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『言葉からの触手』(吉本隆明著 河出書房新社 1989年刊) その1
古書店で雑多本の山の中から見つける。25年ほど前は、箱入りの本は珍しくなかった。高級感のある装丁。本書の中で吉本隆明は本職の詩人に戻っている。しかるに私にとっては理解不能な文章も多い、また感じることのできないフレーズも多かった。
わずか100ページに満たない。『文芸』誌1985年10月号から1989年春季号まで連載された16章をまとめている。例えば、第1章は、「気づき 概念 生命」となっていて、各章は3つの言葉を並べた標題となっている。
インパクトのあったのは、第11章「考える 読む 現在する」である。以下、出だしの部分を引用する。「知的な資料をとりあつめ、傍らにおき、読みに読みこむ作業は<考えること>をたすけるだろうか。さかさまに、どんな資料や先だつ思考にもたよらず、素手のまんまで<考えること>の姿勢にはいったばあい<考えること>は貧弱になるのではないか。わたしたちは現在、いつも<考えること>をまえにしてこの岐路にたたずむ。そして情報がおおいため後者の方法をにたえられずに、たくさんの知的な資料と先だつ思考の成果をできるだけ手もとにひきよせて<考えること>に出立する。いや、これでさえ格好をつけたいいぐさかもしれない。」
私は、吉本のこの文章を読んで安心した。吉本隆明でさえ<考えること>とはどういうことかと問い、たたずむのである。私は、少しは本を読んでいるからという支えのようなものを持っているのだが、それが果たして自分の頭で<考えること>になっているのだろうか。ただ、著者の思考をなぞっているだけに過ぎないのではないかと常に引っかかりのようなものを感じている。本を読んで本から触発され、薄っぺらく思考もどきのことをするのは習慣化している。しかし、私の<考えること>が前人未到の領域に入ることは決してないであろうことは自覚している。
本など読まない人(否、失礼ながら読んでいるのかも知れないが、私から見ると読まないように見える人としておく。)が、それこそ素手で仕事、生活、商売などの様々な場面で<考えること>をしているのを見る。生きる知恵を持っていて逞しく羨ましくも思えるのだが。
本を読む理由は、<考えること>のきっかけになるから、知識を得ることができて何事かに役に立つから、読むことが楽しいから、本無しでは生きていけないから、私が左翼だから・・その全てである。
なぜ、学校に行かねばならないのか?なぜ、勉強しなければならないのか?なぜ、読書をしなければならないのか?子どもたちも問うているに違いない。
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