真夜中のドロップアウトカウボーイズ@別館
ピンク映画は観ただけ全部感想を書く、ひたすらに虚空を撃ち続ける無為。
 



 例によつて本国アメリカではDVDストレート(日本でいふところのVシネ、それでもフィルムで撮つてゐるだけマシだが)の地平、といふか荒野を銀河烈風する中、これが東洋の神秘か相変らず我が国に於いては劇場公開される禍福、もとい慶福に性懲りもなく付き合ふべく、スティーブン・セガール(以下セガ)の珍作、もとい新作を観にシネコンへと、スリリングなタイム・テーブルを掻い潜つて足を運んだ。シネマ・コンプレックスに関して、設備面の充実以外に殆ど唯一積極的に評価出来るポイントは、スクリーンの数が多い分、しばしばかういふ正味な話ニッチな映画もどさくさ紛れに潜り込んで来てしまふ、こともあるところである。同じ映画ならば、しかもこの手のアクションあるいはドンパチものであるなら尚更、出来ればミニシアターより少しでもスクリーンの大きな小屋で観たくなるのも人情であらう。シネコンといふ場所が、小屋の名に値するとは思つてゐないが。ただ一点、この度私が観に行つたシネコンに苦言を呈しておくと、(東京での公開よりは大分遅れた)「その男ヴァン・ダム」と、セガ映画とを同日に封切るのは大いに頂けない。これら二作が心の琴線に触れる客層は恐らく被り、なほかつ今やそのメインは仕事帰りに観に行かうとする、いふまでもなく私も含めてのオッサン連中であらう。同じタイミングで上映したところで元々小さなパイに相乗効果など見込めず、良くて分散、悪くすれば共倒れるのが関の山ではなからうか。少しは空気を読んで呉れ。個人的には今回、実は泣ける映画との評判に胸をときめかせ、別にファンでないにも関らず前売りを買つてゐた「その男ヴァン・ダム」は一旦さて措き、冷酷なシネコンからは先に切られてしまふリスクが高いであらうセガを、ひとまづ押さへておいたところである。最悪の場合、スケジュールが成立せねば前売券が紙切れになつて行くのを眺めてゐなければなるまい。それはそれで、泣ける話ではある。

 「雷神 RAIJIN」(2008/米/製作総指揮・脚本・主演:セガ/監督:ジェフ・F・キング/原題:『Kill Switch』/出演:アイザック・ヘイズ、ホリー・エリッサ・ディグナード、マイケル・フィリポウィック、クリス・トーマス・キング、マーク・コリー、カリン・ミシェール・バルツァー、フィリップ・グレンジャー、フィン・マイケル、他)。セガ演ずる主人公に、“ライトニング”(雷神)なんて異名がつけられる描写なんてあつたかな?
 メンフィス市警の鬼刑事・ジェイコブ(セガ)には十歳の時、双子の弟を椎名桔平に感じの似た異常者に目前で殺害された過去があり、今でもその時の記憶を引き摺り苦しんでゐた。ある夜ジェイコブは相棒のストーム(クリス・トーマス・キング)と共に、胸に起爆寸前の時限爆弾を埋め込まれた(未だ生きてゐる)被害者が、手足は杭で地面に固定された現場に急行する。イカれた犯人はこの模様を間近から眺め愉しんでゐる筈だと踏んだセガ(もうジェイコブといふのが面倒臭くなつた)は、道を一本挟んだアパートの一室に連続殺人犯ビリー・ジョー(マーク・コリー)を見付け出す。ひと立ち回りの末、といふか何時もの如くセガが一方的にビリーを半殺しにすると、起爆装置の解除法を吐かせる。要は拷問だ。加へて、なほも抵抗を見せる健気なビリーを、セガは無体といふか無法にも窓から外に放り捨てる。無論、部屋は一階ではない。
 ブルース発祥の地は今や余程物騒な街なのか、ビリーの他に、もう一人別のシリアル・キラーが暗躍を続けてゐた。といふか要は“歩くハルマゲドン”セガが居る時点で、何処でも物騒になつてしまふのか。遺体発見現場に、占星術から想を得たと思しき謎のメッセージを残す通称“グリフター”(漂流者)を、柄にもなく暗号解読に取り組むセガとストームは追ひ続けてゐた。ところで、漂流者だとグリフター“grifter”ではなく、ドリフター“drifter”ではないかしらんとフと思ひ、耳を欹てて観てゐたものだが、音的には、矢張り“grifter”といつてゐるやうだ。だとすると、訳としてはペテン師辺りにでもなるのではとも思ひつつ。ともあれ、グリフターを逮捕するべく、FBIから終始無駄にセガに反目するミラー捜査官(ホリー・エリッサ・ディグナード)が市警に乗り込んで来る一方、セガの箍の外れた捜査手法を理由に、ビリーは釈放される。
 などと粗筋を掻い摘んでみせる作業すらに、やりきれない虚しさがとめどなく込み上げて来る別の意味で壮絶な一作。加齢といふよりは抑への利かぬ体重増加により、近年アクション・スターの看板を揚げながら殆ど動かなくなつてしまつたセガではあるが、今作に至ると、最早まるで動いちや呉れない。ボディ・ダブルに頼りきりのアクション場面はそのことを誤魔化さうといふつもりか―誤魔化しきれないショットも散見されるが―、カットの間飛ばし、何のつもりだか繰り返しを徒を通り越して闇雲に濫用し、何が何だか画期的に判らない。挙句に、その合間合間に挿み込まれるセガの悠然とした表情のカットが、壊滅的な不協和音を轟音で奏で立てる。正方向のセガの見せ場は皆無なことに加へ更に恐ろしいのは、その手法をセガとは無関係な、ノされた無法者がブッ飛ばされるカットや、セガが絡むとはいへ、別にプロップを持つて人差し指を動かしてゐるだけの、ガン・アクション場面にまで用ゐてしまつてゐる点。最初のアクション・シークエンス、ビリーの窓から路上への落下カットから、御丁寧を病的に通り越して四度か五度繰り返される。完全に狂つてゐる。最も出来の悪さが顕著なのは、地下道を舞台としたグリフター追跡シーン。繋ぎがへべれけで、セガとグリフターとの位置関係すら滅茶苦茶な始末。どちらが前に居るのかよく判らない。基本逃げてゐるグリフターの筈なのだが。
 幾度と蒸し返されるセガ十歳時の記憶とやらも、結局物語には呆れる程に組み込まれない。椎名桔平似の犯人も、そもそもこいつは誰なのか、そしてその去就は、等々といつた部分も近付かうとする気配も一切見られず仕舞ひの内に、観客を猛然と襲ふ逆方向に全速転進した“衝撃的なラスト”は、あまりにも酷い。空前絶後に酷い。腹を立てるとか腹も立たないだとかいふ以前に、圧倒されグウの音も出ないくらゐに酷い。この際封切られたばかりの映画の結末だといふことも弁へず、字を伏せることもなく詳細に御紹介する。率直なところとしては、告発とでもいつた方がより適切ですらあるやうな気分だ。
 セガは(素手ではなくトンカチで)体中の骨を砕き、グリフターを検挙する。といふか、駆けつけた応援の警官に、殺してしまひかねないところを制止されただけでもあるのだが。続けて同棲する女性巡査・セリーヌ(カリン・ミシェール・バルツァー)は殺害されつつ、ビリーは逮捕、せずにブチ殺す。グリフター被害者の爪の間から検出されるセガDNAの扱ひも感動的にぞんざいな―ミス・リードさせようとする意図すら感じられない―ままに、セガはメンフィスから姿を消す。ストームには破天荒なこれまでの自身を顧みるやうな書置きを遺し、他方では「俺は自分の道を歩んで来た」、そんな感じの歌詞の曲に乗りながら。カット変ると後日、セガ帰宅。

 何処に?セリーヌと、ビリーの遺体が転がる部屋がセガの住居ではなかつたのか。

 そこそこの邸宅のドアを開けると、若く美しい妻、二人の子供、それにお手伝ひまでがセガを出迎へる。満面の笑みを浮かべたセガが、出張帰りの親父のお土産、とでもいつた風情で家族にそれぞれのプレゼントを手渡すと、妻は二階の寝室へとセガ、即ち夫を誘(いざな)ふ。やをら服を脱ぎ始めた妻は(ちやんとオッパイも見せる、この時点で、アメリカではレイティングがひとつ厳しくなる)、「私がプレゼントへのお返しよ《ハアト》」などといはんばかりに、自らの首にリボンを巻く。鼻の下を伸ばしたセガが、「ここから先は見せないよ」なんて雰囲気で扉を閉めると、画面は暗転。そのままエンド・ロール・・・・・

 何だこれは。

 こんな出鱈目なラスト・シーン見たことねえよ。何処だといふことに加へ、誰だその女。何だその生活。セガは安月給のやさぐれ刑事ではなかつたのか。強ひてこのシークエンスが成立し得る可能性を摸索するならば、瀕死のセガが、既に死んだ家族と再会したりもするお花畑の代りの、幻想オチ以外には考へられないであらう。従来の、あるいは十全な映画文法からは。筆舌に尽くし難い、といふのはかういふ時にこそ用ゐる表現なのであらうか。老いたか肥えたスティーブン・セガールの、今は劇中で実際に悪党を吹き飛ばすことも無くなつた豪腕が、映画そのものを木端微塵に粉砕した。さういふことにでもしておく他に、今作を読み解く途は存在し難いのではないか。
 何処まで余計に徹して呉れやがるのか、邦版かも知れないがポスター・ワークまでいい加減。詫び寂びでも感じればよいのか今作が遺作となるアイザック・ヘイズに、劇中銃を構へるシーンなんぞ欠片も無く、その隣の青い服を着たデブも、吃驚する程の端役だ。チラシ裏には、劇中では見辛いだけの手の込んだフラッシュ・バックでぼやかされたセガ弟殺しの椎名桔平(超絶仮名)が、綺麗に抜かれてゐたりなんかもする。
 唯一の拾ひ処を辛うじて挙げるならば、残念ながら濡れ場は無いがカリン・ミシェール・バルツァーの、出鱈目な筆の滑らせ方をするならば「私はセックスをする為に生まれて来ました」とでもいはんばかりの、濃厚で即物的ないやらしさ程度。今作を観ようとしたこと自体への後悔は兎も角、途中で寝落ちもせずに全篇通して観てしまつた、自らを叱責さへするべきなのか。ああもう、何だか全力でどうでもいいや。
 捨て身なのかヤケクソなのか、日本配給のムービーアイが打つた惹句が「“落雷!”ロードショー」。ふざけ過ぎだ。

 一応最後に。シネコンに対する繰言の続きであるが、初日こそ二十三時過ぎからの土曜レイトもあるものの、「雷神」のその他の日の最終回は、恐ろしいことに何と夕方六時からの回である。子供の観る映画ぢやないんだよ、そもそもR-15だし。一日の上映回数も二回。これは最早、空気を読む読まないの以前に、初めから観せようとする気も殆ど無いな。それも已む無し、といつた気持ちですら、この期にはファンながらあるのだが。


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