6月9日(日)、滋賀県長浜市の小谷城(おだにじょう)(ウィキ)を訪問しました。
前日、大阪での所要を済ませた後に長浜駅近くのホテルに宿泊し、当日朝、JRで最寄り駅である河手駅に移動しました。
今回の小谷城跡訪問で最大の問題点はクマでした。クマとの遭遇を防ぐためには、小谷城跡の訪問を諦めるべきか否かという問題です。小谷城跡に登らない場合、近くの小谷城戦国歴史資料館で100名城のスタンプだけ押して退散することとなります。
ネットを調べても結論が出ません。現地の人たちの意見を聞いて決めることにしました。
まず、宿泊したホテルのフロントで訊きました。「大丈夫とまでは言い切れない」との回答です。
次に長浜駅の観光案内所で聞きました。やはり「ゼロとはいえない」というお答えです。
3番目は河手駅の観光案内所です。無人駅のようですが、観光案内所にはおじさんが詰めていました。聞いたところ、「心配することはない。しゃべったりクマ鈴を鳴らしながら行けば大丈夫」とのことでした。
最後は可手駅から乗車したタクシーの運転手さんです。やはり「心配ない」とのことでした。タクシーで番所跡まで到着すると、駐車スペースに何台かクルマが駐まっています。「何組かが登っているようなので、クマも近づかないのではないか」ということです。
私は、北海道で使用したクマ鈴を今回持参していました。リュックの背負いひもにくくりつけていたのですが、河手駅で調べたらなくなっていました。どこかで外れて紛失してしまったようです。これはがっかりです。クマ鈴が使えないので、話し声でこちらの存在をクマに伝えなければなりません。
下の絵図は、絵図の右端近く「現在地 番所」と記載されたところにあります。
100名山のスタンプは、絵図のやや右下の小谷城戦国歴史資料館に置いてあります。一方、小谷城跡を訪問する際、クルマで「現在地 番所」まで登ることができます。絵図の右端「大手道」と書かれている付近から小谷林道が山中に分け入り、終点が「番所」になっています。
河手駅で乗ったタクシーで、まず小谷城戦国歴史資料館に行ってもらい、一時下車してスタンプを押印し、そこから戻って小谷林道に入り、番所まで行ってもらいました。
そこから歩いて、絵図の中央やや上の「本丸」までが目標です。
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/odani/s/DSC_2224.jpg)
小谷城跡絵図
小谷林道入り口で標高が100m、番所の標高が300mです。もしこのルートでタクシーを使わなかったら、番所までで標高差200mを登らなければなりません。高齢者のわれわれには負担です。本丸は標高350mです。番所までタクシーで移動したわれわれは、番所から本丸まで標高差50mを登るだけで到着できます。
本丸よりさらに上に行く場合、山王丸は標高398m、そこから六坊に下ると360m、さらに大嶽(小谷山)が495mです。
下の写真は、河手駅でわれわれを迎えてくれる浅井長政公とお市の方の銅像です。
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/odani/s/DSC_2222-2.jpg)
浅井長政公・お市の方像
タクシーに乗車し、まずは小谷城戦国歴史資料館で途中下車して100名城スタンプを押印しました。下の写真を一枚撮影しただけで退散しました。
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/odani/s/DSC_2223.jpg)
小谷城戦国歴史資料館
そして、戦国ガイドステーション付近で林道に入り、林道の終点である番所にてタクシーを降りました。上の絵図とともに、下写真のような看板がわれわれを脅かします。
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/odani/s/DSC_2225.jpg)
クマに注意
番所から御茶屋跡、桜馬場、大広間、本丸までの途中、下のような鳥瞰図が置かれていました。
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/odani/s/DSC_2226.jpg)
番所鳥瞰図
番所
小谷城の主要部への入り口に位置する。通常、番所があった所といわれる。登城道に面して南北に細長く石垣を組み、周辺には腰曲輪が点在する。北側は石垣上に一段高い平地がある。
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/odani/s/DSC_2232.jpg)
お茶屋から桜馬場までの鳥瞰図
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/odani/s/DSC_2262.jpg)
本丸・大広間鳥瞰図
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/odani/s/DSC_2234.jpg)
御茶屋跡
番所跡のすぐ上にある曲輪で、主郭の最先端に位置する。比較的広く、曲輪の真ん中に前後に分ける低い土塁が見られる。
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/odani/s/DSC_2237.jpg)
カモシカ注意
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/odani/s/DSC_2241.jpg)
馬洗池
馬洗池は湧水ではないが往時は年中水が絶えなかったという。
鳥瞰図によると、馬洗池のすぐ近くに井戸があります。この井戸からくみ上げた水を馬洗池に満たしたのでしょうか。いずれにしろこの山城が水源を持っていたことが明らかです。
籠城戦においては、食料は備蓄するとして、水が得られることが最重要事項です。小谷城において、このような高地(麓から標高差200m以上)において井戸から水が得られたということが、防備堅固な山城の重要ポイントでしょう。
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/odani/s/DSC_2245.jpg)
首据石
黒金門跡の手前にあり、天文二年(1533)1月、初代亮政は六角氏の合戦の際、家臣の今井秀信が敵方に内通していたことを知り神照寺に誘殺し首をここにさらしたと伝えられる。
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/odani/s/DSC_2255.jpg)
浅井家及家臣佛・・
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/odani/s/DSC_2272.jpg)
大広間
別名「千畳敷」と呼ばれ長さ約85m、幅約35mで全面に高さ約4mの石垣が積まれている大広間跡は、建物跡が検出されているほか、石組みの井戸跡や蔵跡が確認されている。
大広間の一番奥に、石垣が確認できます。本丸跡の石垣です。
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/odani/s/DSC_2263.jpg)
本丸跡の石垣
江戸時代中期の小谷城跡絵図に「天守共 鐘丸共」と記されており、鐘丸がその機能を表していると考えられる。構造については不明であるが、何層かの建物であったことが想定される。
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/odani/s/DSC_2270.jpg)
本丸跡
本丸まで到着したわれわれは、ここでUターンして下山します。番所まで至り、電話でタクシーを呼びました。しばらくして到着したタクシーは、登りで乗車した運転手さんと同じ人でした。
タクシーで河手駅まで、そこからJRで米原駅、新幹線で東京へと帰途につきました。
小谷城跡を登っていくと、各所で周囲の展望が開けます。
まずは、伊吹山方面の展望です。
伊吹山
大依山 横山
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/odani/s/DSC_2235.jpg)
伊吹山
大依山 横山
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/odani/s/DSC_2244.jpg)
伊吹山は、標高1377m、岐阜県と滋賀県の県境に聳え、滋賀県の最高峰です。
大依山は、「姉川の合戦」を前に、浅井・朝倉軍が軍議を開いた山です。砦跡が随所に残ります。
横山は、小谷の支城、横山城があった山です。その手前に流れる姉川を挟んで、元亀元年(1570)6月、浅井・朝倉軍と織田・徳川軍が戦いました。
姉川の合戦で織田方が勝利した後、信長は横山城を築城し、木下秀吉を配置して前線基地としました。
次に琵琶湖方面です。
長浜城・彦根城方面 虎御前山
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/odani/s/DSC_2252.jpg)
比良山系 竹生島 山本山城跡
虎御前山 丁野山城跡
山崎丸 中島城跡 福寿丸
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/odani/s/DSC_2229.jpg)
姉川の合戦の後、浅井軍の諸将が徐々に寝返っていき、付城も横山城から、小谷城の南側の正面にある虎御前山へと前進しました。
山本山城は浅井氏の支城で、重臣阿閉貞行(あつじさだゆき)が守備していましたが、後に織田方に寝返りました。
丁野山城、中島城は浅井氏の支城でした。
山崎丸は、朝倉氏の重臣山崎吉家が守っていました。
福寿丸は浅井福寿庵が守っていました。
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/odani/s/DSC_2224.jpg)
阿閉貞行の寝返りにより山本山城が手に入ったことで、織田方は小谷城の包囲が可能になり、越前から小谷城への北国街道のルートを封鎖することに成功しました。このため援軍に赴いた朝倉義景の軍勢(2万といわれる)は小谷城に入ることができず、余呉や木ノ本などに布陣しました。
1573年(天正元年)、信長は自ら浅見対馬守の手引きで大嶽を攻撃、落城させることに成功しました。さらに翌日には形勢不利と見た朝倉軍が撤退するところを一気に強襲し、朝倉軍に壊滅的な打撃を与えました(刀根坂の戦い)。信長は越前に攻め込んで朝倉氏を滅亡させたのち、虎御前山に帰陣しました。翌日、羽柴秀吉の軍勢が清水谷の急傾斜から小谷城京極丸を急襲して陥落させ、本丸を守る長政と小丸を守る長政の父・久政を分断させることに成功しました。その日のうちに小丸を落城させ、久政は自害しました。さらに本丸も落ち、長政は本丸の袖曲輪にある赤尾屋敷で自刃し、ここに浅井氏は滅亡しました。
その後、小谷城は羽柴秀吉に与えられましたが、秀吉は1575年(天正3年)、北国街道と琵琶湖に面しており港もある今浜に新たに築城して居城としました(長浜城)。そのため小谷城は廃城となり、現代に至っています。
今回、土曜に大阪で所用を済ませ、その日は長浜駅近くのホテルに宿泊し、日曜に小谷城を訪問しました。
長浜駅?と聞いて長浜城を思い浮かべました。そう、上記の通り、浅井氏が滅んだ後に羽柴秀吉の居城となった城です。
調べたら、立派な天守閣も再興されているではないですか。こんな有名な城で天守閣もあるのに、100名城、続100名城のいずれにも含まれていないのはなぜでしょうか。
土曜日、長浜駅を降り立ち、ホテルへの移動の途中で長浜城を訪問しました。
まずは、長浜城天守閣に向かって、ひょうたん状の切り抜きを有するモニュメントがあります。皆さん、切り抜きを通して天守閣が映り込むように写真を撮影しています。私も便乗しました。
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/odani/s/DSC_2207.jpg)
ひょうたんの向こうに長浜城
天守閣に向かいます。
本日は時間が遅いので、天守閣と接続する長浜城歴史博物館は閉まっていました。
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/odani/s/DSC_2212.jpg)
長浜城
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/odani/s/DSC_2215.jpg)
長浜城
長浜城についてウィキで調べて見ました。上の小谷城との関係の深い人たちが出てきました。
1573年(天正元年)に羽柴秀吉(豊臣秀吉)がこの地に長浜城を築城しました。
1582年(天正10年)に本能寺の変が起こり、明智に加担した山本山城主の阿閉貞征が長浜城を占領しました。阿閉は山崎の戦いにも明智方として参加し、負けた阿閉は秀吉方に捕縛され阿閉一族全て処刑され、長浜城は羽柴氏の支配下に戻りました。
小谷城攻防で浅井側から織田方に寝返ったあの山本山城主の阿閉貞征ですね。
大坂の陣後の1615年(元和元年)、長浜城は廃城になりました。
日が暮れて、長浜駅近くに夕食に出かけました。長浜駅到着時、観光案内所で長浜名物として焼鯖そうめんのちらしをもらいました。ところが、現在19時半、お店はことごとく閉店しているのでした。
やむを得ず、魚民で夕食となりました。
夕食後、長浜駅周辺からホテルへ向かうと、長浜城がライトアップされているのが確認できました。到着時と同様、ひょうたんから長浜城を眺める写真を撮りました。
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/odani/s/DSC_2220.jpg)
ひょうたんの向こうに長浜城
前日、大阪での所要を済ませた後に長浜駅近くのホテルに宿泊し、当日朝、JRで最寄り駅である河手駅に移動しました。
今回の小谷城跡訪問で最大の問題点はクマでした。クマとの遭遇を防ぐためには、小谷城跡の訪問を諦めるべきか否かという問題です。小谷城跡に登らない場合、近くの小谷城戦国歴史資料館で100名城のスタンプだけ押して退散することとなります。
ネットを調べても結論が出ません。現地の人たちの意見を聞いて決めることにしました。
まず、宿泊したホテルのフロントで訊きました。「大丈夫とまでは言い切れない」との回答です。
次に長浜駅の観光案内所で聞きました。やはり「ゼロとはいえない」というお答えです。
3番目は河手駅の観光案内所です。無人駅のようですが、観光案内所にはおじさんが詰めていました。聞いたところ、「心配することはない。しゃべったりクマ鈴を鳴らしながら行けば大丈夫」とのことでした。
最後は可手駅から乗車したタクシーの運転手さんです。やはり「心配ない」とのことでした。タクシーで番所跡まで到着すると、駐車スペースに何台かクルマが駐まっています。「何組かが登っているようなので、クマも近づかないのではないか」ということです。
私は、北海道で使用したクマ鈴を今回持参していました。リュックの背負いひもにくくりつけていたのですが、河手駅で調べたらなくなっていました。どこかで外れて紛失してしまったようです。これはがっかりです。クマ鈴が使えないので、話し声でこちらの存在をクマに伝えなければなりません。
下の絵図は、絵図の右端近く「現在地 番所」と記載されたところにあります。
100名山のスタンプは、絵図のやや右下の小谷城戦国歴史資料館に置いてあります。一方、小谷城跡を訪問する際、クルマで「現在地 番所」まで登ることができます。絵図の右端「大手道」と書かれている付近から小谷林道が山中に分け入り、終点が「番所」になっています。
河手駅で乗ったタクシーで、まず小谷城戦国歴史資料館に行ってもらい、一時下車してスタンプを押印し、そこから戻って小谷林道に入り、番所まで行ってもらいました。
そこから歩いて、絵図の中央やや上の「本丸」までが目標です。
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/odani/s/DSC_2224.jpg)
小谷城跡絵図
小谷林道入り口で標高が100m、番所の標高が300mです。もしこのルートでタクシーを使わなかったら、番所までで標高差200mを登らなければなりません。高齢者のわれわれには負担です。本丸は標高350mです。番所までタクシーで移動したわれわれは、番所から本丸まで標高差50mを登るだけで到着できます。
本丸よりさらに上に行く場合、山王丸は標高398m、そこから六坊に下ると360m、さらに大嶽(小谷山)が495mです。
下の写真は、河手駅でわれわれを迎えてくれる浅井長政公とお市の方の銅像です。
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/odani/s/DSC_2222-2.jpg)
浅井長政公・お市の方像
タクシーに乗車し、まずは小谷城戦国歴史資料館で途中下車して100名城スタンプを押印しました。下の写真を一枚撮影しただけで退散しました。
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/odani/s/DSC_2223.jpg)
小谷城戦国歴史資料館
そして、戦国ガイドステーション付近で林道に入り、林道の終点である番所にてタクシーを降りました。上の絵図とともに、下写真のような看板がわれわれを脅かします。
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/odani/s/DSC_2225.jpg)
クマに注意
番所から御茶屋跡、桜馬場、大広間、本丸までの途中、下のような鳥瞰図が置かれていました。
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/odani/s/DSC_2226.jpg)
番所鳥瞰図
番所
小谷城の主要部への入り口に位置する。通常、番所があった所といわれる。登城道に面して南北に細長く石垣を組み、周辺には腰曲輪が点在する。北側は石垣上に一段高い平地がある。
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/odani/s/DSC_2232.jpg)
お茶屋から桜馬場までの鳥瞰図
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/odani/s/DSC_2262.jpg)
本丸・大広間鳥瞰図
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/odani/s/DSC_2234.jpg)
御茶屋跡
番所跡のすぐ上にある曲輪で、主郭の最先端に位置する。比較的広く、曲輪の真ん中に前後に分ける低い土塁が見られる。
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/odani/s/DSC_2237.jpg)
カモシカ注意
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/odani/s/DSC_2241.jpg)
馬洗池
馬洗池は湧水ではないが往時は年中水が絶えなかったという。
鳥瞰図によると、馬洗池のすぐ近くに井戸があります。この井戸からくみ上げた水を馬洗池に満たしたのでしょうか。いずれにしろこの山城が水源を持っていたことが明らかです。
籠城戦においては、食料は備蓄するとして、水が得られることが最重要事項です。小谷城において、このような高地(麓から標高差200m以上)において井戸から水が得られたということが、防備堅固な山城の重要ポイントでしょう。
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/odani/s/DSC_2245.jpg)
首据石
黒金門跡の手前にあり、天文二年(1533)1月、初代亮政は六角氏の合戦の際、家臣の今井秀信が敵方に内通していたことを知り神照寺に誘殺し首をここにさらしたと伝えられる。
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/odani/s/DSC_2255.jpg)
浅井家及家臣佛・・
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/odani/s/DSC_2272.jpg)
大広間
別名「千畳敷」と呼ばれ長さ約85m、幅約35mで全面に高さ約4mの石垣が積まれている大広間跡は、建物跡が検出されているほか、石組みの井戸跡や蔵跡が確認されている。
大広間の一番奥に、石垣が確認できます。本丸跡の石垣です。
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/odani/s/DSC_2263.jpg)
本丸跡の石垣
江戸時代中期の小谷城跡絵図に「天守共 鐘丸共」と記されており、鐘丸がその機能を表していると考えられる。構造については不明であるが、何層かの建物であったことが想定される。
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/odani/s/DSC_2270.jpg)
本丸跡
本丸まで到着したわれわれは、ここでUターンして下山します。番所まで至り、電話でタクシーを呼びました。しばらくして到着したタクシーは、登りで乗車した運転手さんと同じ人でした。
タクシーで河手駅まで、そこからJRで米原駅、新幹線で東京へと帰途につきました。
小谷城跡を登っていくと、各所で周囲の展望が開けます。
まずは、伊吹山方面の展望です。
伊吹山
大依山 横山
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/odani/s/DSC_2235.jpg)
伊吹山
大依山 横山
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伊吹山は、標高1377m、岐阜県と滋賀県の県境に聳え、滋賀県の最高峰です。
大依山は、「姉川の合戦」を前に、浅井・朝倉軍が軍議を開いた山です。砦跡が随所に残ります。
横山は、小谷の支城、横山城があった山です。その手前に流れる姉川を挟んで、元亀元年(1570)6月、浅井・朝倉軍と織田・徳川軍が戦いました。
姉川の合戦で織田方が勝利した後、信長は横山城を築城し、木下秀吉を配置して前線基地としました。
次に琵琶湖方面です。
長浜城・彦根城方面 虎御前山
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/odani/s/DSC_2252.jpg)
比良山系 竹生島 山本山城跡
虎御前山 丁野山城跡
山崎丸 中島城跡 福寿丸
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/odani/s/DSC_2229.jpg)
姉川の合戦の後、浅井軍の諸将が徐々に寝返っていき、付城も横山城から、小谷城の南側の正面にある虎御前山へと前進しました。
山本山城は浅井氏の支城で、重臣阿閉貞行(あつじさだゆき)が守備していましたが、後に織田方に寝返りました。
丁野山城、中島城は浅井氏の支城でした。
山崎丸は、朝倉氏の重臣山崎吉家が守っていました。
福寿丸は浅井福寿庵が守っていました。
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/odani/s/DSC_2224.jpg)
阿閉貞行の寝返りにより山本山城が手に入ったことで、織田方は小谷城の包囲が可能になり、越前から小谷城への北国街道のルートを封鎖することに成功しました。このため援軍に赴いた朝倉義景の軍勢(2万といわれる)は小谷城に入ることができず、余呉や木ノ本などに布陣しました。
1573年(天正元年)、信長は自ら浅見対馬守の手引きで大嶽を攻撃、落城させることに成功しました。さらに翌日には形勢不利と見た朝倉軍が撤退するところを一気に強襲し、朝倉軍に壊滅的な打撃を与えました(刀根坂の戦い)。信長は越前に攻め込んで朝倉氏を滅亡させたのち、虎御前山に帰陣しました。翌日、羽柴秀吉の軍勢が清水谷の急傾斜から小谷城京極丸を急襲して陥落させ、本丸を守る長政と小丸を守る長政の父・久政を分断させることに成功しました。その日のうちに小丸を落城させ、久政は自害しました。さらに本丸も落ち、長政は本丸の袖曲輪にある赤尾屋敷で自刃し、ここに浅井氏は滅亡しました。
その後、小谷城は羽柴秀吉に与えられましたが、秀吉は1575年(天正3年)、北国街道と琵琶湖に面しており港もある今浜に新たに築城して居城としました(長浜城)。そのため小谷城は廃城となり、現代に至っています。
今回、土曜に大阪で所用を済ませ、その日は長浜駅近くのホテルに宿泊し、日曜に小谷城を訪問しました。
長浜駅?と聞いて長浜城を思い浮かべました。そう、上記の通り、浅井氏が滅んだ後に羽柴秀吉の居城となった城です。
調べたら、立派な天守閣も再興されているではないですか。こんな有名な城で天守閣もあるのに、100名城、続100名城のいずれにも含まれていないのはなぜでしょうか。
土曜日、長浜駅を降り立ち、ホテルへの移動の途中で長浜城を訪問しました。
まずは、長浜城天守閣に向かって、ひょうたん状の切り抜きを有するモニュメントがあります。皆さん、切り抜きを通して天守閣が映り込むように写真を撮影しています。私も便乗しました。
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/odani/s/DSC_2207.jpg)
ひょうたんの向こうに長浜城
天守閣に向かいます。
本日は時間が遅いので、天守閣と接続する長浜城歴史博物館は閉まっていました。
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/odani/s/DSC_2212.jpg)
長浜城
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長浜城
長浜城についてウィキで調べて見ました。上の小谷城との関係の深い人たちが出てきました。
1573年(天正元年)に羽柴秀吉(豊臣秀吉)がこの地に長浜城を築城しました。
1582年(天正10年)に本能寺の変が起こり、明智に加担した山本山城主の阿閉貞征が長浜城を占領しました。阿閉は山崎の戦いにも明智方として参加し、負けた阿閉は秀吉方に捕縛され阿閉一族全て処刑され、長浜城は羽柴氏の支配下に戻りました。
小谷城攻防で浅井側から織田方に寝返ったあの山本山城主の阿閉貞征ですね。
大坂の陣後の1615年(元和元年)、長浜城は廃城になりました。
日が暮れて、長浜駅近くに夕食に出かけました。長浜駅到着時、観光案内所で長浜名物として焼鯖そうめんのちらしをもらいました。ところが、現在19時半、お店はことごとく閉店しているのでした。
やむを得ず、魚民で夕食となりました。
夕食後、長浜駅周辺からホテルへ向かうと、長浜城がライトアップされているのが確認できました。到着時と同様、ひょうたんから長浜城を眺める写真を撮りました。
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/odani/s/DSC_2220.jpg)
ひょうたんの向こうに長浜城