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情況論ノート第9回

2007-07-08 20:27:37 | Weblog
情況論ノート第9回

 事故が起こると専門家の言説と私たちの「安全・不安」の感覚との差異が浮かぶ。また、グローバル化社会では、環境をめぐる「公平・不公平」の問題が存在する。



 「事故の確率が極めて低いと考えられていても、一つの事故がつまりは破滅を意味することになると考えられる場合には、その危険性はあまりに高いということになる。加えてまた、科学者が研究の対象にしなかったリスクの性質が大衆にとっての問題になる。例えば、核兵器の拡散、人的なミスと安全性との矛盾、事故の影響の持続性、技術的決定の不可逆性などがそれで、これらはわれわれの子孫の生命を左右する。」(ベック)

 仮に、専門家に対する強い信頼を持ちえたとしても、環境リスクに関する不安や危機感がそれで完全に消えてなくなることは無い。

 専門家の洗練された知といえども、非知を伴い、非知には特定された非知のみならず、特定されない非知をも含まれる以上、知の不確実性と限定性を完全に解消させることはできない。



 グローバル化の環境問題と経済開発の関係では、先進国で自然保護を求めて展開されたエコロジー運動の担い手たちの熱意と、発展途上国で経済開発の必要ゆえに環境破壊にさらされる住民の苦難との間には、落差がある。

 先進国では、生活様式のあり方を軸に人々は、自然固有の価値や生存権を語り、世代間倫理に触れ、地球全体の有限性を声高に語る。
 一方、低開発の底辺で飢餓、戦争、災害による自然の荒廃にさらされている人々が必要としているのは、生きていくのに必要な生計活動そのものを確保することである。

 「グローバル時代の環境問題」木前利秋による



 地球の環境容量に限界があるとすれば、先進国の人々は、現在の生活水準を下げる覚悟無しに、開発途上国に対し、これ以上の環境負荷を負やすなとは言えないだろう。

 私たちの今の生活水準を変えるとは、開発途上国の飢餓の実態と比較した時、レジ袋を止めてエコバックにというレベルの話ではないだろう。
 実行しないより、実行した方がいいだろうが、それが免罪符になってはいけないと思う。

コメント
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