弁理士の日々

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塩野七生著「ローマ人の物語~ローマ世界の終焉」(2)

2012-01-14 23:21:50 | 歴史・社会
だいぶ前の第1部に引き続き、第2部です。
ローマ人の物語〈42〉ローマ世界の終焉〈中〉 (新潮文庫)
塩野 七生 (著)
新潮社

《第2部 ローマ帝国の滅亡》
西ローマ帝国では、「最後のローマ人」と讃えられた将軍スティリコを皇帝が死刑に処してしまい、スティリコに抑えつけられていた西ゴート族のアラリックの暴虐を許し、ローマ市が劫略を受けるに至りました(以上、第1部)。

その後も、皇帝と皇帝を取り巻く宮廷官僚がなす施策は、ローマの滅亡を促進させるような愚策ばかりでした。
紀元425年から450年まで、西ローマ帝国は、幼帝ヴァレンティニアヌス3世の母親であるガッラ・プラチディアが実権を握っていました。この時期、使える将軍としてボニファティウスとアエティウスという2人が働いていました。ガッラは、この2人を有効に働かせることができず、逆に2人を反目させる言動を取ってしまったのです。
北アフリカで指揮を執っていたボニファティウスがアフリカの分離独立を企てているとの噂を耳にしたガッラは、ボニファティウスに召喚の命令を出しました。ボニファティウスは自衛のため、ヒスパニアを支配していたヴァンダル族に応援を頼んでしまったのです。ところがそのヴァンダル族が部族全員を伴ってジブラルタル海峡を越え、北アフリカに進出してきます。ヴァンダル族とボニファティウスの間は戦闘に発展し、最後は西ローマ帝国の一部として栄えていた北アフリカがヴァンダル族に蹂躙される結末に至るのです。442年。

私たちは歴史で「ローマ帝国はゲルマン民族の大移動によって滅亡した。フン族の来襲がゲルマン民族大移動の原因だった。」と習いました。
「ローマ人の物語」でも、ここにおいてフン族が登場します。
ローマ人であるアミアヌス・マルケリヌスが、ゲルマン系の北方蛮族から聞いた情報として、フン族について記しています。
「二本足で動く、人間というよりは野獣。」「何をするにもどこに行くにも馬に乗る。」「馬上のフン族は、まるで人間が馬に釘打ちにされでもしたかのように人馬一体で、それがためにすさまじい突撃力を発揮する。」「彼らの住まいは二輪の牛車で、その内部で、食し、交わり、子を産むなどのすべてをやってしまう。最も本質的な意味で非定住民族であるためか、いかに肥沃な土地であろうと耕作にはまったく関心を示さない。」
さらに著者の塩野氏は、フン族の強さの要因を以下のように分析しています。
「1.目的なし、目的地なし。2.家を持つことに関心なし。3.法律なし。4.家族の守り神を持たない。5.明日の食を確保する考えがない。」
5世紀になると、ゲルマン民族を押し出したフン族がローマ領との境界線とされていたドナウ川に姿を現します。現代のハンガリーと重なる地方であり、ここがフン族の新たな根拠地となりました。

444年、アッティラが、兄の死とともにフン族の族長となりました。これ以降、フン族の脅威は大幅増大します。
アッティラ率いるフン族は、ドナウ川を渡って東ローマ帝国領内の侵略を開始しました。フン族に攻め入られた地域は、フン族が去った後には犬の声もしないといわれるとほどに殺し尽くされ破壊し尽くされました。東ローマ帝国はアッティラに全面降伏です。

アッティラが次に狙ったのは西ローマ帝国でした。しかしここでアッティラは、皇帝が居を構えるラヴェンナを包囲するのではなく、ガリア(現在のフランス)へ向かったのです。フン族の兵士だけなら3万、総戦力は10万に迫ったかもしれないと塩野氏は推定します。ガリアでは、西ローマ帝国の2人の軍司令官のうちで残ったアエティウスがアルルを本拠地にして守備していました。アエティウスは西ゴート族らと反アッティラ連合軍を組んで迎え撃ちました。451年です。そして6月24日、両軍はシャンパーニュの野を舞台に「カンピ・カタラウニチの会戦」と名付けられた戦いを行いました。そしてこの会戦、両軍とも布陣に手間取っているうちに時間が過ぎ、午後の3時過ぎにようやく始まった戦闘は、やみくもに力で押すだけの混戦となりました。そして、日が落ちる頃にはアッティラ側が押される一方となります。
『考えれば、あれほども恐れられていたフン族も、戦闘らしい戦闘をしたとたんに敗れたのだった。蛮族とは、防衛も十分でない民間人を襲う場合にだけ強かったのか、とさえ思ってしまう。』
なぜかアエティウスは追撃せず、アッティラは無事にライン川を渡ってゲルマンの地に逃げ戻りました。
翌年,アッティラは北イタリアに侵攻しました。そして北イタリア全域を略奪して回ります。海上のラグーナに町を作ってできたヴェネチアはこのときに誕生しました。フン族から逃れるために海上に逃げたのです。
ローマは、元老院議員2人とローマの司教レオの3人からなる交渉団をアッティラのもとに送りました。カネを払うからお帰り頂きたいという交渉で、これにアッティラは承諾してアルプスの北に帰って行きました。
そのアッティラが、453年に宴会のさなかに突然死亡しました。この直後から後継者争いでフン族は四分五裂になり、フン族は霧散してしまいました。

パックス・ロマーナの繁栄を誇ったローマ帝国が滅亡の瀬戸際まで追い詰められたのは、皇帝に忠誠を示さないキリスト教が広まったことと、ゲルマン民族がローマ帝国領内に雪崩を打って移動してきたことが原因と言われています。ゲルマン民族はローマ人から見れば野蛮な蛮族でしたが、その蛮族をすら恐れさせたフン族は途方もなく強大であると信じられていました。しかし、アッティラの活動期間はたったの10年程度、それも会戦ではアエティウスに負ける始末です。アッティラが死んだらフン族そのものが霧散してしまいました。この程度のフン族が、本当にゲルマン民族(彼らも野蛮人)を恐れさせたのでしょうか。
真相はというと、それまではドナウ川の北・ライン川の東の森の中で暮らしていたゲルマン民族が、フン族の襲来を一つの契機として、肥沃なローマ帝国領内に移動してきたに過ぎないのかもしれません。カンピ・カタラウニチの会戦から推し量る限り、もしゲルマン諸部族が連合してフン族に当たれば、簡単に撃退できたかもしれないと思いました。

翌454年、皇帝ヴァレンテニアヌスが首都ローマを訪問し、このとき南ガリアからアエティウスもやって来ました。両者の会見の席上、皇帝が突然キレてしまい、自らアエティウスを刺し殺すという暴挙に出たのです。
翌日、皇帝は元老院で釈明しますが、元老院議員の一人は言いました。「陛下、陛下の思いが何であったのかはわたしにはわかりません。だが、わたしでもわかるのは、あなたは、左腕で右腕を斬ってしまわれたということです」

フン族の霧散という好機を活かすことができず、西ローマ帝国は皇帝自身の愚行によって自壊の道を辿っていきます。

455年には、北アフリカに君臨していたヴァンダル族がローマ市を襲います。ローマ市は無抵抗で略奪に任せました。

その後、西ローマ帝国が単独で北アフリカのヴァンダル族を攻撃しようとして事前に失敗し、東西両ローマ帝国が共同でヴァンダル族を攻撃しようとしてやはり失敗しました。いずれも、ヴァンダル族のゲンセリックの計略にやられてしまったのです。もはやローマ帝国軍に機略も軍略もありません。このとき、東ローマ帝国は西ローマ帝国を見捨てました。

そしてオドアケルの登場です。私たちは中学・高校で「傭兵隊長オドアケルによって西ローマ帝国は滅亡した」と教わりました。
実際には、西ローマ軍で働く蛮族の将軍たちが、待遇改善要求をしたのに皇帝から拒否され、オドアケルを頭目に立てて武力闘争に出た、というだけのことでした。オドアケルは戦争に勝ち、ラヴェンナに入場して皇帝ロムルス・アウグストゥスを退位させました。オドアケルは、自分が帝位に就くわけでもなく、他の誰かを帝位に就かせたのでもありません。それだけのことですが、こうして誰も気づかない間に西ローマ帝国が滅亡していたのでした。476年です。

以下次号。
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