【昨日(11月8日)のレポート】
<行程>
道の駅:こもち → 白井宿散策 →(R17)→ 渋川・伊香保IC →(関越道・北関東道・東北道・北関東道)→ 自宅
<レポート>
今回の旅もとうとう今日が最終日となった。今日はここから少し走って、高速道に入り、栃木県の真岡ICで下りて、あとは我が家をめざすだけである。午前中には到着できるかもしれない。ということで、特に書くこともないほどである。
道の駅:こもちは、今は渋川市となっているけど、元は子持村。そして、赤城山を望む上州白井宿のあった所である。出発する前に、先ずは駅の物産品売り場で、野菜などを買う。朝の7時前から近所の農家の人たちが運んできた様々な野菜類などが山と積まれて並べられており、開店は9時となっていても、7時半にはもうレジの人がいて、販売が開始されていた。所定の時間までは、どんなに客が列を作って並んでいても決して店を開けない所が多い中で、開店1時間半も前から客の要請に応えてくれるのは、嬉しい扱いである。店側から言えば、問題なのかもしれないけど、客側から言えば実にありがたいことである。その余った時間を使って、出発する前に近くにある白井宿の跡を少し歩くことにした。
道の駅の裏側を少し入った所がその昔の宿場町があった場所で、細い用水路がある辺りが白井の堰のあった名残りなのかもしれない。宿場町の様子を残す建物は、今は殆ど残っておらず、石垣で作られた用水路に沿って、何カ所かの井戸があるだけだった。所々に石塔や石仏などが見られる程度で、その昔を思い起こすには、かなりの想像力が要るなと思った。30分ほど歩いて途中から引き返して車に戻る。
8時40分、出発。少し走って、渋川・伊香保ICから関越道に入る。朝方晴れていた空は、急速に雲を増していた。今日は、天気が崩れるらしい。風が無いのが幸いである。快調に走って前橋を過ぎ、高崎のJCTから北関東道に入る。この道も順調な流れで、いつもより少し早い速度で走り続け、しばらく走って今度は東北道に入る。北関東道は一本ではなく、東北道に入るとこれをほんの少しの区間北上して再び北関東道に入るという造りとなっている。その北関東道の壬生というPAで休憩をとる。今朝は朝食をみそ汁だけで終わっていたので、少し腹が空き、こもちの道の駅で買った焼きおにぎりを食べる。両ほっぺたを大葉で包んだ焼きおにぎりは予想以上に美味かった。相棒がついでに買ってきたきんぴらごぼうも美味かった。これが旅の最後の食べ物かと思うと、余計美味く感じたのかもしれない。このPAの広場では、福島県南部のエリアの市町村の農産物等のPRイベントが模様されていて、幾つかのユルキャラちゃんたちが群れ遊んでいた。福島の復興・再生のための活動らしい。もう野菜は買い過ぎるほど買ってしまっていたので、協力できないのを申しわけなく思った。この旅が終わってしばらくしたら、福島県を中心の旅をするつもりでいるので、その時は少しは貢献できるだろうと思った。
そのあとは、ほんの少し走って、真岡ICで下りて、いつも通っているR294に入り、ノンストップで家に帰る。否、その前に常総市の知人に信州の土産を届けるべく寄り道をして、自宅に着いたのは、12時35分。総走行距離、2,319kmの旅だった。
【旅を終えて】
今回は「年寄りの半日仕事」をモットーにして、無理をしない旅をしようと思ったのだが、総走行距離を単純に2週間の旅日数で割ると、1日165km超となり、広言とはかなりギャップのある結果となってしまった。初日の高速道の553kmがかなり効いており、その他でも少し無理をした感じの日があり、結構な走りとなってしまった。どうも自分には車の運転が仕事の内には入らないという感覚があり、これがこのような結果を招来させる最大の要因の様である。移動に高速道を使うのは、老人としてはリーズナブルなことで、それが多少長くても仕方がないと思うけど、一般道はやはり1日100km以下にはしなければならないなと思った。これからはそのような行程を組むように努めたい。先ずは一番の反省である。
今回の旅は、重伝建(=国指定の重要伝統的建造物保存地区)エリアの探訪がメインとなった。初めて訪れる場所を中心に考えたのだが、それ以外の再訪の場所も多いという結果になり、やはりこのような「日本の昔」の残っている場所を訪ねる魅力に惹かれるのである。そこへ行ってみると、建物自体に数百年の歴史が刻まれているものは殆ど無くて、古くてもせいぜい江戸の後半期に建てられた建物がほんの少し混ざっている程度なのだが、それらを見ていると、それにつながるずっと昔の、その時の暮らしの在り様が想像できるのである。それを偲んだところで、何の役に立つのかという現実的な指摘もあるのだろうけど、あまりに現実の利得だけを考える生き方には、もうこの歳になると否定的にならざるを得ない。自分自身の過去のことなどを懐かしむという様な趣味は無いのだけど、遠い昔のこの国のその地方の暮らしを思い起こし、懐かしむと同時に、今の時代に欠けている大切なものに気づくことも必要な気がするのである。自分的には、残された時間を「活き活きと心豊かに生きる」ことをモットーとしたいし、そのためには、前ばかり向いていたのでは疲れてしまって、息切れがしてしまうのではないか。そのような気持ちが古い昔の大切なものに気づくことへ向かわせている様な気がする。
さて、今回の旅は僅か2週間だったけど、大別すると3つのエリアを巡ったことになり、そのせいなのか、何だかかなり長い期間旅をしたような錯覚を覚えている。3つのエリアとは、①若狭・琵琶湖周辺エリア②奈良・和歌山エリア③飛騨・信州エリアである。2週間でこれだけ駆け巡るというのは、やはり老人としては相当に無理があるなと、今改めて気づくのだけど、旅の間の気分の変化は、なかなか抑えきれるものではない。相棒がへたることが無い範囲で、これからも時にはこのようなジャンプ旅もしてしまう様な気がする。
先ず、①のエリアだが、今回は若狭の小浜で2泊して、今までの小浜訪問とは随分違う経験を得た。今までの小浜訪問といえば、焼き鯖を買い求めるのが中心のアサマシイ振る舞いだったのだけど、今回は小浜に残る重伝建エリアを訪ねて、この町の成り立ちや暮らしの在り方などについて、随分と理解を深めることが出来たように思っている。小浜西組にはかなり多くのその昔が残されており、遊郭があったという狭い路地を歩きながら、遊ぶ者と遊ばれる者との、それらの人々の後ろにつながる暮らしの様々な在り様を思ったりした。小浜は鯖街道の起点の一つであり、交易の港としても栄えた港町だ。西組エリアはその一部に過ぎない城下町の一角だけど、町全体の暮らしの動きまでもが連想されて楽しい時間だった。又、ふとしたきっかけから、鯖の熟(な)れ鮨があるのを知り、それをつくって店に納めている方の住まわれている、少し離れた田烏(たからす)という郊外の浜の集落まで出掛けて行って、熟れ寿司を買い求めたことも印象に残る出来事だった。今まで鯖の熟れ鮨があることさえ知らなかったのだけど、その小さな浜の集落まで出掛けたことが、単に熟れ鮨だけではなく、その昔のその港の繁栄の様子を知る大きな力となったのを感じたのだった。旅というのは、単に通過するだけではダメなのだなと、改めて思いを強くしたのだった。今のところ、そのきっかけは殆ど全部相棒の為せる業であり、時には愚行も混ざるけど、今回のような田烏訪問には、相棒に感謝しなければならないだろう。そう思っている。
琵琶湖エリアでは、重伝建関係の場所としては、東近江市の近江商人のふるさとの一つである五個荘金堂を訪れた。近江商人には幾つかのタイプがあって、この五個荘金堂の人たちは、元々農事では食べていけないので、天秤棒を担いでの商いに出掛けたというのが始まりである。重伝建も選定の種別は農村集落となっている。しかし実際に訪ねてみると、確かにその一角を囲む周辺は今でも田畑が広がっているのだけど、金堂集落は立派な建物で埋まっている。五個荘の商人は、本拠地をこのエリアに据えて、地方へ乗り出して行くというスタイルの商売で、この地には一切店というものを持たなかったという特徴がある。地方の店の従業員は、この地で教育訓練を受けて、それから出先での店の商売へ派遣されるというスタイルだったらしい、「天秤の詩」という有名な近江商人の教育訓練の様子を取り上げた短編の映画があるのだけど、そこでは初めて商売に出掛ける丁稚の幼い子に、天秤棒に振り分けて担いだ鍋の蓋を売りに行かせるのである。それが売れるまでの凄まじい労苦を通じて、商売の核となるものが何なのかを心身に刻ませるのである。「三方よし」という有名な心得があるけど、それは①自分よし、②相手よし、③世間よし、というものである。このことを肝に銘じて体得させるための天秤棒を担いでの鍋の蓋売りなのだった。そのような商売哲学が、今この地でどのようになっているのか知らないけど、その昔に学ぶものはたくさんあるのではないかと改めて思った。
琵琶湖エリアでは、この他に日野町の日野商人館というのを訪ねたが、こちらは重伝建ではないエリアだけど、日野町も近江商人のふるさとの一つである。日野商人は、五個荘よりももっと古くから活動を始めた人たちで、特徴的なことといえば、大都市圏の客よりも地方の小さな商圏を中心に商売の浸透を図るという戦略を持って、特に江戸を除く関東各地への進出が目覚ましかったという。メイン商品の一つが薬であり、もう一つがお椀だったという。この販売は掛け売り(=つけ)というスタイルを採ったという。自分たちが子供の頃までは、富山の売薬の行商人が掛け売りの商品を家に置いて行き、翌年回って来た時に使った分のお金を徴収し、薬を補填して行くというのを見て育ったのだが、その原点は近江商人のアイデアにあったようである。関東というので、展示・陳列品を覗いていたら、全国に数多くある造り酒屋の瓶の中に、茨城県桜川市の真壁の銘柄のものがあったので驚いた。館長さんに尋ねたら、歴とした近江商人の一人ということだった。行商の支払いを現物(=米等の農産物)で収めて貰ったものを元に、醸造業を展開するという戦略などで、このような造り酒屋が生まれ広がって、今日に続いているとのことだった。これも改めて勉強になった一つである。
②では、桜井市から天理市につながる山の辺の道を、2年ぶりになるのか、大神神社から途中の長岳寺まで、いつものように、この時期には無人販売所に並んでいるミカンを買って頬張りながらの散策を楽しんだ。長岳寺からは少し歩いてJR駅まで行き、列車に乗って戻るという二駅間の小さな旅を経験した。山の辺の道の散策は、心の和む時間である。この道を歩くと、左方に広がる奈良盆地の昔の姿が浮かび上がり、現在のコンクリートの建物などは消えて目に映らなくなるのである。
和歌山県エリアで一番印象に残ったのは、重伝建エリアのある湯浅町の探訪である。ここは日本の醤油の発祥の地として、その昔から有名だったらしいのだが、自分は全く知らず今回初めて訪れる場所だった。醤油は日本の調味料として、今や世界的な普及を見つつあると聞いている。醤油といえば、千葉県の野田市や銚子市等を産地としてイメージしてしまうのだけど、発祥の地は紀州の湯浅なのである。その昔、留学僧として大陸で学んだ、法燈国師という方が大陸から金山寺味噌の製法を伝えられたとのこと。その味噌作りの際に桶の底に溜まった上澄みの液が大変美味いというのに着目して醤油が生まれたということである。その後の普及に努めたのは、法燈国師のもとに得度されたこの地出身の覚性尼という方の尽力によること大であると資料に書かれていた。現在でも何軒かの店が醤油や味噌の製造をしているとのことだが、歩きまわってもなかなかそれを見分けるのは難しかった。醸造町に相応しい雰囲気の一角が残っており、細い曲がりくねった路地を歩くと、一層栄えていた昔のことが思われるのだった。この町には熊野古道も通っており、古い石の標識なども残っていた。熊野古道は、その殆どが山道なのだが、ここは町中に遥拝所があり、往時は随分と栄えたらしく、遊郭までが存在したとか。醤油だけではなく、その他彼の有名な紀伊国屋文左衛門の出身地でもあったのである。こんなすごい場所を初めて訪ねるなんて、随分とまあ遠回りをしたもんだと、自分が気の毒になった。その他この地で得たものは多い。
和歌山では有田川町にある道の駅:明恵ふるさと館というのに泊まったが、ここは有田ミカンの生産地の中にあり、ミカン栽培の盛んなのに驚かされた。有田川町だけではなく、有田市を初め周辺の殆どの土地がミカン畑やミカン山で埋め尽くされているかの如き景観だった。四国の宇和島や瀬戸内の島々、静岡や長崎、それに発祥の地である奈良市等、幾つかのミカン産地を見て来ているけど、初めてこの地に来て見て、改めて有田ミカンの栽培規模の大きさに驚かされた。和歌山県のミカン産地は、有田だけではなく、その後の紀伊半島を回る中でも、幾つかのエリアで栽培が盛んなことを知ってすごいものだと感服させられたのだった。
③は、元の予定は岐阜県の郡上八幡の重伝建を訪ねることだったのだが、突然気が変わって、同じコースの東海北陸道を一気に白川郷まで行ってしまった。ここまで来れば近くにある富山県の五箇山の合掌集落を訪ねないわけにはゆかない。勿論これらは皆重伝建に入っており、更には世界遺産にもなっている。もう何度も来ている場所なのだが、今回は無理して遠くまで来てしまったこともあって、白川郷の道の駅に2泊することにした。これは大変良い結果となった。白川郷の早朝や夕景などを見ることが出来、今までにない経験をすることが出来た。自然環境と人間との関係は、早朝の朝霧の中に眠る白川郷の集落を眺望していると、よおく理解できるのである。夕景も然り。朝は自然が人間どもを包み、夜は人間どもが自然の中に灯りを点しているのが良く解るのである。人間はこのようにして自然との関係を大事にしながら歴史をつないできたのである。
白川郷からは、東海北陸道が出来て超便利になった高山へは、1時間もかからない。高山にも重伝建エリアがあるので歩いて見たけど、こちらはすっかり観光化しており、昔の町というよりも、今の人の人混みの方が勝っている感じで、あまり感動を覚えるものが無かった。こちらよりも隣の古川町(飛騨市)の方が、自分的にはずっと好感が持てるエリアである。重伝建にはなっていないけど、古川にもたくさんの昔が残っており、今回は久しぶりにそれらの景観を楽しみながら散策した。2軒ある造り酒屋も益々繁盛されているようで、何よりのことだと思った。酒は買わなかったけど、これには相当の勇気が必要だった。
飛騨からアルプスの山を潜って信州に抜けたが、途中で目指す農産物を手に入れたのに満足して、一気に長野市近くの小布施町まで行ってしまった。ここで旅の大切な知人に偶然出会うことが出来、実に嬉しかった。そのため、小布施の町の散策は後日にすることにしたが、後悔など皆無である。生きている人の方が遥かに大切だ。町が消え去ることは無いのだから、又機会があれば訪ねればよい。そのあと、初めて志賀高原を通るルートで草津に抜け、帰路に就いたのだが、いやあ、その途中の景観のすごかったこと。紅黄葉などもみごとだったが、今年初めて、積もって除雪された道路脇の雪を見、日本の道路の最高地点というのを通過して、白根山のお釜などを眺めながらのドライブは、旅が終わりかけている自分たちにとって最後の刺激的なプレゼントとなった。
長々と旅の所感などを述べて来たけど、今回の旅は短い期間だった割には、収穫が大きく、再度訪ねてみなければならない場所も幾つか見出すことが出来て、十二分に満足できるものだった。(おわり)