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yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

曲江 杜甫

2025-04-28 07:17:42 | 文学
盛唐の詩人 杜甫の律詩「曲江」を紹介します。

朝回日日典春衣
毎日江頭尽酔帰
酒債尋常行処有
人生七十古来稀
穿花蛱蝶深深見
点水蜻蜓款款飛
伝語風光共流転
暫時相賞莫相違
  

「読み方」
朝(ちょう)より回(かえ)って日日(にちにち)春衣を典(てん)す
毎日江頭(こうとう)に酔(ゑ)いを尽くして帰る
酒債(しゅさい)尋常行処(こうしょ)に有り
人生七十古来稀なり
花を穿(うが)つ蛱(きょう)蝶(ちょう)は深深として見え
水に点ずる蜻蜓(せいてい)は款款(かんかん)として飛ぶ
伝語(でんご)す風光共に流転して
暫時(ざんじ)相賞(あひしょう)して相(あひ)違(たが)うこと莫(な)からんと

  「訳」

朝廷を退出すると、毎日、春の衣服を質に入れ、曲江のほとりで泥酔して
帰る。酒の借金はふつうのことで、行く先々にできている。人生七十歳まで生きることは昔からめったにないから、今のうちに楽しんでおきたいのだ。花の蜜を吸うあげはちょうが奧に見え、水面に尾をつけて卵を生む、とんぼがゆるやかに飛んでいる。私はこう言葉を伝えたい、春の風光よ、私と共に流れゆき、しばらくのあいだ、このよい季節を楽しみ合うようにしよう。

  「鑑賞」

曲江は長安の東南にあった池の名、はじめ漢の武帝が増築し、のち唐の玄宗のとき改修されて、長安随一の行楽地としてにぎわった。ここを詩題にとったこの詩は杜甫四十七歳の作、左拾遺という職にいたときです。念願の仕官でしたが生真面目な性格から剛直に諫言したため粛宗からうとまれてしまい、次第に酒に憂さをはらすようになり「どうせ短い人生さ、せいぜい楽しくやろう」というデカダンな気分がみえる作品です。最後の二句は「時よ停まれ」という作者の胸のうちの叫びでしょう。罤四句の「人生七十古来稀」なり」は古稀の語の出典となりましたが、杜甫自身も五十九歳で没しています。

 石川忠久「NHK漢詩紀行」日本放送出版協会

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内田康夫と浅見家

2025-04-25 06:28:16 | 文学
ミステリー作家、内田康夫は、1934年に生まれ、コピーライター、テレビCM制作会社
経営を経て、1980年に「死者の木霊」という作品でデビューしました。その後、次々に作品を発表し、今日まで150余の作品を執筆しました。2007年までには1億冊を売り上げ、翌年には日本ミステリー文学大賞を受賞しました。
ところで全作品の約70%、106冊には名探偵、浅見光彦が登場しています。本業はフリーのルポライターながら、一般の刑事を遙かに上回る捜査能力と謎に迫る根性を持ち、事件の全貌を想像する飛躍的な発想と、ストーリーの構築能力は古今の名探偵と比べても特に優れており、天才的な資質の持ち主ではないかと思われます。
さて内田家と小説の中の浅見家は、ともに東京都北区西ケ原にあります。内田康夫の父が浅見家の主治医であったことから両家は親しい関係にありました。浅見家の男子は、代々内務省か大蔵省に勤める高級官僚の家で、浅見光彦の父、浅見修一氏は大蔵省の局長でしたが次官就任の直前に急逝しました。長男、陽一郎は秀才の誉れ高く、浅見家のホープとして育てられ東大法学部に進み、学生時代に司法試験に合格し、首席で大学を卒業した後、警察庁に勤務しており、刑事警察機構のトップである刑事局長の要職にあります。次男の光彦は、常に賢兄、陽一郎の影に隠されざるを得ず、学校の成績は落ちこぼれ同然で浅見家の愚弟の位置に甘んじていました。三流大学の博士課程を卒業の後、会社勤めも経験しますが。そういった事が続かずに、内田康夫の紹介でルポライターをして日本中を旅しながら「旅と歴史」に寄稿をして愛車ソアラのローンの支払いに汲々としています。長身でハンサムで上品ですから小説の中ではいつもヒロインと良い線まで行くのですが、最後の押しが決まらず、未だに33歳の独身で浅見家の居候を続けています。
浅見光彦には妹が2人いて、すぐ下の祐子は「後鳥羽伝説殺人事件」の物語の中で崖崩れ事故に紛れて殺害されましたが、光彦は犯人を追い詰めて、きっちり敵討ちをしました。次の妹、佐和子はニューヨーク住まいで物語にはあまり登場しません。光彦の母の雪江未亡人は浅見家の中心で、光彦にとっては浅見家を牛耳る恐怖の母親です。
またお手伝いの吉田須美子は新潟県長岡市の出身で献身的に勤めています。先代のばあや、村山さんの後を嗣ぎ、次男の光彦を大事にしており、光彦坊ちゃまに女性が近づくのを懸命に阻止する癖があります。浅見家の家族同然ですが嫁に行く気配がまったくありません。光彦が探偵の最中にしばしば警察官とトラブルが起こしますが、警察庁の刑事局長の実弟という事実が判明すると、警察官の態度がコロッと変わります。水戸黄門の葵の印籠も負けそうです。
さて、内田康夫氏は内田家のドラ息子とご本人は謙遜して書いていますが、現在、長野県南軽井沢の塩沢に住んでいて、浅見光彦の事件簿を次々に発表して浅見家のプライバシーを暴露するものですから、浅見家のお手伝いの須美子からも「軽井沢のセンセ」などと軽んじられています。しかし彼は多芸、多才でピアノやチェロを弾く他に、囲碁は六段で文壇における不動の名人の位置にいます。彼の軽井沢の自宅の近くには「浅見光彦倶楽部」という建物があって、ファンで賑わっています。かつて、私も覗いたことがあり、光彦の小学校時代の通信簿なども見ることができました。光彦がよくかぶるという白い帽子を購入して近所を散歩する際に愛用しています。当然のことながら美貌のヒロインと近づくチャンスはまったく無いようです。
内田康夫氏は2018年に83歳で逝去されました。ご冥福を祈ります。

                内田康夫 「ぼくが探偵だった夏」 講談社
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オールド・ラング・ザイン

2025-04-22 06:31:11 | 文学
「オールド・ラング・ザイン」は、スコットランドの国民的詩人 ロバート バーンズ(1759~1796)が作った詩「遠き昔」ですが、日本で有名な「蛍の光」の原曲です。「バーンズ・ナイト」は詩人の誕生日の1月25日の前後に行われます。スコットランド国内にとどまらず世界中どこにいても、スコットランド人のいる所では人々が集まって、この特別な行事が催されます。詩人が愛したハギスという郷土料理を食べながら、スコッチウイスキーを飲み、「ハギスに捧げる詩」や「スコッツ・ワー・ヘー」「シャンターのタム」などバーンズの代表作を次から次へと朗読し、詩人を讃えるスピーチが披露されます。世界中を探してみても、これほど愛される詩人がいるでしょうか。なぜ、かくもバーンズはスコットランドの人々に愛され続けているのでしょうか。
「バーンズ・ナイト」の最後に全員で合唱するのが「オールド・ラング・ザイン」と題される古いスコットランド民謡です。バーンズが古英語で作詩しました。
AULD LANG SYNE (遠き昔)

Should auld acquaintance be forgot 昔なじみの忘らるべきや、
And never brought in mind? 心に思ひ起さずに。
Should auld acquaintance be forgot 昔なじみの忘らるべきや、
And days o’ lang syne        また遠き昔のことの

For auld lang my dears いざ遠き昔のために、君よ、
For auld lang syne いざ遠き昔のために、
We’ll tak’a cup o’kindness yet 我等は友愛の杯とらん、
For the sake auld lang syne いざ遠き昔のために。
We twa ha’e run about the braes 我等二人は丘駆け廻り、
And pu’d the gowans fine 雛菊の花を摘み合へり
But we’ve wandered many a weary foot されど其より長き年月
Sin’ auld lang syne 辛き旅路をさまよへり。
We twa ha’e paidl’t i’the burn 我等二人は小川に遊び、
Frae mornin’ sun till dine       朝より午後までを過せり。
But seas between us braid ha’e road’d されど其より長き年月
Sin’auld lang syne           大洋遠く遮れり。 
And here’s a hand my trusty fere, 此処に我が手あり、友よ、
And gi’es a hand o’ thine  汝が手をも差し出せよや。
And we’ll tak’a right guid willie-waught 而して我等心よく親愛の酒飲み干さん
For auld lang syne いざ遠き昔のために。
And surely ye’ll be your pint-stoup 而して汝は汝の大盃をとれ、
And surely ye’ll be mine そして我は我の大杯をとらん、
We’ll tak’a cup o’kindness yet   而して我等友愛の酒飲み交さん、
For auld lang syne   いざ遠き昔のために。
古英語は現代の英語と異なり、単語の意味、発音、表記が違うので、理解に苦しみます。
日本でいえば、1759年は江戸時代で与謝蕪村が活動した時代です。この時代に生まれた人
の誕生日を今も祝い、彼の詩を朗読する習慣をもつスコットランドの文化には驚きます。

土屋守 「スコットランド旅の物語」 東京書籍
中村為治 「バーンズ詩集」 岩波書店 
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おお スザンナ

2025-04-19 06:55:49 | 文学
    有名なアメリカ民謡の「おおスザンナ」の話です。この曲はスティーブン・フォスター(1826-1864)が1849年に作詩・作曲しました。フォスターはアメリカ民謡の父と言われ、「故郷の人々・ケンタッキーのわが家・金髪のジェニー・夢見る人・ネリーブライ・オールドブラックジョー」など数多くの作品を残しました。
ところで「おおスザンナ」を日本に初めて紹介したのは中浜万次郎(通称ジョン万次郎)でした。万次郎は幕末の人で、土佐の漁師でしたが漁に出て嵐で船が難破してしまい、鳥島に漂着していたところをアメリカの捕鯨船に助けられて1843年にアメリカに渡りました。当時、アメリカの西部で金鉱が発見され、ゴールド・ラッシュの最中にあったので、彼も金鉱に行って働き、所謂フォーティーナイナー(1849年組)の一人になりました。そこで資金を貯めて上海行きの船に乗せてもらい、1851年に琉球経由で日本に帰ってきました。それから陸路「おおスザンナ」を歌いながら故郷の土佐の村に戻ったということです。その後、土佐の学者、河田小竜(しょうりょう)にアメリカの話と共に、この歌も伝えた内容が資料として残っています。従って「おおスザンナ」が日本に紹介された初めてのアメリカ民謡という事になります。なお、坂本竜馬は河田小竜に弟子入りしてアメリカや西洋の事情を詳しく聞いたということです。後に竜馬は、軍艦教授所の教授となった中浜万次郎に江戸で再会しています。竜馬が欧米をよく知っていたのは万次郎の影響であると言われています。その中に「アメリカでは大統領が選挙で選ばれ、メイドの給料まで心配している」というようなこともあったそうです。

英語の歌詞(一部のみを下に記しました)
   I had a dream de odder night
When ebery ting was still
I thought I saw Susanna,
A coming down de hill.

The buckwheat cake war in her mouth.

The tear was in her eye,
Oh, Susanna, Oh! don’t you cry for me,
I’ve come from Alabama wid my banjo on my knee

ウェルズ恵子著 「フォークソングのアメリカ」

 上記の英文はとてもくだけた表現
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あご足つき、吐月峰

2025-04-16 06:33:37 | 文学
あご足つき、吐月峰は、私には聞き慣れない言葉です。
「あご足つき」は、交通費、食事代が付いている事。寄せ芸人の間の隠語だそうです。タレントやルポライターなどにとってはギャラと共に重要な関心事かも知れません。私が住む地域でも、噺家を招いて寄せのイベントがありますが、幹事さんは、あご足などの費用の捻出に苦労されているようです。
吐月峰(とげっぽう)は現代では、あまり見かけない煙草盆(写真 下)の中にある竹製の灰吹きのことです。古い推理小説を読んでいたら、この言葉が出ていました。

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清明  杜牧

2025-04-07 06:37:26 | 文学
清明の時節 雨紛々(ふんぷん)
路上の行人魂を断たんと欲す
借問(しゃもん)す酒家何(いずれ)の処にか有る
牧童遥かに指さす杏花の村

晩唐第一の詩人 杜牧の漢詩です。
清明は24節気の一つで4月5日頃で、日本でも雨の多い季節です。
西欧でもエープリル・シャワーと言います。
杜牧は26歳で進士(科挙)に及第した秀才で、順調にエリートコースを歩みましたが一時、辞職したこともあり、不本意な生涯を送ったこともありました。
若い頃、江南地方に赴任して芸妓と浮名を流すなど風流才子でもありました。
「清明」の詩は、その当時の作であろうと言われています。
彼の代表作の一つで、「2022北京 冬期五輪」の開会式においても、世界に発信されました。漢詩の傑作の一つです。
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杜甫草堂

2025-03-29 06:29:15 | 文学
パンダの故郷は、中国・四川省です。成都は、四川省の省都です。成都と言えば三国志の蜀の都でもあり、諸葛孔明の遺跡や杜甫草堂、浣花渓公園など、杜甫の遺跡のある不肖の憧れの地でもあります。
 
杜甫草堂は盛唐の詩人、杜甫が成都に流謫した時の住居の遺構です(写真 下)。杜甫は759年から約4年間、安禄山の乱から成都に待避して、絵のように美しい街の郊外、浣花渓のほとりに茅屋を建て、質素ながら平穏な時を過ごしました。杜甫の全作品1400首のうち代表作を含む247首が、ここで生まれました。有名な「春夜喜雨」において「暁ニ紅ノ湿ウル処ヲ看レバ花ハ錦官城ニ重カラン」と詠みましたが、錦官城は成都のことです



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遺懐

2025-03-26 06:05:15 | 文学
晩唐の詩人 杜牧の漢詩です。

懐(おもい)を遺(や)る

落魄江湖載酒行
楚腰繊細掌中軽
十年一覚揚州夢
贏得青楼薄倖名

江湖に落魄して酒を載せて行く
楚腰繊細掌中に軽し
十年一覚揚州の夢
贏(あま)し得たり 青楼薄倖の名

江南地方に遊び暮らし、酒樽を舟に載せて行ったものだ。
楚の地の細い腰の美女は、手の平で舞を舞うほど軽かった。
それから十年、はっと揚州の夢からさめて我に返ると、
残ったものは青楼(いろまち)での浮気男の評判ばかり。

第二句は、昔、楚の王が細い腰の美女を好んだ故事と、漢の美姫、趙飛燕(ちょうひえん)が成帝の掌の上で舞うほど軽かったという故事を用いています。

粋人、杜牧の甘酸っぱい悔恨の趣。 「懐を遣る」とは胸中の思いを外に出すこと。
杜牧ならではの詩境で、漢詩にはめずらしい色っぽい作品です。

石川忠久 「漢詩のこころ」 時事通信社
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李白の墓 石川忠久

2025-03-23 06:09:23 | 文学
漢詩の石川忠久先生は1989年3月に、かねて念願の李白の墓を尋ねられました。南京から車で2時間、安徽省馬鞍山市に着くと、太白楼や李白ゆかりの青山があります。青山は謝公山ともいい、李白の尊敬した謝 朓(しゃちょう)が遊んだ山です。そのふもとに李白の墓(写真 下)があり、前に小川が流れています。

        李白墓
       謝公山下碧渓傍
       三尺孤墳一草堂
       天上詩仙君識否
       海東亦慕大名長

         「読み方」
   
          李白ノ墓
       謝公山下 碧渓(へきけい)ノ傍(かたわら)
       三尺ノ孤墳 一草堂
       天上ノ詩仙 君識ルヤ否ヤ
       海東モ亦 大名(たいめい)ヲ慕ウコト長シ

        「訳」

謝 朓公の山の麓の緑の小川の傍
  三尺のお墓と草堂が一つありました。
  天上にいる李白翁、ご存じでしょうか
      はるか東の国日本では翁の雷名と詩が100年以上も慕われていますよ

       この詩について、「もとより、即興の腰折れに類するものだが、遠く日本からあなたを慕って来ましたよと、思わず呼びかけるように詠った」と石川先生は述べておられます。

        石川忠久 「李白100選」 NHK 出版


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一隅を照らす 伝教大師

2025-03-10 06:34:19 | 文学
818年 伝教大師 最澄は、弟子に向けた天台宗門後継者の修行規定「山家学生式(さんげがくしょうしき)」の冒頭に、「径寸十枚非国寶 照千一隅 此即国寶」(写真 下)と書きました。

「径寸十枚」とは金銀財宝などのことで、「一隅」とは今自分がいる場所や置かれた立場を指します。
お金や財宝は国の宝ではなく、自分自身が置かれたその場所で、精一杯努力し、明るく光り輝くことのできる人こそ、何物にも代えがたい貴い国の宝なのです。
アフガニスタンに尽くした医師の中村哲氏も、「一隅を照らす」を人生の支えにしている語だということです。惜しくも銃弾に斃れてしまい、御逝去が悔やまれます。


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