山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

‘13年 秋の関西方面への旅レポート <第5回>

2013-10-31 06:55:24 | くるま旅くらしの話

 【今日(10/31)の予定】 

  道の駅:伊勢本街道御杖→(R369・R165・R169)→大神神社駐車場→山の辺の道散策→(R169・R165・R166・R370)→道の駅:宇陀路大宇陀(泊)

【昨日(10月30日)のレポート】     

<行程>

道の駅:あいとうマーガレットステーション→(R307他)→ 日野商人館→(R307・R1)→道の駅:あいの土山→(R1)→道の駅:関宿(重伝建地区探訪)→(R1・R25)→道の駅:針T.R.S→(R369)→道の駅:伊勢本街道御杖(泊)

<レポート>

昨夜は寝入り端に雨が降り出し、しばらくの間天井を叩く音が姦しかったが、間もなく静かになったようだった。19時前には眠りこんでしまったのだ、外の様子はさっぱり判らない。朝起きて見ると、雲の間から旭日が射して来ていたので、今日の天気は大丈夫なのが判った。湿っていた路面も間もなく乾いて、8時を過ぎるころはすっかり天気は回復したようだった。昨夜は12時前には目覚めてしまい、2度寝をしたのだが、それでも寝過ぎの気分は変わらず、頭は少し重い感じがした。ここの道の駅は、優れた農産物やその加工品等の直売所があり、9時からの開店に合わせて、早朝からかなりの数の車がそれらの産物を運んで来ていた。ここには水汲み場も設けられており、車旅の者にはありがたい場所である。今回は昨日瓜割りの名水をたっぷり汲んでいるので、ほんの少し用水を満たしただけだった。いつものように8時の朝ドラを見た後、行程の再確認をする。

今日のメイン目的は関宿の重伝建エリアを歩くことなのだが、その前に近くの日野商人の町を訪ねて見ることにした。というのも、昨日の五個荘と並んで、日野商人もまた近江商人の重要な位置を占めた存在だからである。重伝建に指定されるようなエリアは残っていなくても、商人の歴史を語る場所は残っているはずであり、日野商人館というのがあるのを知り、そこを訪ねることにした。関宿の探訪の後は、当初の予定を変更し、少し遠くなるけど、御杖村にある道の駅に行き、併設されている温泉に入ってゆっくり休むことにした。

9時になり、売店を覗いたが、特に魅力的な産物も見当たらず、キャベツや大根などの野菜は関東の地元などと比べると、少し高めの価格であり、手を出すのは止めにした。すぐに出発する。ここから日野までは10kmほどで、それほど時間はかからない。20分ほど走って日野商人館の駐車場に到着する。ここは日野商人の歴史を紹介する資料館となっているけど、300年の歴史を持つ山中兵右衛門という方の屋敷とのことだった。中に入り、様々な展示物を館内のガイド担当の方の説明を聞きながら見て回った。自分の感覚では、日野商人といえば「陰徳善事」をモットーとする近江商人という理解だったが、それは外れてはいなかったとしても、その商いの幅の広さと哲学の深さの理解において、真に不十分で、本当は何も知らなかったようなものだと、改めてその浅薄さに恥入った。

      

日野商人館、旧山中兵右衛門住宅の景観。豪壮というよりも質素な雰囲気の家だけど、中に使われている用材は超豪華な物が何気なく使われて建てられている。この家も不景気の時代に職人さんたちを支援する意図で造られたとか。

日野商人は、湖東出合っても八幡や五個荘とは異なり、大都市圏には目も触れず、関東の北部など貧しいエリアに根を張っての商売を形成していった商家集団なのだった。主な商品はお椀と薬が始まりだったとのこと。商法も、現金取引ではなく、掛け売り(=ツケ)が中心だったとのこと。富山の売薬商法なども掛け売りで知られているけど、その開祖は日野の方だったのかもしれない。一旦販売した商品の支払いは、次回の訪問時に現金が無ければ米などの農産物で支払ってもらうようにし、その米などを使って酒造りを行い、それを販売するなど、巧みに戦略を展開していったとのことである。展示場の床の間らしき場所に、それらの造り酒屋で造られた酒の瓶がかなりの数並べられていたが、その中に茨城県は桜川市真壁の「花の井」という銘柄のものが入っているのを見て驚いた。西岡酒造というその店もれっきとした日野の近江商人だったのを知った次第である。その他学ぶことは多かった。それらをここに書くのは不可能である。現役の頃にもっと早く来て、多くを学ぶべきだったと、引退老人の思いは愚痴にもならない。

11時近くまでお邪魔して、ようやくの出発となった。次は関宿の探訪である。天気も良く、いい勉強をして、少し元気が増したような気分だった。もはや実務の役には立たないような学びであっても、人生にはたとえそれが慰めに過ぎないようなことでも、やっぱり必要なのだなと思う。間もなくR1に入って、亀山市方面へ。関宿は今は亀山市となっている。平成の大合併は、必要な昔の地名をどんどん消滅させているけど、これも歴史の為せる不可避の現象なのだろうか。先ほどの日野商人の歴史を研究されている館長さんも、現在の地名の変更に随分と苦労させられていることを嘆いておられた。全く同感である。途中に道の駅:あいの土山というのがあったので、ちょっと立ち寄り小休止する。

関宿の道の駅には12時を少し過ぎた頃の到着だった。重伝建エリアは、道の駅からは歩いて直ぐの近くになるようなので、ここを拠点にして訪ねることにした。その前に昼食、休憩。今日のお昼は、昨日仕入れた鯖寿司である。出来立てのものを買ったのに、時間が経って少し堅くなってしまったが、味の方はまだまだ大丈夫だ。じっくり噛みしめながら、今年最後となるであろう、味を身体にしみ込ませた。うめ~。春の旅の時に買った、日野の北山茶も寿司にぴったり合って美味かった。昼食の後はしばらく動くのを止め、休憩をする。

13時近く、宿場町関宿の探訪に出発する。関宿は東海道五十三次の内の江戸から数えて四十七番目の宿である。そのようのパンフに書いてあった。ということは京の都からは七番目ということになるのであろう。ま、そのようなことはどうでもいい。道の駅からは坂を上って300mほど行って付き当った通りが旧東海道の街道筋となっており、細い路地から出ると、その通りの両脇にびっしりと昔風の建物が立ち並んでいたので驚いた。宿場町とは知っていたけど、これほど長く建物が連なっていると想像しても見なかった。今迄幾つかの宿場町を見てきたけど、ここは街道の筋一本の両側に建物が並んで、町を形成していた。2km近くあって、東追分と西追分とに挟まれて中心部が作られているようである。道の駅からの路地はほぼ中心部近くに出るようになっていたようで、先ずは右手の方の東追分の方に向かって歩くことにした。もうこの時点で、相棒とは別行動である。同じような建物がずっと続いていた。現在も現役の店などが多いようで、車の行き来が結構多くて、写真を撮るときにどうしても車が入ってしまうのが嘆かわしかった。現代なのだから、いた仕方ないのであろう。建物の中には現役の銀行や郵便局などがあって、何だかそれらが江戸の昔から続いている感じがするのは不思議な感じである。しばらく歩いてゆくと、少し坂道となったので、そこで写真を撮って引き返すことにした。

      

関宿。東追分あたりの景観。ここは下り坂になっており、この通りの先に一の鳥居があるという。

今度は西の方に向かって歩く。途中で見知らぬ人から声をかけられた。どこからですか?というのに、つくばからですと答えたら、その方は自分も15年間ほど土浦の千代田という所に住んでいたとのこと。これで急に距離が縮まり、話が前に進んだ。その方はこの地が地元らしく、ここに戻って、案内のボランティアなどもされているらしかった。一の鳥居まで行かれましたかというので、いや、途中で引き返したと話したら、それは残念、是非行ってみてください。関宿はあそこから始まるのですとの話で、その鳥居が伊勢神宮の遷宮に合わせて取り換えられる、珍しいものなのだという話をされた。20年の式年遷宮に合わせて、本宮の建物の古材を用いて、宇治橋の鳥居が造られ、更にその鳥居のお古がここの一の鳥居になるのだとのこと。ということは、ここの鳥居は伊勢神宮の40年後の本宮の用材を使っているのですねと話したら、その通りとのことだった。ま、ありがたい存在の鳥居ということなのであろう。自分は伊勢神宮には森以外にはあまり興味関心が無いのだが、そのことを言ったらこの方は気分を害されるに違いないので、勿論緘口、緘口である。

それから少し歩いて、江戸から丁度106里という場所に作られた展望所に上がり、2階から関宿の家並の景観を味わった。高さが足りず、半分くらいしか俯瞰できないのが残念だった。更にぶらり歩きを続け、地蔵院に着き、参詣する。関の地蔵堂は立派な建物であり、この中に納まったお地蔵さんは、村の外れの赤い前掛けのお地蔵さんとは随分違うなと思った。お地蔵さんも場所と時代によって、扱われ方が相当に違うのは、人間どもの気まぐれであり、先刻ご承知のことなのだろう。お地蔵さんは苦笑しながら、この自分を見ておられるに違いない。般若心経を唱えてお許しを頂くことにした。その先からが西追分となるのだが、同じような建物がずーっと並んでいるので、切り上げることにして戻りに就く。それから20分ほどかけて道の駅に戻った。相棒の方は、途中ですれ違った時は、何処かのばあさん風の人と話込んでいたようなので、帰りは遅くなる予感がした。しばらく待ったけど、14時半を過ぎても帰ってきそうもないので、電話をしたら、これから帰るところだったとのこと。いつもこの調子だけど、そのあとすぐ戻ることは少ない。ご帰還はその後15分経ってからだった。

      

関の地蔵堂の地蔵院。ここの本尊は地蔵菩薩というのであろうが、がっちりと固められて囲まれた本堂の中には、中を覗くことも叶わず、ありがたさが届かないのが少し気になった。

      

関宿・西追分の家並の景観。ここまで来てこの先に行くのを諦めた。随分と長い街道に沿った宿場町であるのを実感した。

15時少し前、道の駅を出発して今日の宿の御杖村の道の駅に向かう。御杖村は奈良県だけど三重県に近い山奥にあり、その昔は奈良と伊勢を結ぶ街道の通っていた場所である。それで、道の駅も伊勢本街道を名打っているようだ。2度ほど訪れたことがあり、閑静な山の中にあり、ここには温泉も併設されており、今日はそれらをゆっくり味わうことにしたいと思っての選択だった。間もなくR1からR25に入り、ひたすら天理方向を目指して走る。R25は高速道並みのバイパス道で、走行している車は皆70km以上のスピードである。SUN号は登り坂道に弱いので、そこへ行くといつも一番左車線専用の走行である。40分ほど走って、針ICで降りて、近くの道駅:針TRSに寄り一息入れて御杖に向かう。

それからは山の中の道をしばらく走り続ける。久しぶりの来訪なので、以前とは違った道を走っている錯覚に襲われ、随分遠いなと不安を抱いたりした。しかし、道の駅に着き、その場所をしっかり思い出し、やっぱり間違ってはいなかったと安心する。17時近くになっており、辺りはすっかり暗くなっていた。駐車場に意外と車が多いのは、温泉に入りに来る人たちで結構賑わっているからなのであろう。自分たちもさっそく入浴の準備をして、姫石の湯に行く。ぬるめの湯だが、良く温まり、満足して車に戻る。今日は先日手に入れた鯖のなれず寿司を酒の友とすることにした。初めての味わいだったが、それは深いものだった。なれ寿司特有の臭いは全くなく、臭いに超敏感な相棒でさえも、美味い、美味いを連発していた。これは燗酒に合うタイプの肴だなと思った。今日は冷酒だったので、お湯割りの焼酎でも試して見たのだが、一段と美味さを増した感じがした。これから先が楽しみである。

TVの設定を止め、ラジオで日本シリーズを聞いていたのだが、終わりは知らぬままに眠りに入った。結果は明日の楽しみである。

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