電車には自由席と指定席があり、自由席の車両は、「自由(NO RESERVED) 」と表示されている。この場合の「自由」を英語では「予約されていない」と表現する。
自由の内実を見ると、規制されていない、束縛されていない、妨害、拘束、強制、障害、干渉、支配、疎外、阻害されていない・・・など、○○されない、NO ○○、非○○、否○○・・という外側からの消極的な定義となっていることがわかる。
以前に、「自由とは、自然必然性の認識にもとづいて自然を支配することにある」(エンゲルスからの引用)と書いた。自由を積極的に定義すればこのようなことになるのであろうか。
ここに、大きな落とし穴があった。積極的自由には怖さがある。何か特定の内容の自由を絶対化し、それを他に押し付けようとするとき、そこに権力が生じそれが他の自由を制限するのである。これこそ全体主義の起源ではないか。
一例から考えてみたい。数年前、この国は、教育基本法を改悪して学校における国旗、国歌の使用を義務化した。私は、もちろんこれに反対する。しかし、反対の論理には2つの考え方あると思う。
ひとつは、歴史的な認識を基に、戦争における侵略の血に染まった「日の丸」、そして天皇制を賛美する内容の歌詞である「君が代」の強制(不自由)に対する反対の意思表示である。現在使用している国旗、国歌に反対という論理である。
しかし、この論理の裏を返すと、別のシンボル、自分たちが良しとした旗、歌(積極的な定義)なら、これを国旗、国歌とすることについて容認するということになる。
もうひとつは、そもそも教育現場で国家が教育内容を定め、“強制”するという行為には反対という考え方である。
前者の反対は、権力をもって権力を倒すという論理に通底しており、自分たちが定めたものについては絶対的に正しく、皆がそれに従うべきという危険な論理を内在している。
私は、後者の道を追求したい。それならば何を、それではどうするかなどということではなく、嫌なものは嫌だということでいいと考える。
今回、「自由」をテーマとするにあたり、『自由の社会学』(橋本努著 NTT出版 2010年刊)に触発された。
本書で著者は、日常の多数の具体的事案を基に、「実質的な意味での自由な社会は、自由の三つの原理、卓越(誇り)原理、生成変化原理、分化原理をうまく構成した場合に実現する。P263」として、自由の内実化、豊富化を試みている。
しかし、これは、私の問題意識のありようとは異なった。