ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

関らない

2017年12月26日 | ノンジャンル
今現在のこの世を生きるのは、たかだか100年
ほどである。

私などは恐らくもう20年とないだろう。

その限られた時間の中で出会う人達もまた
限られている。

限られているからこそ、特別であり、かけがえの
ないものも多くあるだろう。

その関りが、互いの生きるを励まし、それぞれの
立場でまた前を向けるなら良いだろうし、
そうでなければ関らないほうが良い。

医者が病人を見捨てるのは論外だが、病気を治す
気のないものに、何をしたところで無駄である。

ただ、病気であることを知らぬ者にはそれが病気で
あることを知らしめる必要はある。
そうと知って、その人がどうするのかはその人の
自由である。

いくら主体が自身であるとはいっても、関りの中で
人は多分に影響されてしまう。

自身の生きるに、悪い影響となる関りは断ち切った
方が良い。少しでも良い影響であるならば、進んで
関っていくべきだろう。

袖振り合うもではなく、自ら袖を振って生きる
という事だ。

そしてその関りは、対等でなければ意味がない。
自身が上と見ても、自身が下と見ても、その良き
関りの意味がなくなってしまう。

絶望の闇の中に佇むとき、彼もまた、彼女もまた、
その闇の中でもがきながらも前へ進もうとしている
ことを感じて、自身も見えない光を求めて歩き出す。

そういう関りは、一つあれば充分である。

その一つの関りが、何十億の累乗となっていく
のである。

黒板上の顔も知らない、声も聞いたことがない、
名前すら知らない関りの中での、殴り書きの
応酬など笑止である。

それで今の自身の現実に対し、一歩でも一ミリでも
前へ進めているのか。
それは誰あろう自分自身が最もよくわかっている
ことだろう。

関る、関らないは、他ならぬ自身が決めることである。

朱に交われば赤くなる。
交わったのは自身である以上、赤くなったことを
誰のせいにしたところで詮無い事である。