晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

国民国家の黄昏 その1

2010-12-26 17:31:41 | Weblog

この湿原の向こうに何がある。行ってみよか?

 

 

わたしは今日まで生きてみました

時にはだれかの力をかりて

時にはだれかにしがみついて

わたしは今日まで生きてみました

そして今 わたしは思っています

明日からも

こうして生きて行くだろうと

   「今日までそして明日から」 作詞・作曲by拓郎

 

と唄ったのは、1971年のことで今から40年前、しかし、現在、私たちは昨日までのように明日を生きていくことができるのだろうか。

これに対して、私は、NO!と答える。それは、一体どうなってしまうのかという不安とともに、面白いじゃないかという期待も込めて。

 

北海道新聞1218日の夕刊に、社会学者の大澤真幸氏が「2010年の記憶 露呈した国家権威の二重性」と題する珠玉のコラムを寄せている。(以下、引用する。)

 

「われわれは、2010年を、国家の意義の圧倒的な二重性が露骨に現出した年として、記憶に留めておくべきであろう。一方では、①ポストモダンなグローバル資本主義の下では、人々の国家や国民への帰属意識・忠誠心はどうしても低下していく。人もモノも情報も国境にほとんど関係なく移動し、その役割を果たすからである。(普天間基地移設問題)だが、他方で、②われわれは、決定的な場面では、なお国家に依存し、国家に対して強さと権威とを要請してもいる。(尖閣諸島沖中国漁船衝突事件)」

 

「今日の資本主義にとって、利潤の主要な源泉」は、「知的所有権」である。「『この情報は排他的に誰々に所有されている』という判断は、法的なフィクションに過ぎず、法以外(あるいは法以前)のところに根拠をもたない。ということは、現代資本主義が、最終的なところで、国家の権威を必要としていることを意味する。」

 

 

この論考を肯定した場合、我々のターゲットは明確になる。それは、国家の権威、その徹底的な骨抜き化、無力化である。

 

 

 

コメント
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