブログとリンクしている愛犬日記(2014年6月25日)で本書が激賞されている。

 (以下引用)「思想、哲学に係る批評家連中の本は、ほとんど手にしません。何故なら当該思想、哲学の説明(紹介)であったり、批評家自身の解釈であったり、書かれた時代背景(思想家、哲学者、著者自身)の説明であったり等で・・・・それくらいなら原典を読むべきだ、と。(本書は、)添田馨自身の深い思索の上での洞察、理解、解釈を行い、そのようなに洞察、理解、解釈をした添田馨自らへの立ち位置を透徹した視線で問い質しています。」

 以上の評価を事前に目にしていたので、私は、本書が対象とした論争における論理展開を追いかけるのではなく、著者(添田氏)の吉本思想に対する向き合い方に焦点を絞って本書を読んでみた。その概ねは、吉本隆明の側に立った解説、解釈であったが、所々でその時自分が吉本の考えに対して抱いた違和感や疑問を真摯に表明している。そこが、本書の持つ価値の生命線だと思った。

 私は、興味を持った思想に対して、最初は学ぶ(真似る)姿勢で著者の論理を理解しようとするところから始まる。その後少し距離を置いてみて、これは自分にとって刺激にならないといった場合には、その著者から離れ、なにかしっくり来る感じがあるのであれば、長く付き合うというパターンが多い。思想も人間関係も同じだと思う。

 また、私は、ある思想に対して、随伴しようと、突き放そうとそれは読者の勝手だと考える。しかし、随伴という言葉自体が主体性を放棄しているが、長く随伴してきた思想から離れることで自分の思想が崩壊するとしたら、否、もっというと自身の人格が崩壊するとしたら、それは、●●主義者ということの自己表明だと考える。これは、宗教者、左翼に多いと考える。

 マルクスでも、親鸞でも、吉本でも、それに学ぶことは貴重だと考えるが、●●主義者になってしまうことは自らを失うことに繋がる。

 

 


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2 コメント

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敗戦記念日 (Black Soldier)
2014-08-13 10:40:43
恒例となった『敗戦祭り』の如くマスゴミに「敗戦記念日」特集が溢れています。

真宗大谷派の反戦僧侶、高木顕明「余は非開戦論者である」、竹中彰元「戦争は最大な罪悪だ」、植木徹誠「戦争は集団殺人」(息子の等は「自衛隊後援会」を拒絶)は僧籍を剥奪(近年に名誉回復)、一方治安維持法で検挙された林霊法(浄土宗)、大隈実山、細井宥司(日蓮宗)は宗門からのお咎めなし。

宗祖親鸞聖人はどう思っていることやら?

そもそも聖書の「十戒」と同様に 仏教には釈迦が制定した「五戒」の戒めがあり『不殺生戒(生きものを殺してはならない)』はそのひとつなのですがね。

真宗大谷派を「お東」、「お東さん」と呼ぶ際には、小馬鹿にしている揶揄が含まれている気がします。

祭りは祀りで、何を祀るのかってなことと関係なく、単なる「ハレ」を捏造したイベントが「ただの夏祭り」と呼ばれているのでしょう。

そのような「ただの夏祭り」も、100年、200年続くと地域の伝統、文化になると考えます。

ただ大きな問題が、それまで地域が崩壊せず町内会があるのか、少子高齢化、原発事故、市街地戦等で荒野と化している可能性が大きいと考えます。

真宗大谷派本山と反戦僧侶、国家総動員法、翼賛体制等に関係の無いところで、恒例の『敗戦祭り』が始まっている今日この頃です。
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わかっちゃいるけどやめられない (晴走雨読)
2014-08-18 20:47:49
黒ヘルさん、コメントありがとうございます。

父、植木徹誠は、息子、植木等の「スーダラ節」について、親鸞の教えに通じると評価したと言われている。

「スーダラ節」には、司馬遼太郎とはまた違った大衆の意識が表れていると思います。


それにしても、アへ首相の論理を用いない、はぐらかし説明にどのように抗うべきか。

平成の「ええじゃないか」が必要では?

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