山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

平将門の史跡を訪ねる

2013-10-24 22:09:24 | その他

 新聞を見ていた家内が、坂東市のさしま郷土館ミューズという文化施設で、平将門の生誕1111年記念の特別展が開かれているので行って見たいというので、その提案に乗った。台風騒ぎで旅の出発を遅らせていたこともあり、手持無沙汰だったので、好都合だった。坂東市は守谷市の我が家からは、道を間違えなければ、30分ほどの距離なのだ。

道を間違えなければと言ったのには理由があり、この市で、目的地を探すのは、大へん難しいという苦い経験が何回かあるからである。将門に関わる史跡は、その殆どが市街地を離れた場所にあり、田園地帯なので、同じような景色の中に同じような道が幾つもあり、事前によほどしっかり地図を見ていたつもりでも、現地に行くと迷ってしまうのである。その昔、東京に住んでいた頃、この地にある新東京ゴルフクラブという所でゴルフコンペがあり、20数名の集まりだったが、スタートに間に合ったのは半数ほどで、他の者は皆道に迷って、遅刻してしまったという思い出がある。ナビなどない時代だった。ゴルフ場でさえ迷うほどなのだから、点在する史跡を探すのは、そう簡単なことではないという予めの覚悟が必要なのである。今回はナビを使っての訪問だったので、無事にさしま郷土館ミューズに着くことが出来たが、途中又間違うのではないかという不安に何回か襲われたりした。やはり、何とも分りにくい地形である。

さて、道に迷うという話は措くとして、特別展の感想などを述べてみたい。平将門といえば、西海の藤原純友と時を同じくして朝廷に反旗を翻した坂東武者として知られるところである。今棲んでいる守谷市も将門公の事跡と無縁ではない。原形を僅かに止める守谷城址は将門公の築城と言われているし、将門軍団の中にいたという七人の影武者と言われる人たちの墓は、市内の海禅寺に残っている。これらの史跡はもう何度も訪ねている。勿論本拠のあった坂東市岩井の国王神社や延命寺なども何度か訪ねている。しかし、肝心の平将門という人物が一体どんな人だったのかと言えば、実のところ殆ど何も解っていない。一般的な話を聞きかじりしているだけで、史料など何も読んでいない。そのような状態なので、今回も野次馬気分での見物だった。

特別展の会場に行って見ると、何種類かの資料が展示されていたが、多かったのは江戸時代に描かれた錦絵の類で、これは将門記などを読んでいない自分には、何の場面を描いたのか、解説のコメントを読んでも今一ピンと来るものが無く、ただへえそうなのかと、著名な浮世絵師の名前を思い出しながら、感心するばかりだった。底の浅い知識では、歴史の欠片(かけら)さえも理解できないことを、改めて突きつけられた感じがした。絵巻物や物語の巻物なども展示されていたが、物語は殆ど読むことが叶わず、絵巻物も解説を読んで辛うじてなるほどと思うのは、錦絵を見る時と同じレベルなのだった。

一番参考になったのは、往時の地形を示す絵図と反りの入った錆びた往時の本物の古太刀の展示だった。地形の絵図を見ると、現在のこの辺りの地形とは相当に違った状況を呈しており、湖沼や湿地帯の多い未開の原野が広がっていたのを想い起させるものだった。坂東武士と一口に言うけど、その実態はといえば、この広大な原野を駆け巡って鍛えられた戦闘人(いくさびと)だったようだ。牧と呼ばれる軍馬を飼う牧場が幾つかあり、そこで育った馬を駆使した戦法の先駆者の一人が平将門だったと言える様である。又、反りの入った太刀は、騎乗の際の戦いに向いており、それまでの突きを主流の真っ直ぐな刀よりも、動きの速い殺傷力を発揮するのに向いていたと解説にあった。自分的には、錦絵などよりも、はるかに往時の将門の活躍を彷彿させる史料だなと思った。

平将門という人物については、もっと勉強しなければならないなと改めて思った。今から1111年前の平安時代は、まだ武士の地位が低く、貴族階級に仕える下働き的な役割しか与えられていなかったのである。貴族のために命をかけて戦っても、その見返りはほんの僅かであり、報われているという実感は無かったのであろうと思う。それでも一旦つくり上げられた社会システムは、そう簡単に崩れることは無かったのであろう。そのような貴族社会に一つの風穴を開けたのが、平将門という人物だったのだと思う。同族・他族入り乱れて骨肉相争う中で、将門という人は、一体どの様な考えから新皇を名乗るに至ったのだろうか。僅か38歳にしてこの世から消え去ったという人物の、歴史における意義とは何だったのかを思った。その反骨の行為は、どこから生まれ出たのだろうか。興味津々である。今までは、そのようなことをあまり深く考えたことが無かったのだが、今回この特別展を見ながら、この野次馬的興味事項を、もう少し突っ込んで考えてみようと思った。

帰りに、家内が既に行っている筈の延命寺を覚えていないというので、ついでに国王神社と合わせて訪ねることにした。この二つの史跡には家内も同行しているのに、良く覚えていないという。国王神社は将門公の娘と言われる人が父の霊を弔うために建てたといわれる神社であり、現在も茅葺きの社が残っている。又、直ぐ近くにある延命寺は、将門公の菩提寺ともいわれ、ここの茅葺きの山門も印象的である。現地に行って見て、家内も思い出したようで、あれこれと歩きまわっていた。近くには幾つかの史跡があるのだが、空腹の方が気になり、この日は一旦家に帰ることにした。

 

左は国王神社本殿。将門公の三女が父の木像を刻み祀ったという。右は延命寺の山門。この写真は参道の脇の方から撮ったもの。この寺は手入れが不十分で、かなり寂れた感じがしていた。

翌日、何だか忘れ物をした気分が残り、もう一度近くの史跡を訪ねることにした。先ずは神田山(かだやま)という所にある延命院というお寺を訪ねた。ここには将門公の胴体の部分が葬られているとか。将門という人は、よほどに往時の中央貴族界から恐れられたのか、死後も身体をバラバラにされ、身一つには葬られなかったようである。東京の大手町には将門公が怒りにまかせて空を飛んで行ったという首塚があり、以前そこを訪ねたこともあるけど、全国各地に様々な伝説があるようである。延命院は落葉焚く煙がたちこめていて、静かなたたずまいだった。六地蔵の向こうにある墓は苔むして侘しさを覚えさせた。

      

神田山(かだやま)地区にある延命院にある将門公の墓地。巨大な栢(かや)の木の根元にある墓には、将門公の胴体が葬られているという。

その後、西念寺という所を訪ねた。ここは将門公にまつわる鐘があるとかで、今でも鐘楼の中にその鐘が吊り下げられていた。その後、昨日来た国王神社と延命寺を再訪した後、近くにある島広山といわれるその昔の将門公の営所跡を訪ねた。営所というのは、陣営のあった拠点ともいうべき場所のことであろうか。民家の脇に小さな碑が立っているだけだった。更に近くにある石井の井戸とその井戸の存在を将門公に教えたという謎の翁を祀った一言神社を訪ねた。

      

島広山の営所跡。ここが将門公の軍の拠点であったという。今は周りに住宅や田畑が広がり、往時の面影を思い浮かべるのは困難だ。

石井の井戸というのは、合併前の岩井市の命名の元となっているのではないかと思われる泉のあった場所で、石井は「いしい」と読むだけでなく、その昔は「いわい」とも呼んでいたからである。又一言神社は、奈良県御所市の一言主神社とは関係が無いようで、水を求めていた将門公に、その翁が一言水のありかを指し示して石を持ち上げたことに由来する命名とのことだった。粗末な社殿は、今の時代は、その故事などは大事にされていないなというのが窺われた。

 

左は石井の井戸の跡地。田んぼの一角に盛り土がしてあり、昔の面影を偲ぶのは困難。右はその井戸のありかを将門公に教えたという謎の翁を祀ったという一言神社。トタン屋根の簡易な建物だった。

その後、近くにある九重の桜というのを見に行った。勿論花の季節ではないので、早やすっかり葉を落とした小ぶりの桜の木が一本あるだけの狭いスペースがあっただけだった。九重というから、八重以上に細かい花びらをつける桜なのかと思ったら、九重とはその昔の中国の王城の門が九重に造られていたことから、王宮を意味する言葉であり、この桜は都の紫宸殿にあったのを株分けしてここに植えたものだとか。坂東武者もやはり都に憧れていたのかと思った。あれこれと思いを巡らしながら、2回の訪問を終えたのだった。

      

九重の桜。昔は何本かが自生していたとのことだが、現在は一本が残るのみ。春にならないとどんな花が咲くのか判らないのが残念だった。この地にあって、将門公といえども、遠い都に憧れてこの桜を植えたのだろうか。

しかし、平将門という人物のことは依然として解っていない。折角坂東の地に住むようになったのだから、これからはその昔のこの地が生んだ英雄のことを心して勉強しようと思った。先ずは将門記なるものを読まなければなるまいと思っている。この本を読めば、少しは理解が前進するに違いないと思っている。

コメント
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