テレビを批判することはいくらでもできる。しかし、そのテレビを視ない生活は私にはありえない。テレビというものには魔性が棲む。
『テレビに映らない世界を知る方法』(太田昌国著 現代書館 2013年刊) その2
裁判員裁判で死刑判決が出ている。複数の「市民」がひとりの「市民」を死刑に処するという判断を「合法的」に行いうる時代が、私たちの心性の何を、どう変えることになるか。
国家(=政府)は、人びとの安全な生活を保証してくれる拠り所だという「信仰」が、人びとのなかには、ある。太田氏はこれを疑う。最悪の国家テロとしての戦争を発動し外部社会の他者(=敵)の死を望み、殺人を自国兵士に煽動し命令できること、死刑によって内部社会の「犯罪者」を処刑できることに国家の本質がある。
国家は、個人や小集団を超越した地点で、なぜ他者に死を強いるこの「権限」を独占できるのか。この秘密を解くことが、国家・社会・個人の相互関係を解明する道だ。(2011.8 P48から要約して引用、以下同じ
*最近、比較的身近なところで、裁判員として召集がかかった人がいる。「国家の廃絶」の視点から裁判員制度を見ると、制度自体は国家によるものであるが、これまで裁判を行う権限を国家が独占していた体制が崩れてきて、国家が後景に下がり、「万人の万人に対する闘い」が開始されたものと捉えることができる。
太田氏は、国家を背景にして発言したくは無い、国家なるものは、私自身のアイデンティティを最後まで根拠づけてくれるようなそんざいではない、と言う。たかだか、一世紀半の歴史しかもたない近代国家の枠組にわが身を預けてしまうことの、自他に対する「危うさ」を知った。
(北方)領土問題は、国権の主張では解決できない種類のものである。近代国家の形成以前から、「無主地」であるそこを生活の現場としていた先住民族の共同管理地域として、領土紛争なき自由地とするしかない。(2010.10 P70)
*現在の国家間の領土問題は、国家が前面に立っている限り、武力による解決しか方法がない。ここでも、私は太田氏に同じく、脱国家主権の論理により解決が有効と考える。「国家の廃絶」は夢想ではない。