弁理士の日々

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塩野七生著「ローマ人の物語~ローマ世界の終焉」(1)

2012-01-05 20:50:52 | 歴史・社会
一昨年の秋に発行された「ローマ人の物語~キリストの勝利」(38~40巻)に引き続き、塩野七生著「ローマ人の物語~ローマ世界の終焉」(41~43巻)に入ります。このシリーズで、「ローマ人の物語」もいよいよ終末を迎えることになります。
ローマ人の物語〈41〉ローマ世界の終焉〈上〉 (新潮文庫)
クリエーター情報なし
新潮社

ローマ帝国が、西ヨーロッパのほぼ全域(ライン川の西、ドナウ川の南)、地中海全域、北アメリカを勢力範囲とし、その範囲名において長期間の平和と繁栄(パックス・ロマーナ)を維持し続けたのは、紀元前1世紀から紀元後2世紀ごろまででしょうか。
その後、キリスト教が浸透すると、キリスト教徒は神の意志にしか従わないので皇帝の指揮に従わなくなってきます。また、ライン川の東とドナウ川の北から押し寄せる蛮族(ゲルマン系各部族)の侵攻が激しくなり、ガリアの諸地域は定常的にゲルマン蛮族の略奪を受けるようになりました。しかし、イタリア半島までもが蛮族に蹂躙されるような事態にはまだ至っていませんでした。
紀元395年にテオドシウス帝が死に、長男のアルカディウス18歳が東ローマ、次男のホノリウス10歳が西ローマの皇帝となります。これ以降、ローマ帝国発祥の地であるイタリア半島でさえ、とうとう安全ではなくなりました。
この頃から西ローマ帝国がほろびてイタリア半島が壊滅的状況になるまでが、「ローマ人の物語」41~43巻「ローマ世界の終焉」の舞台です。
第1部 最後のローマ人
第2部 ローマ帝国の滅亡
第3部 「帝国以後」

《第1部 最後のローマ人》
東ローマ皇帝のアルカディウスも、西ローマ皇帝のホノリウスも、政治には興味がなく、軍司令官として軍を指揮することもありません。それでもこの時代、前の皇帝の息子であるというそれだけの理由で、皇帝の座にそれぞれ13年間、28年間も座り続けたのです。『現生の最高権力者も、神が望んだがゆえにその地位を占めていられるというキリスト教の「王権神授説」が、支配者にとっていかに有利であったかが想像できる。』

第1部の「最後のローマ人」とは、主に当時の西ローマ帝国(ほぼイタリア半島)の防衛に功績のあった将軍スティリコを指しています。
スティリコは、父親がヴァンダル族、母親がローマ人という「ローマ化した蛮族」でした。戦争の能力と外交能力に優れ、将軍スティリコの力のみでしばらくの間は西ローマの平和がかろうじて保たれました。
このころゲルマン系蛮族のひとつである西ゴート族が、アラリックに率いられてドナウ川を越え、現在のブルガリアに当たる地域を蹂躙しました。
対するは将軍スティリコです。最初の会戦では、スティリコのローマ軍が勝利を得てアラリック壊滅寸前まで追い詰めたのですが、ここで東ローマ皇帝から「戦闘中止」の命令を発したのです。東ローマ宮廷の官僚に嫉妬されたのが原因でした。
これ以降ローマ帝国滅亡までの間、優れた軍人が現れても、宮廷に足を引っ張られて力を発揮することができない、という事態が何回も生じるようにようになりました。「帝国は、自壊の過程を転げ落ちていった」といってもいいでしょう。

イタリア北部では、アラリック率いる西ゴート族との何度もの戦い、それとは別に40万人で大挙してイタリアに侵入した東ゴート族との戦いがあり、その都度スティリコが勝利してイタリアは危機を脱しました。

その将軍スティリコの最後ですが、西ローマ帝国宮廷の官僚の陰謀によって孤立させられます。このとき、スティリコは、手勢を率いて反旗を翻せば皇帝を倒すこともできたでしょうが、それをしませんでした。立った一人で皇帝に面会に行き、そこで死刑を宣告されて処刑されたのです。
スティリコのもとで闘った将兵たちは、西ローマ皇帝のもとを去って西ゴート族に入ってしまいました。
スティリコ亡き後、アラリック率いる西ゴート族はやりたい放題でした。紀元410年には、長いことローマ帝国の首都であり続けた都市ローマが、アラリックらに劫掠されたのでした。

紀元410年の「ローマ劫掠」は、生き残った人にも、ローマを捨てる決心をさせました。生まれ故郷のガリアに帰ると決めたナマディアヌスは、「帰郷」と題した長編詩を残しました。その一節
『ローマよ、あなたはこれまで数多くの民族や部族に別れていた人間たちを一つの国家に統合し、その彼らに法による公正を享受することを教えたのだった。たしかに、初めはわれわれはローマに征服された。だが、ほどなくそのわれわれも、ローマの許で生きる良さを実感するようになる。なぜならローマは、強大な軍事力を持ちながらもその行使は自制することで、軍事力すらもより効果的に活用することを知っていたからである。その結果、ローマ帝国内に住む人々は、ローマの法の許で、自分たち固有の風習は維持しつづけながらも、それを共有しない他の民族と共生することを学んだのだ。ローマ帝国自体が、多民族の集まった連合体でもあったのだから。』

塩野七生氏が、長編の「ローマ人の物語」で描き続けてきたローマ史観がここに凝集されています。
そしてそのローマが、今、歴史から消え去ろうとしているのです。

以下次号
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