晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

自由 その2

2010-12-19 13:55:09 | Weblog

   

電車には自由席と指定席があり、自由席の車両は、「自由(NO  RESERVED) 」と表示されている。この場合の「自由」を英語では「予約されていない」と表現する。

 

自由の内実を見ると、規制されていない、束縛されていない、妨害、拘束、強制、障害、干渉、支配、疎外、阻害されていない・・・など、○○されない、NO ○○、非○○、否○○・・という外側からの消極的な定義となっていることがわかる。

 

以前に、「自由とは、自然必然性の認識にもとづいて自然を支配することにある」(エンゲルスからの引用)と書いた。自由を積極的に定義すればこのようなことになるのであろうか。

 

ここに、大きな落とし穴があった。積極的自由には怖さがある。何か特定の内容の自由を絶対化し、それを他に押し付けようとするとき、そこに権力が生じそれが他の自由を制限するのである。これこそ全体主義の起源ではないか。

 

一例から考えてみたい。数年前、この国は、教育基本法を改悪して学校における国旗、国歌の使用を義務化した。私は、もちろんこれに反対する。しかし、反対の論理には2つの考え方あると思う。

 

ひとつは、歴史的な認識を基に、戦争における侵略の血に染まった「日の丸」、そして天皇制を賛美する内容の歌詞である「君が代」の強制(不自由)に対する反対の意思表示である。現在使用している国旗、国歌に反対という論理である。

しかし、この論理の裏を返すと、別のシンボル、自分たちが良しとした旗、歌(積極的な定義)なら、これを国旗、国歌とすることについて容認するということになる。

 

もうひとつは、そもそも教育現場で国家が教育内容を定め、“強制”するという行為には反対という考え方である。

 

前者の反対は、権力をもって権力を倒すという論理に通底しており、自分たちが定めたものについては絶対的に正しく、皆がそれに従うべきという危険な論理を内在している。

 

私は、後者の道を追求したい。それならば何を、それではどうするかなどということではなく、嫌なものは嫌だということでいいと考える。

 

今回、「自由」をテーマとするにあたり、『自由の社会学』(橋本努著 NTT出版 2010年刊)に触発された。

 

本書で著者は、日常の多数の具体的事案を基に、「実質的な意味での自由な社会は、自由の三つの原理、卓越(誇り)原理、生成変化原理、分化原理をうまく構成した場合に実現する。P263」として、自由の内実化、豊富化を試みている。

 

しかし、これは、私の問題意識のありようとは異なった。

 

 

 

コメント
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