閑猫堂

hima-neko-dou ときどきのお知らせと猫の話など

鶴の謎

2022-05-12 22:55:03 | 

博多銘菓「鶴乃子」は、わが家では懐かしのお菓子です。
わたしは母の実家が門司にあったし、Mはお父さんが大宰府の出身。ということで、ふたりとも小さい頃から九州みやげといえばこれ。今も変わらずにあるのが嬉しい。
(個人的には、関門みやげの「ふく煎餅」と「亀の甲煎餅」のほうが好きだったけど、もうどちらもなくなってしまった)

薄紙に包まれた卵形の(正確にいえば卵を縦半分にした形の)白とピンクのお菓子で、見た目からは当然おまんじゅうを予想するけれど、これがなんとマシュマロ。ふわふわの甘いマシュマロに黄身あんが入っているのです。
昔からあるとはいっても、戦後のものだろうかと思っていたら、100年以上の歴史があると知ってびっくり。
この店はもともと「鶏卵素麺」(まっ黄色でめちゃくちゃ甘い謎の食べもの)を商っており、それを作るのに大量の卵黄を使う。余った卵白の使いみちとして、淡雪からマシュマロを思いついたんだそうです。
(詳しくは→こちら
ついでにマシュマロについて調べたら、日本ではすでに明治中期から作られていたというので、またびっくり。「真珠麿」と書いたんだって。良いセンスだなあ。

で、本日の謎は、マシュマロ、ではなく、鶴です。
博多銘菓が、なぜ鶴なのか。
「鶴乃子」の能書き(というのかな?)を見ると、万葉集の歌が引用されておりました。

可之布江(かしふえ)に 鶴(たづ)鳴き渡る 志賀の浦に 沖つ白波 立ちし来(く)らしも

「かしふえ」は香椎潟。博多湾の遠浅の入り江に、かつては鶴が舞いおりたかもしれないなあ、ということで、いにしえの昔をしのんで鶴の卵の形のお菓子ができた。
(逆にいえば、当時すでに鶴は来なくなっていたのね)
地方の銘菓には、たいていこのような「由来」がついているもので、それはまあいいとして…なにかとひっかかりやすい閑猫が、またしてもひっかかったのは、パッケージの鶴の絵です。
ものごころついて以来、ずっと同じデザインだった気がするけれど、白と黒で、頭のてっぺんが赤い。これ、タンチョウですよね。
現在は北海道の一部でしか見られないけれど、万葉集の時代には、九州まで渡って来ていたのかしら。

「鶴(たづ)鳴き渡る」の「たづ」という言葉には、もともとタンチョウ、ナベヅル、マナヅルといった細かい区別はなかったようだ。図鑑やネット画像が出回っている現代とは違う。地域によっては、首と足の長い大型の鳥なら、サギやコウノトリなどもひっくるめて「たづ」と呼ばれた、かもしれない。

そこでふと思い出したのが、有名な日本昔話の「鶴女房」。絵本では例外なくタンチョウが描かれているけれど、あれはほんとにタンチョウでいいのかしら。
絵本を描いたことのあるMに聞いてみたところ、最初からタンチョウだと思っていたので、他の種類のツルということは全然考えなかった、と。
ふむ。この「鶴といえばタンチョウにきまっている」という常識は、いったいどこから来たのでしょう。

「鶴女房」では、女に化けた(とは言わないか?)鶴が嫁に来て、ひそかに自分の羽を抜いて美しい布地を織る。鶴の羽毛で本当に布が織れるものだろうか、なんてことは、別に気にしなくていい。昔話なんだから。と言いつつ、やっぱりちょっと気になるので、そっちを先に…(笑)
 
中国の古典だか故事だかに「鶴氅」( かくしょう=鶴の羽ごろも)というものが出てくるそうだ。昔の絵を見ると、厚ぼったい綿入れのようなのを着た人がいるので、もしかしたらその起源は、鶴その他の水鳥の羽毛を用いた、実用的なダウンコートだったかもしれない。
一方、中国では白い鶴(白い鹿、牛、馬、などなど)は神聖なもの、長寿や高雅の象徴とされてきた。たぶんそこからだと思うけど、仙人や道士の着る長い上着が「鶴氅」と呼ばれるようになった。本来は鶴の羽でできたケープのようなもの(肩のまわりにずらっと羽がついてる、みたいな?)で、空を飛べる能力をあらわしていたのが、のちに形式化され、白地に黒の縁取り、あるいは鶴の模様の刺繍をした、袖口の広いゆったりした衣服となった。
三国志に出てくる諸葛亮孔明の衣装が、これですね。手には扇を持っている。それも鶴の羽。

で、えっーと、孔明と鶴女房がどう結びつくのか、という話をしていると、いつまでたっても終わらないので、途中とばしますが…
つまり「白い鶴は高貴」という中国古来の価値観が、白い鶴を描いた陶磁器や花鳥画と共に日本に輸入され、日本で見られる(けれど、どこにでも普通にいるわけではない、珍しい)白い鶴といえばタンチョウ、ということで、「鶴=タンチョウ」のイメージが定着してしまった。
だから、博多銘菓のパッケージの鶴も、九州にいるからってナベヅルやマナヅルではだめで、実際には誰も見たことがないタンチョウだからこそ、誰もが間違いなく「鶴だね」と認識できるという、不思議な仕組みなのでした。
おしまい。
ふう。

 

おまけ。
うちの「猫乃子」。
黒と黒白、2個セット。

 

いや、じつは、この写真をのせたいための長々とした前置き、だったりして。

 

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オオルリの謎

2022-05-08 11:48:48 | 

朝から夕方まで、たびたびここに来ては鳴いているオオルリ。
その名のように、オスはきれいな瑠璃色をしているはず…なのですが…

 

この子は、たいていいつもこちら側(というのは家のベランダ)を向いてとまり、なかなかその青い背中を見せてくれない。

 

あ、やっと横向いた! と思ったら…

 

えーと、背中、青い?
遠いし、逆光のせいもあると思うけど、後頭部にちらっと青っぽさがあるかなあという程度で、ほぼ褐色に見えません?

 

でも、鳴き声は、オオルリ。それは間違いないです。
とすると、この色は、なんだ?

調べると、「オオルリはメスも鳴く」と書かれたものがいくつかあった。そして、オオルリのメスは地味な褐色をしている。
ということは、この子はメス?
いや、しかし、「鳴く」と「さえずる」は違うと思う。もしかしたらメスもきれいな声を持っているのかもしれないが、いまは繁殖期の真っ最中。おかあさんは卵を産んだり温めたりと忙しいはず。これ見よがしに高い枝でひたすらさえずっているのは、やっぱりオス、ではないかしら。

さらに調べると、「オスが美しい色になるには2~3年かかる」という情報が出てきた。
なるほど。この子はまだ若いオスで、声は一人前だけれど、色はまだこれから、ということなのか。
もしかしたら、色が地味なので相手にしてもらえず、ひとり寂しく空に向かって鳴いているのかも。
鳥さんもいろいろ大変です。

ついでに。
オオルリのさえずりは複雑で、「ホーホケキョ」とか「チュンチュン」のように文字に表しにくいけれど、「ヒ~ルリホヨヨ」みたいなヨーデルのあとに、「ギリギリッ」とねじを巻くような音や、「カシャンカシャン」とばねが跳ねるような金属音が、ちょこっとおまけでつくことがある。
いつだったか地元の人に「こっちでオスが鳴くと、あっちでメスがギーギーと答える」と聞いたことがあるけれど、実際はそうではなく、見ていると全部ひとりで演じているのがわかる。

夕方、Mが近くで草刈りをしている。ブイーンというエンジン音と共に、回転歯が草にあたったときのシャンシャンという音が聞こえる。その「シャンシャン」と、オオルリのさえずりの「おまけ」にときどき出てくる音がそっくりだ、ということに気づいた。
このあたりのガビチョウが、あきらかにイカルのフレーズを自分のさえずりに織り込んでいるように、オオルリも、田舎ならこの時期にあちこちで聞こえる草刈り機の音を真似しているのではないか。
子どもの頃、うちでカナリアを飼っていた。台所で揚げ物や炒め物をすると、そのチャーチャーという音に反応し、競うように声を張り上げて鳴くので、面白かったのを覚えている。
人間にはわからなくても、鳥の耳には「仲間だ」あるいは「ライバルだ」と認識される波長だか周波数だかが、きっとあるに違いない。
(「オオルリ物真似説」は、閑猫の思いつきで、根拠はありませんので、信じないでね)


おまけ。

オオルリの「ステージ」でもある枯れ枝は、見晴らしがよいので、他の鳥もよく来てとまります。
「ピリピリ、ピリピリ」と鳴く尾の長いスマートなお方は、サンショウクイ。


コロコロとさえずるカワラヒワ。

 

おや、むこうを飛んでいくペアは誰かしら。

 

カラスにしてはスピードが遅いと思ったら、サギかな。種類までは判別できず。

(本日ボケボケ写真ばかりですみません。うーん、やっぱり望遠レンズ必要かねえ…)

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ショベルカーの謎

2022-03-18 12:06:40 | 

きょうは、『ざっくん!ショベルカー』という絵本のふしぎなおはなしです。
2008年に出たこの絵本、昨年5月には23刷になりました。

さて、絵本を本棚にいれたとき見えるこの部分を「背」といいます。
タイトル下に入っているちっちゃいカットを「背カット」といいます。
背カットはどの絵本にもあるわけではありませんが、この乗り物シリーズは、字の読めない小さいお子さんにもぱっとわかるように、すべて背カットが入っています。


スペースが狭いので、簡単にしか描けませんが、ショベルカーですね。

 

で、絵本のカバーをはずしたところにも、同じ背カットが入っているはず…なんだけど…

 

あれれ? ショベルカーじゃないぞ。コレハナンダ?

 

じつは、カバーの折り返し(「カバー袖」といいます。本の初めのほうが「前袖」で、反対側が「後ろ袖」ね)に入っている、おにいさんが自転車に乗っているカットの…

 

この後輪と足の一部分が、なぜか背カットと入れ替わってしまった!

ふつうはありえない「画像のバグ」という、ものすごく珍しい印刷ミスだそうです。
倉庫でカバーをかけかえる作業をしていた人が、偶然発見してくださったとか。

わたしも長年この仕事をしていますが、こんなのは見たことも聞いたこともありません。とてもふしぎ。
重版のたびに見本をいただくけれど、わざわざカバーをはずして見たりしないし…。
これは「23刷」だけに起こったことで、それ以前も、以降もありません。もしお手元にあれば、かなりレア、ということになるかしら。
出版社に連絡すれば取り換えてくれますが、大切にお持ちくださってもかまいません。エラー切手やコインのように高値はつかないと思いますけどね(笑)

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ナンキンハゼの謎

2020-07-04 16:06:18 | 

ナンキンハゼの水玉。

 


近隣の山の農園で、ナンキンハゼの木が大繁殖して困り、重機で根こそぎ抜いている…という話を聞いた。
紅葉の美しいナンキンハゼは、わが家のそばにも(ぎりぎりお隣の土地)大きなのが1本あり、庭にも小さいのが2本ある。どちらも植えたものだ。
大きいほうは、秋にたくさんの実がつくけれど、落ちた実から芽生えたものは見かけたことがない。植木鉢にまいた種も、発芽率は高くなかったし、そんなに繁殖力が強い植物だとは思っていなかった。
不思議なことが2つある。
ナンキンハゼは街路樹や公園などによく植えられるけれど、中国原産で、もともと日本には自生しない。それがどうして山の中に生えているのか。
そして、どうしてそれほど大量に増えたのか。

冬に、ナンキンハゼの実を小鳥(カワラヒワ?)が熱心に食べているのを見た。種子の外側の白い脂肪分をくちばしでちびちび削り取るようにして食べていた。
ヒヨドリ、ムクドリ、キジバト、カラスなども、この実を食べるそうだ。ヒヨドリ以上の大きさの鳥なら、ちびちびでなく、丸のみかもしれない。かたい種子は消化されず排出される。
もしかしたら、農園の裏山は、冬にカラスか何かの集団ねぐらになっていて、彼らがあちこちから種子を持ち帰ってきたのではないだろうか。

調べると、ナンキンハゼは日照を好み、日あたりが悪いと発芽しないそうだ。樹木におおわれた山の地面は日があたらない。だから、種子がたくさん落ちたとしても、そんなにわんさと芽が出るわけではない。出ても日照不足でじきに枯れてしまう。
ところが、ナンキンハゼの種子は、条件が良くなるまで数年間は土の中で「待つ」ことができる、というのだ。
農園のある場所は、もとはみかん山だった。地主が高齢でみかん栽培に見切りをつけたあと、若い人が引き継いで養蜂を始め、周囲の雑木を切り払って、蜜源となるレモンの木などを植えている。
木を伐ったので地面に光が届くようになり、たまたまそのタイミングがよかったのだろう。待っていた種子が一斉に発芽した。
さらに一役買っているのが、鹿だ。
木を伐ると、そのあとにどっと草が生え、さらに小さい木が生える。それらを鹿は喜んで食べる。たいていの植物(人間には有毒とされている水仙や彼岸花も含め)を鹿は平気で食うけれど、ナンキンハゼはなぜか食わない。(だから奈良公園はナンキンハゼの紅葉の名所になっているらしい)
つまり、これは、人間と鹿が共同でナンキンハゼを育てているようなものではないか。

ナンキンハゼは根が横に張る性質があるし、大木になれば下は日陰となってしまうから、農業には邪魔モノでしかないだろう。でも、夏に咲く花には、びっくりするほど多くの虫が集まる。蜜蜂にとっては絶好の蜜源になるはず。養蜂園でこれを駆除してしまうのは、他人事ながら、もったいないんじゃないかなあと思う。

ナンキンハゼに限らず、外来植物は自然の生態系を壊すという理由で、駆除に躍起となる人がいるけれど、外来というなら古くは梅だって大陸から渡来したのだし、野菜、果物、花壇に植える園芸植物のほとんどがすでに外来種で占められている時代だ。
そもそも国境なんて、ヒトが勝手にひいた図面上の線にすぎないんだから、誰かが気まぐれでひょいとひき直せば変わってしまう、その程度のものなのだ。そう考えれば、在来も外来も、たいして意味をもたない。ヒトの支配する場所では、ヒトにとって有用なものは残り、無用(あるいは有害)なものは淘汰されて消えていく。それを「共存」と呼ぶのは、もちろん言葉をもつヒトの側だけで、むこうが何と思っているかはわからない。

 

本日の「いいね!」


砂漠の夜の夢

旅する画家ayakaさんのアニメーション作品。

 

おまけ。

「夏への扉」映画化

日本の映画はほとんど見ないのですが、ピートファンとしては、ちょっと期待しようかな。
(だけど、原作は「伝説」じゃないでしょ? いまでも普通に読めるでしょ?)

 

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ぽんぽこの謎

2018-06-07 16:31:25 | 

よそ猫ジャッキー。ベランダ限定免許更新。
こっちが気づかずにいると、ドコドコと足音をたてて、それとなく存在をアピールしたり。
左前足が浮いているのは、心理的な「敷居の高さ」をあらわしている。
このあいだ、MNさんに貸してもらった猫漫画の主人公のツシマという猫によく似ている。

うちよりもっと山奥のMNさんちを訪ねた帰り、スリル満点な急カーブの急坂を下る途中で、焦げ茶色の動物が車の前をトコトコと横切るのを見た。
「え? ジャッキー??」と、よくよく見たら、猫ではなくて、狸。
ふだんは夜行性の穴熊も狸も、5月6月は子育て中だからか、昼間でも餌を探してうろつく姿を見ることがある。
後ろ姿を見送りながら、「あ。そうだ」と思いついてバッグの底からスマートフォンを探しだし、ブレーキをめいっぱい踏んだままの姿勢で助手席側の窓を開け、「えーと、カメラはどれだ?」といろいろ手間どった末、撮った写真が、

これでございます(笑)
けっこうのんびり歩いてたので、こちらの行動が素早ければ、もうちょっとましに撮れたはずなんですが。

狸といえば、化ける。化かす。それに、化かすのバリエーションとして「月夜にポンポコ腹つづみを打つ」というのは子どもでも知っている。
だけど、実物の狸を見ると、どうしたらこれが立ち上がっておなかを叩くなんて発想が出てくるのか、不思議でならない。
そもそも、笠をかぶって徳利さげて酒買いに…という信楽焼の置物からして、実物とは似ても似つかぬ姿なんだけど、あれはほんとに狸なの?
もしかしたら、日本には「動物(哺乳類イヌ科タヌキ属)の狸」と「妖怪の一種である狸」の2種類が存在するのではないだろうか。
その2つは、元々はひとつのものだったが、都市化が進むにつれて、一般の庶民が「動物の狸」を目にする機会が減り、その一方で「妖怪の狸」のイメージがどんどん勝手に増殖していったのではないか…とか…。

わたしがジャッキーと見間違えたように、夏の狸は大きめの猫くらい、あるいは小さめの犬くらい、体重の増える冬でもせいぜい10kg程度だというから、小型犬を飼っている人はちょっと後足で立たせてみれば感覚的にわかると思うんだけど、こういう動物がいくら太ったからって、絵本や漫画の狸のようになるわけがない、でしょ?
「巨大なぽんぽこおなか+マルにバッテンのおへそ」は、デフォルメの域をはるかに超えている。フィクションというより捏造に近い。

幼稚園児に「猫さんはなんて鳴く?」と聞くと、口々に「にゃーん」とか「にゃあにゃあ」とか答えてくれるだろう。
「犬さんは?」「わんわん」「ぶたさんは?」「ぶうぶう」
「じゃあ、狸さんは?」と聞くと、おそらく大半の子が両手でおなかを打つ真似をしながら「ぽんぽこぽん!」と元気よく答えるに違いない。
そのイメージは、いったいどこから来たのか。
タヌキと「ぽんぽこ」は、いつどのようにして結びついたのか…というのが、本日の謎です。
(長い前置きだなあ。このあとも長いですよ)

「月夜にぽんぽんと音を出すものがあり、その正体がわからないまま、狸と結びつけた」
というのが始まりではないかと、まず考えてみた。
夜鳴くトラツグミの声を妖怪の鵺(ぬえ)と思ったり、ケラの声をミミズが鳴いていると言ったりするのと同じで、見えない音源の主がわからなくて気になると、別のものに結びつけてしまいやすい。
人間は「言葉」に頼る生き物だから、対象に名前がつくと、とりあえず「わかった」気がして安心するのだ。
(ぬえの例は、ほんとはもうちょっと複雑なのですが、それはちょっと置いとく)
しかし、「月夜にぽんぽんいうもの」って、何だろうか。
カッコウの仲間のツツドリの声なんか、かなり鼓っぽいけれど、ツツドリは月夜に限らず昼間でも鳴くし、昼間なら見ることが可能だし、あきらかに高いところから聞こえる音を、地べたの狸と結びつけるのは無理がある気がする。
では他に何があるかと考えても、さっぱり思いつかない。
現実に「ぽんぽんの音」があって、現実に「狸」がいて、そこから「狸が鼓を打つ」姿を想像した…という仮説は、どうもいまひとつ決め手に欠ける。そうじゃないと思う。

「人すまで鐘も音せぬ古寺に たぬきのみこそ鼓うちけれ」
鎌倉時代の「夫木和歌集」にある寂蓮の和歌だそうだ。
これはまだ、和尚さんに化けた狸がまじめくさった顔つきで鼓を打っている、というふうにも読める。
古寺のイメージから連想できる音源は、庭の添水、いわゆる「ししおどし」かもしれない。
このあと「鼓」が「腹」と結びついたのがいつかは不明だが、江戸時代にはすでに「狸の腹鼓」は誰でも知っている話だったらしい。
「しょ・しょ・しょーじょーじ♪」の狸ばやしで知られる木更津の證誠寺は、江戸初期(17世紀半ば)にできたお寺だそうだが、伝説の元はおそらくもっと古いだろう。
話が先にあり、「事件現場」や「発祥の地」があとからできる、というのはよくある話で、「ここがあの有名な…」ということで集客効果が上がるのだから、「先に名乗ったモン勝ち」なのである。
童謡「証城寺の狸囃子」が発表されたのが大正14年。昭和に入ってからレコードがヒットして、證誠寺が全国的に有名になったけれど、それ以前の「腹鼓」伝説は、場所が特定されたものではなかったようだ。

明治43年に発行された『教訓新お伽話』(園部紫嬌著 石塚松雲堂)という本に、「腹鼓」という章があり、「今の狸が腹鼓叩かぬ理由」と副題がついている。「今」というのはもちろん今じゃなく明治のことなんだけど、
「ぽんぽんが痛いと嘘を月の夜に 鼓のけいこ休む小だぬき」
という歌をマクラに、こんなお話が紹介されている。
村のお稲荷さんの祭りの日。狐はごちそうが食べられると喜んでいるが、狸は面白くない。
そうだ、こっちには祭りはないが、腹鼓というものがある。狸の底力を見せてやろうじゃないか。
狸たちが祭り太鼓に対抗して腹鼓を打てば、それを聴いて人間のほうも負けじとドンドコ叩く。
しかし、いくらがんばっても狸は狸、人間にはかなわず、叩きすぎてとうとう腹の皮が破れてしまいましたとさ。
(すみません、多少脚色しました…)
これは一見「狸vs人間」の構図のようではあるけれど、じつは狐が一枚かんでいる…というところに、重要なヒントがあるんじゃないか、という気がしてきた。

うどんじゃないけど、狐と狸といえば、化ける・化かす界のツートップ。
昔話で両方出てくるとしたら「化けくらべ」の話だ。
ずる賢いキツネに対し、タヌキは愚直でどんくさい奴と、役どころもだいたい決まっている。
狐が芸者さんに化けて色っぽく三味線など弾いてみせれば、狸も鼓を…。
あ、そうか。そこで鼓が出てくるんだ!
しかし何かを鼓に見立てるというほどのセンスも技術もないので…。
「腹を鼓がわりにする」というのは、人間(または人間に化けた狐)の「正しいやりかた」がまず前提にあり、それを真似て不器用な狸がやるとしたら…という笑いを含んだ意味合いが、なんとなく感じられる。

なぜ狸が鼓なのか、なぜ笛とか琵琶とかじゃないのか…という点でも、打楽器のほうが簡単で「狸でもできそう」というイメージは確かにある。
能楽の鼓はそれなりに難しそうだと思うけど、ばちで打つ太鼓なら、幼児が打っても狸が打っても音は出る。
鼓の皮というのは、今は牛革が普通だそうだが、浄瑠璃の「狐忠信」には狐の皮を張った鼓が出てくるくらいだから、ずーっと昔(室町時代以前?)は、狸の皮なども使った…なんてことはないだろうか。
鼓に張らないまでも、狸は毛皮として利用されていたわけで、それにはぴんと張って乾かすという工程があるから、その状態から「叩けば鳴る」うちわ太鼓的なものを連想することも、まあできそうな気はするけれど。
そのあたりの考察は、ちょっと閑猫の手に余るので、どなたか詳しい方がいらしたら教えてください。

最後に、幼稚園児の話に戻るけれど、他の動物が「鳴き声」で表現されているのに対し、狸だけどうして「ぽんぽこ」なのか、気になりません?
狐は「コンコン」と鳴く。
(実際は「コン」というより「キャーン」に近いと、聞いた人が言っていた)
じゃあ狸の声は…?と聞くと、たいていの大人も知らない。
狸は鳴かないのか。
わたしは狸が鳴くのを聞いたことがある。
夜な夜な山から謎の鳴き声が聞こえるのが気になり、窓辺でずーっと見張っていたら、狸だった。
「ミー」とか「ミュー」とか…字で書くと猫のようだけど、あきらかに猫とは違う、もっと抑揚のない単調な声で、まさか狸とは思わなかったのでビックリした。
でも、「狸の鳴き声はミューだ」と言い切っていいのかどうかは自信がない。
以前うちの猫で「にゃあ」じゃなく「おわん」と鳴く子がいたけど、だからって「猫はおわんと鳴く」とは言えませんからね。
狸をつかまえた経験のある人だったら、「狸はギャーギャーと鳴く」と言うかもしれないし。
まあとにかく、狸の鳴き声がよくわからず空白になっているところへ、腹鼓という言い伝えがすっぽり入りこみ、「狐=コンコン」「狸=ぽんぽこ」のコンビとしてすっかり定着してしまった、ということではないでしょうか。

そうそう、狸だけでなく、うさぎもめったに鳴かない。
うさぎの場合は、残念ながら音の出る伝説もないので、「耳」+「ぴょんぴょん」でうさぎと認識される。
動物のプロフィールにおいて「何と鳴くか」(≒何と「言う」か)は必須事項で、その欄が空白だと落ち着かず、何かしら入れずにはいられない。
やっぱり人間って「言葉」に頼る生き物なんだなあと思う。


ついでに、おまけ。
「狸の腹鼓」と書いて、「これ何て読む?」といきなり聞くと、おそらく半数以上の人が
「たぬきのはらづつみ」
と答えるのではないでしょうか。
なぜかみんな「風呂敷包み」のように「づつみ」と読んでしまう。
狸だけでなく「舌鼓」でも同じ現象が起こる。
じつはわたしもそうで、「鼓だから、つ・づ・みだから、えーと、はらつづみだ」と頭の中でいちど考えないと声に出せない。
おかしいなあと前から思っていたのですが、上に書いた明治時代の本を見たら、なんとなんと「腹鼓」に「はらづゝみ」とルビがふってあるじゃないですか!
言葉の意味として正しいかどうかは別として、明治の頃には「はらづつみ」と読むことが普通だったんだろうと思う。

サーファーがあつまる伊豆の海岸のひとつに多々戸浜というところがある。
これが「タダト」なのか「タタド」なのか、わたしは何度覚えても忘れる。
東京の秋葉原という地名なんかも、昔はちゃんと読めていたのに、通称「アキバ」と呼ばれるようになったせいで、どっちだか自信なくなってしまった。
「秋葉原の狸が多々戸の浜で腹鼓」
…読めます?

 

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柴刈りの謎

2017-12-28 17:40:24 | 


ホームセンターの駐車場で、都会風の若いカップルが、カートに積んできた一束600円くらいの堅木の薪を乗用車のトランクに入れようとしていた。
週末を別荘で過ごすのか、ストーブか暖炉かわからないが、扱いが不慣れな様子に見えたので、その太いのをいきなり放り込んでもうまく燃えないと思うけど大丈夫?…とつい余計な心配をしてしまう。
こういうのを「老婆心」っていうんでしょうね。
現在メインが薪暖房(サブは猫)のわが家では、一晩二晩ならともかく、冬じゅう買って焚いていたら、光熱費が大変なことになってしまう。

燃料にする木のことを、このあたりでは「燃し木(もしき)」という。
細いのも太いのも、暖房、風呂、煮炊きからキャンプファイアー的なものまで、燃すのはすべて「もしき」。
「焚き物(たきもん)」と呼ぶ地域もある。これだと木に限らず、松ぼっくりやおがくずなども入るだろう。
薪と書いて「たきぎ」と読むのも、つまり「焚き木」で、これらはすべて用途をあらわす言葉だ。

「柴(しば)」と「薪(まき)」はどうだろうか。
上にのせた写真のような、手でぽきぽき折れるくらい細いのが「柴」で、のこぎりで切ったり斧で割ったりするのが「薪」…と、境目はややあいまいだが、頭の中では区別がある。
ストーブを焚くときは、まず杉やヒノキの枯れ葉などこまかいものを入れ、細い小枝、割った竹、ちょっと太い枝、割った薪、割ってない薪…と順番に火を移していくようにする。

「しばるのが柴、まるく巻くのが薪」
そんなことを、ずいぶん前に何かで読んで覚えていた。
なんだったかなあ…と長いこと思い出せなかったが、つい先日、偶然その本にめぐり会えた。
斎藤たま著『ことばの旅』(新宿書房)。
「柴と薪」の話は、最初から3番目に出てくる。
そうそう、これ、福音館の「子どもの館」という月刊誌に連載されていて、同じ時期にわたしも「土曜日のシモン」という話を連載していたので、そのとき読んだんだった!
わたしの連載は6回だったから、「ことばの旅」も6回分しか読まなかった。
いずれまとめて福音館から出版されるのだろうと楽しみにしていたら、いつまで待っても出なくて、そのうち忘れてしまっていた。

「曇り」は「籠り」で、お日様がこもるところが「雲」で、「蜘蛛」も「蝙蝠」も巣や穴に「こもる」からついた名だとか。
「猫」はやわらかいから「柔毛(にこげ)」の「にこ」から「ねこ」になったのではないか、とか。
著者が日本各地を訪ね歩いて耳で聴いたことばの集積と、そこからの直感的な考察が興味深い。
わたしみたいに、「語源」や「字源」の話が大好きという人は、けっして多くはないと思うけれど、そういう人には絶対面白いですよ、この本。

…で、柴と薪。
燃し木は太さでわけて、柴は柴、薪は薪で積んでおく。
そうでないと、ごちゃごちゃになって使いにくくてしょうがない。
しかし、「しば」という名称が実際に使われるのはほとんど聞かない気がする。
(わたしは勝手に「たきつけ」とか「小枝」とか言っているし、Mは「こまかいの」とか「杉っ葉」とか言っている)
ホームセンターでは薪は売っているが、柴は売っていない。
現代では、商品でないもの、売買の対象にならないものから順に、その名を忘れられていく…なんてこともついでに考えたりする。

「おじいさんは山へしばかりに、おばあさんは川へせんたくにいきました」
おなじみ「桃太郎」の出だしだが、洗濯はともかく、「しばかり」が今の子どもにわからない。
ほっとくと、おじいさんは山で「芝刈り」していると思っている。
という話を聞いたのは、もうずいぶん前のことだから、「芝刈り」と思って育った子は、すでに親世代になっているだろう。

巌谷小波の書いた「桃太郎」の英訳版を見たら、次のようになっていた。

The Old Man went to the mountain to cut firewood and the Old Woman went to the river to do some washing.
(「MOMOTARO  The Story of Peach-boy」 明治36年 英学新報社)

これはとてもわかりやすい。
おじいさんは、山のゴルフ場へ芝刈りのアルバイトに…ではなくて、「たきぎをとりに行った」のよ!
今や昔話は、相手が外国人だと思って語ったほうがいいのかもしれない。
考えてみれば、桃太郎の「原典」だと多くの人が思っているものは巌谷小波で、それは江戸時代に熟した実を明治時代に加工して瓶に詰めた文章なのだ。
「しばかり」がもう通じなければ「たきぎとり」と言い換えて何の不都合もないと思う。
「たきぎ」もわかんないと言われたら、それまでですが。

テキトーに描かれた昔話のイラストなどを見ると、山に出かけるおじいさんは、竹で編んだかごをしょって、手には鎌を持っていたりする。
鎌は「稲刈り」の、かごは「キノコ狩り」のイメージと混ざっているのだろう。
しょいかごに小枝を入れようとしても、ひっかかってしまっていくらも入らないし、鎌で木は切れない。
では、「しばかり」には、何を持って行けばいいでしょうか。

まず、背負子(しょいこ)。
登山をする人やバックパッカーがしょっている大きな荷物の、アルミの枠の部分がありますね。あれが、しょいこ。昔はもちろん木でできていた。
それから、縄。
縄がなければ、つる草などを現地調達して代用するので、その場合は、なた(山刀)があると便利。
それから、えーと、のこぎり?
のこを持って行くかどうかは、状況による。
おじいさんが「貧しい」という設定なら、山といっても自分の所有ではないだろうから、立ち木を勝手に切ることはできない。枯れ枝を拾うだけなら、のこぎりも斧も要らない。
拾った枝は、分かれ目からぽきぽきと折り、ざっと長さをそろえて束ね、縄でぎゅうぎゅうしばる。それをしょいこにくくりつけて背負って帰る。
桃太郎のおじいさんが山で刈ってくる柴は、自分の家の炊事や風呂焚きに使うだけでなく、売ったり物々交換したりして生計を立てていたのかもしれない。
 
「背負って帰る」イメージから連想されるのが、昔の小学校の校庭にあった「二宮金次郎像」だ。
銅像か石像か忘れたけれど、わたしの通った小学校にもたしかあった気がする。
本を読みながら歩いたら前が見えなくて危ないじゃないか…と言うけれど、金次郎君が歩いていたのは江戸時代だから、車もバイクも走っていないし、田舎道なんて人や馬だってめったに通らない。
それに、この時代に「書を読む」といえば四書五経の素読ときまっていて、推理小説を読みふけっているのとはわけが違う。

いや、その話ではなくて。
小学校の金次郎の像に、何か違和感があったのだが、あまりよく見たことがなく、どこが変なのかわからなかった。
あらためていろんな画像を見てみたら、違和感のもとは背中だと気づいた。
まず、背負っている「薪」が小さいし、少ない。
ほとんどランドセルくらいしかないものもある。
ふつう背負うほどの荷といえば、もっとかさばるものではないか。
それに「薪」が薪に見えない。太さが均一で、長さもぴったりそろいすぎている。まるで節分の巻き寿司みたいだ。
 
…という話をMにしたら、Mは「どこからどこに行くのかが気になっていた」という。
なるほど。どこでどのように薪を作り、それをどこへ何のために運んでいるのか、ですね。
自分の家で使うぶんを運んでいるだけだったら、わざわざほめられたりしないから、これは「家の手伝い」ではなく、賃金を得るための「労働」だろう。
とすると、背中の薪は売り物だ。
桃太郎のおじいさんみたいに、山へ行って薪をとってきて、それをしょって売りに行く。
こんな少量ずつ買うかなあと思うけれど、町なかの家では大量にまとめ買いしても置き場がないから、その日使う分ずつ買う、ということもあるかもしれない。
しかし、金次郎君は、のこぎりも斧も持っている様子がない。
ということは、山で薪をこしらえている人が別にいて、「ほれ、これだけかついで売ってこい」と渡されたのか。
それとも、薪や炭を商う店があって、金ちゃんは配達のアルバイトを…?

などなど、ぐるぐると考えているうちに、そもそもこの銅像のもとになったと言われる絵を見つけた。
それが、こちら。

朝は朝未明(まだき)、霧立ち迷ふ山に入り、薪(たきぎ)を採りつ柴刈りつ、帰途(かえり)は其を売代(うりしろ)なし…<中略>…薪伐(きこ)る山路の往返(ゆきかえり)歩みながらに読まれける心掛けこそ尊けれ。
幸田露伴著「少年文学 ニ宮尊徳翁」(博文館 明治24年)

あらー、だいぶイメージ違いましたね。
これはむしろ「おじいさんは山へ柴刈りに」の図ではないですか。

しかも、この絵にはさらに元になった中国故事があるらしく、それは「漢書」の中の「朱買臣伝」に書かれているそうなので、金次郎君が熱心に読んでいる本がそのくだりだったらすごく面白いんだけど、どうでしょうね。
 
 
<おまけ>

こちらが、狩野元信えがく「朱買臣図」。
これまた不思議な運び方をしておられる。
本の向きも不思議だけど…後ろにぶらさげているのは、これから読む予定の本なのかな。
中国では「負薪挂角」といって、隋の李密という人(牛で荷運びをしながら牛の角に本をひっかけて読んでいた)とワンセットになっているようです。 
  
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彼岸花の謎

2017-10-02 00:27:45 | 

暑さ寒さも彼岸まで。
ヒガンバナの季節もそろそろ終わりです。

 

この花を鹿が(好んで?)食べるようになったため、柵の外には1本も見られなくなってしまった。
逆に庭の中ではどんどん増えて過密状態になっている。
綺麗な花ではあるけれど、協調性に欠ける色だし、大きいので、こればかり増えすぎるのも困ったものだ。

 

あ、コスモスが入った!(笑)


ヒガンバナは3倍体なので種子ができない、という。
3倍体ってなあに?
検索したら「3組のゲノムを持つ細胞からなる個体」だそうです。
ゲノムってなあに?
…と、理科に弱い閑猫、調べれば調べるほどわからなくなるので、やめておきましょう。
まあとにかく、染色体の数がどうとかで、種子ができない、と。

そこで、謎その1。
じゃあヒガンバナはどうして増えるのか。
球根で増える、ということは一応わかっている。
1個が2個に、2個が4個に。
いま咲いている場所の隣に、そのまた隣にと、だんだん増えていく。
それはわかる。
だけど、そういう群落から離れた場所に、ぽつん、と1本だけ咲いていることもある。
あれはいったいどこから来たのか。

大雨のあとや、猪が掘って崩した場所に、球根がむき出しになっていることがよくある。
親株から離れて、ころがって、行き着いた先で根をおろして増える。
それはわかる。
だけど、石や草やでこぼこのある地面を、そんなに遠くまでころころ転がって行けるものではない。
しかも、斜面の「下」に向かって増えるだけでなく、あきらかに「上」にも増えているように見えるのは、どういうわけか。
同じく「3倍体」のシャガなら、地下茎を伸ばして増えるから、上に、ということもあるけれど、ヒガンバナは?

畑を耕しているとき、たまたま出てきた球根を、ぽいっと遠くに投げた、とか。
(水仙と間違えて植えたことは、一度くらいあったかも…)
もぐらがトンネルを掘るとき、土と一緒に移動した、とか。
おねずが持っていったけど、途中で毒と気づいて捨てた、とか。
それをアナグマが蹴った、とか。
えーっと、それを鹿が拾って、ボール代わりにゴルフの練習をした、とか。
商売柄、想像しようと思えばいくらでもできますが、それでも「えー、どうしてここに?」という思いがけない場所に生えるのよ、ヒガンバナって。

ほんとうに種子は「できない」のだろうか。
「できにくい」じゃなく?
たまに、ちょっとぐらいは、できるんじゃないの?
疑り深い閑猫は、なかなか納得しない。
調べたら、セイヨウタンポポも「3倍体」なのだそうだ。
ふわふわ飛ぶ綿毛の種子、あんなにいっぱいできるじゃないですか。
なんなの? 3倍体。

そして、謎その2。
とにかくヒガンバナに種子はできない、と。
オーケー、それは認めるとしよう。
では、この派手な花は何のために咲くのだろう。
真っ赤な花に、黒アゲハがよく来ている。
虫が来るということは、蜜があるということで、蜜があるということは、虫に来てもらいたいということだ。
虫の助けを借りて効率よく受粉して、できるだけたくさんの種子をつくろうとするシステム。
システムだけあって、結果がないというのが奇妙だ。

もしかしたら、昔はヒガンバナも種子のできる2倍体だったが、あるとき何らかの原因で3倍体が出現し、それが広まってすべて3倍体になってしまい、システムだけが変異についていけず昔のまま残ったのかもしれない。
それとも、もしかしたら、この人目を引く花は、もっぱら人間にアピールするために咲かせているもので、人の手で球根を植えて増やしてもらうのが狙いなのではないだろうか。
(というのは、例によって根拠のない閑猫説ですから、信じないように)



さらに、謎その3。
キンモクセイと同じく、ヒガンバナも「中国から渡来した」ということになっている。
で、中国Wikiを見てみたら、あちらで「石蒜」というヒガンバナは、画像で見たところ日本のものと同じに見えるが、自家受粉植物で種子ができる、というふうに書かれている(ように読めるグーグル翻訳!)
あれえ? 種子、できるんだ?
と、さらにしつこく調べていくと、どうやら中国には種子のできるヒガンバナが存在し、それは日本のものよりやや小さく、お彼岸よりひと月ほど早く8月に咲くのだという。
そうすると、なぜ種子のできないのだけが渡って来たのか…という、このあいだのキンモクセイとまったく同じ謎に行き着いてしまうのです。
お彼岸のタイミングで咲いて、花の大きいほうが好まれた、というだけのことなんだろうか。

ヒガンバナは、妖艶ともミステリアスともいえる赤い花のせいか、昔からこだわって研究している学者が何人もいるらしく、それは植物学だけではおさまらず、民俗学、言語学、食物史、文化史の領域にも及んでいる。
ヒガンバナを植えて30年以上も観察を続けた研究者がいて、その間に1個の球根が926個にまで増えたそうだ。
この数は、ものすごく多いような気もするし、意外とゆっくりのような気もする。
わが家も、ここに住んで30年あまりになるから、家の周りのヒガンバナは、鹿の食害さえなければ、それくらいに増えていたかもしれない…と考えると、やっぱりものすごく多いですよね。

 


おまけ。
『酒天童子』を書いたとき、「土蜘蛛」の章で、廃屋の庭にヒガンバナ(曼殊沙華)を咲かせた。
原作にはないけれど、雰囲気づくりにぜひ欲しいと思って。
しかし、この花が文献に登場するのは、じつは室町時代以降なのだ。
水稲栽培と共に渡来した、という定説が本当なら、万葉集にそれらしい歌が一首くらいあってもよさそうなのに、何もない。
紫式部も清少納言も、なぜかこの花のことはひとことも書いていないらしい。
これも謎といえば謎。あれだけ目立つ花、見れば何か言いたくなりません?
書かれていないからといって、当時ヒガンバナが存在しなかった、とは言い切れず、他の名前で呼ばれていた可能性もあるけれど。
『酒天童子』は、自分なりに時代考証にも気を使ったので、どうしようか迷ったけれど、どうせ元が江戸時代の人の想像した「平安ふぁんたじー」なんだから、いいよね、と思って、書いた。
「篠笛」は校閲でチェックされたけど、曼殊沙華はひっかからなかったので、ほっとしました。

 

酒天童子
竹下 文子・著
平沢 下戸・イラスト
偕成社 2015年

 

 

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豆大福の謎

2017-04-11 15:30:29 | 

車で10分くらいのところに小さいガソリンスタンドがあり、その向かい側にコンビニがある。
コンビニといっても、もともと昔からあった小さな個人商店が、店舗も人もそのまま、いつのまにかヤマザキショップの看板を掲げるようになったもので、中はどうなっているのか、わたしは入ったことがないのでわからない。
このコンビニ(便宜上そう呼ぶ)の道路に面した壁には、幅の狭い出窓風のショーウィンドーがあって、季節ごとに飾りつけが変わる。

3月はひな祭り、5月は鯉のぼり。
夏には朝顔、秋になれば紅葉と栗、それからクリスマス。
信号で止まったとき、左を向くと、ちょうどそれが目に入る。
おすすめ商品の宣伝などは特になく、造花に色画用紙、あとは傘とか団扇とか、どこの家にもありそうな物で構成された「図画工作」っぽいディスプレイで、子どもかおばあちゃんが飾りつけを担当しているのかな?と思うようなほほえましさがある。

一般にショーウィンドーというものは季節を先取りして見せるのがふつうで、デパートなんか11月のうちからクリスマスになり、お正月が過ぎれば早くも春物一色だ。
しかし、この店はあまり商売っ気がないのか、あるいは単に手が回らないだけか、常に季節に遅れ気味で、なかなか切り替わらない。
あらあら、もうそれは片付けて次のを出さなきゃ…なんて、見ているほうがやきもきしたりする。

今年のお正月、わたしは入院していたので、ショーウィンドーの「金屏風に鏡餅と羽子板」を目にしたのは1月も末になってからだった。
それが2月になっても変わらない。
3月になっても、まだそのまま。
だんだん不安になってきた。
旧正月もとっくに過ぎたし、いくらなんでも3月にお正月飾りはないでしょう。
ショーウィンドーは出入り口のすぐ横だから、誰も気づかないはずはない。
気づいていて放置しているなら、それも変じゃないですか。

変だ変だと思っているうちに、4月になってしまった。
しばらく前から位置がずれていた鏡餅の上のみかんは、ついにころげ落ちたか姿を消した。
何かあったのではないかと不安がつのる。
コンビニはいちおう営業しているようで、それがよけいに心配なのである。
入り口の横には「当店自慢の 豆いっぱい 豆大福」と大きく書いた置き看板が出ている。
これもいつからか、ずうっと出しっぱなしのような気がする。
店内はいったいどうなっているのだろう。
自慢の豆大福は本当に存在するのだろうか。

…というようなことを、このあいだ車で通ったときMに話したのですが、昨日Mが出先から帰ってきて、「はい!」とコンビニ袋を差し出しました。
「あったよ~、豆大福」と。
ガソリンスタンドに寄ったついでに、思いついてコンビニに入ってみたら、ちゃんとレジ前に豆大福が置いてあったそうで。
店の人が言うには、当店自慢といっても当店で作っているわけではなく、ヤマザキが配達してくるもので、これがなかなかの人気商品で、ほとんど毎日売り切れてしまうとか。
うーん、豆大福が? 人気商品?
田舎のおばあちゃんが丸めたような手作り感あふれるどっしりした大福で、白と草餅と2種類あり、どちらも黒豆がごろごろとびっくりするほどたくさん入っていて、柔らかぁい餅と、塩味の豆と、甘すぎない粒餡のバランスが、ふむ、なるほど、という感じでありました。

大福とかおはぎのようなものは、おやつにしてもデザートにしても、いささかボリュームがありすぎて困る。
閑猫的には「餅」と「米のご飯」は等価(つまり、どっちかを食べると他方は食べられない)という認識なのですが、この見渡す限り「高齢化率が非常に高い」過疎地域のコンビニで、豆大福を買っていくお客さんって、どういう人たちなんだろうかと。
ねえ、みなさんごはん代わりに召し上がるんですか。それとも、おやつに?
(「多かったら半分残せばいいじゃない」とMは言うけど、わたしはそれ反則だと思う!)

まあとにかく、コンビニはちゃんと機能しており、店の人も健在だということがわかって何よりでした。
あとは、ショーウィンドーで凍結中のお正月がどうなるか。
ひょっとしたらこのままがんばって夏を越すんじゃないか、とか。
ひきつづき観察中。

 

<5月5日追記>

お正月、まだがんばっております。
鯉のぼりも兜も出番なし。
もしかしたら、内側に商品棚か何か置いちゃって、それがすごく重くて動かせないため、入れ替えをしたくてもできない状態になってるのか。
近隣の豆大福愛好家の方々は、そのへんの事情をとっくにご存じで、見て見ぬふりをするという暗黙の協定が結ばれているのかも。

<さらに追記>

そのまたつづきは→こちらです!
 

これは豆大福ではない。

 

さんちゃんだ。

 

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くるくる(と、変換の謎)

2016-08-19 21:14:07 | 

今年も、くるくると遊ぼう。
(遊んでもらっています)

 

横向きくるくる 

 

 

縦ロールくるくる 

 

 

Uターンしてくるくる 

 

 

こんがらがってくるくる 

 

 

何に見える? 

 

 

 

 

どうもこのパソコンがテンちゃんに進化してから、なのか、
その前からなのか、よくわからないんだけど、日本語の返還が、
じゃない、変換が、ヘンなんである。
「この文脈でそれはないだろう」とか、「誰が使うの、それ」とか、
思いもよらない字を次々と送り出してよこす。
もしかして、わざとやってるんじゃないだろうか。
証拠として、特にヘンなのを集めておいたので、お目にかけます。

魚屋 → 肴や
靴 → 沓
了解 → 猟かい
白く → し六
薬師堂 → 役指導
垣根 → 下記ね → 柿ね
出そう → で僧
墨と → 澄人
薄い → 碓氷
入れようと → 射れようと
工事中の → 柑子ちゅうの
下がって → 嵯峨って
語る → 蚊たる
結べて → 無全て
猫対猫 → 猫田稲子
読み違えない → 夜道が得ない
地震に備えて → 自身に供えて
登録 → 東麓
記録に → 喜六に
証拠として → 紹子として

「肴」「沓」「碓氷」「嵯峨」「柑子」あたりは、古典をやってた名残で
やむをえないとして、他のは何なんだろう。
「猫田稲子」なんて名前の人は知らないし、「澄人」さんも「喜六」さんも
「紹子」さんもぜんぜん知らない。
気を利かせたつもりがすべて裏目、裏目に出る感じ。

仲間 → 薙鎌

これには、しばしお目々ぱちくり。
えーっと、これはたしか朝比奈三郎義秀の「七つ道具」にあるやつだけど、
「ないがま」だよ、テンちゃん。
というか、そんなの教えたおぼえはないよ! 

香料入り洗濯洗剤 → 稿料入り選択洗剤

こうなると、「洗剤」が間違ってないことのほうが謎。

 

本日の「いいね!」


あっと驚く猫の模様40選

え~? いや~、「変な」なんて言っては失礼だけど、
ほんとにいるの?
アカネちゃんから、シェアのシェア。 

昔飼っていたジャム太、トマト、アンズのきょうだい猫は、
茶トラ、三毛、キジと、模様はそれぞれ違うのですが、
3匹並べると、パズルみたいにぴったり毛色の合う部分があり、
「お母さんのおなかにいるときは、こことここが
くっついていたんだね!」と言っていました。
写真撮っておけばよかったな。 

 

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あじさいの謎

2016-06-07 17:54:56 | 

家の西側を流れる川は、わさび栽培ができるくらい水質がよく、
水量も豊富だ。
しかし、両岸は猪と鹿にさんざん荒らされている。
岸近くに大きな桜の木があり、その根元にブルーのあじさいが一株ある。
高さ2メートルのワイヤーメッシュで厳重に囲んである。
以前は、もっとあちこちに、たくさんのあじさいが植えてあった。
次々と鹿に食われ、丸坊主になって枯れてしまい、
いまは、かろうじて囲いの中のしか残っていない。

 

何が「謎」かというと、このあじさいは、花がとても小さいのです。
直径15センチどまり。
花のまとまり全体が小さいだけでなく、装飾花のひとつひとつも
小さくて薄く、ほろほろと可愛らしい。
だけど、去年までは、こんな花ではなかった、はず。
よくある(昔からあった)丸くて大きい水色のあじさいだった、はず。
どう見ても、別の品種に見えるんですが。
これと同じ花が咲く木は、見渡す限り、他に1本もないし、
あじさいは種ができないから、よそから飛んでくることもありえない。

木陰なので、かなり日あたりは悪く、草の中に埋もれている。
でも、そういう場所だと、ひょろひょろのびて、花がつかなくなるものだ。
このあじさいは、小さい花がたくさんついている。
湿っぽい日陰にもかかわらず、他のよりずっと早く咲き始めた。
突然変異で新種ができちゃったのかしら。
ふしぎ。

 



花は咲き始めるときが一番美しい。

 






まとまりがないので、いつもうまく撮れない<隅田の花火>

 

 

 

地味な山あじさい系がだんだん好きになってくる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本日のクレ。

畑の見回りに来ました。

 

 

きゅうりはね、気をつけないと、すぐ大きくなりすぎちゃうんだよ!

(って、気がついたらとってきてクレ~) 

 

 

本日の「いいね!」


ハニーバジャーの大脱走

やるもんですねえ。

 

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