日本の新年の祝日。すべての人々が労働から解放されている。
人々はみな、彼らの一番よい着物をきている。
顔は酒でかがやき、各人が各人に対して儀礼的な訪問を行う。
このような場合、身分の高い人々は裃(かみしも)すなわち式服をつける。
木曜日には私は家々の飾りつけを見に出かけた。
常緑樹、稲、オレンジ、大根などが家々の正面に飾られていた。
家々の前には、一本の樹と見せかけるように、松や杉の枝が地面にさし立ててあった。
そして、その根元には14インチぐらいの長さの薪が何本か真直ぐに打込んであり、
その周囲は約7フィートあった。その薪には藁縄が張られていた。
何軒かの家では、麦藁がきれいに綯(な)われて、
コーニューコーピア(豊饒の角)の形につくられていた。
他の家々には、日本の普通の履物、すなわち草鞋(わらじ)がぶら下げてあった。
人々はいずれも酒気をおびているように見えたが、酔払っている者は少なく、
喧嘩などは見られなかった。
『ハリス日本滞在記(中)』(坂田精一訳 岩波文庫 1953年)から引用しました。
日付は1857年1月26日から28日。
日本の暦では安政4年1月1日から3日にあたるわけです。
アメリカ合衆国初代駐日総領事タウンゼント・ハリス、このとき52歳。
しめ飾りを豊穣の角と見ているのがちょっと面白い。
「常緑樹、稲、オレンジ」は想像つきますが、わらじと大根は・・
現代の正月飾りには見かけないですね。
すたれてしまった風習なのか、それとも何かの見間違いでしょうか。
じつをいうと、日記に、こういうのどかな記述はあまり多くない。
ハリスは大統領に任命されて通商条約を結ぶために来日したのであり、
その交渉がさくさくと進まないことに、かなりいらだっているようだ。
将軍との会見がなかなかセッティングしてもらえないばかりでなく、
たとえば趣味の乗馬をしたいとか、散歩の途中で寺社にお賽銭をあげたり
物乞いに施したりするために日本の小銭を持ちたいとか、
健康のために牛乳を飲みたいから乳牛を都合してほしいとか、
そういった些細なことに至るまで、下田奉行は何ひとつ決定できず、
いちいち東京の本社に、じゃなく、江戸城の老中にお伺いを立てる。
電話のない時代だから、返事が返ってくるのにひと月もかかる。
日本人特有のあいまいな表現、のらりくらりした責任の押し付け合い、
出された酒は喜んで飲むが、肝心なことはいっこうに決められない役人たち。
これ、もしかして、現代でもあんまり変わってないんじゃないか。
ハリスという人は、合衆国政府の役人でも軍人でもなく、民間の貿易商人であった。
通商条約を結べれば、つまり、日本で商売ができるのだ。
未知の巨大マーケットの開拓。これほどやりがいのある仕事はないだろう。
そうでなければ、不自由なこの国で4年間もがんばれなかったと思う。
ニューヨークを出港したハリスの船は、東回りであちこち寄り道をしながら
約10か月かけてようやく日本に到達した。
この日記は岩波文庫で全3巻だけれど、1巻目の終わりでは
まだ日本の陸地は見えてこない。
今だったらニューヨーク・成田間が約14時間、お江戸本社とはテレビ会議だって
できるけれど、条約締結にはやっぱり4年くらいかかるかも・・
というのが、例によって本筋から外れた閑猫の感想。