山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

原発事故の事後処理の現状に思う

2013-10-14 00:03:13 | 宵宵妄話

 この頃は世の中のあらゆる出来事についてウンザリしており、チマチマと愚痴的な思い上がりのコメントなどを書いても仕方が無いと思うようになって、それらに関するテーマは避けるようにしてきた。しかし、一昨年の大震災に絡む原発事故の事後対応状況やTPP交渉の有り様については、糠に釘打つほどの虚しい戯言(たわごと)であると知っていても、何か一言言わずにはいられない気がして、書くことにした。

 今、総理をはじめとする国政の関係者は、二つの大罪を犯すべくチャレンジしているかのようだ。その一は原発に対する考え方と対応のあり方、もう一つはTPP交渉についての農民への欺瞞である。そして、罪の重さは原発事故への対応の方が、TPPなどとは比べようもないほどに大きく、これからの歴史に、大きな汚点として残るほどではないかと思っている。先ずはその原発事故の事後処理についての所感である。

原発については、当面考えなければならぬ重大事項が二つあると思う。その一は何よりも事後対策の完璧を期すことであり、もう一つはその現状を踏まえて、これからの原発に対する根本的なあり方を決めるということであろう。この二つに関しては、勿論後者の方が基本的な重要性を持っており、その結論は、すべての原発の廃止以外にない。

 何故原発は廃止しなければならないのか。その理由は明確である。原発には絶対的安全というコンセプトが当てはまらないからだ。原子力エネルギーには相反する正と負の両側面があり、平和利用は人間にとって正の面の活用となるけど、この活用のためには負の面での絶対的完璧な安全が保証されなければならない。しかし、原子力に手をつけてしまった人類は、現在、負の面の処理・対応に関して何一つ抜本的な解決の力を持っていないのだ。負の面の最大の問題とは、放射能という不気味な粒子線・電磁波の処理方法である。すなわち一旦事故が起きてコントロールが不能となった時に、放出される何種類もの放射能を除去する理論も技術も皆無に等しいのである。使用済みの燃料棒でさえも、ただただ、地下深く穴を掘って埋めるだけの能しかもっていないのだ。そして、そのような穴を掘る場所すらも見出せない狭い日本国なのである。

 今回の東日本大地震による災害の中で最大の被害は、福島第一原発の事故がもたらした恐るべき人類滅亡への恐怖ではないか。多くの人命を奪った津波の破壊作用の被害が軽いなどとは決して思わないが、原発事故は二重・三重の被害を今でも増幅させている。しかもその被害は、目に見えず、短時間で消え去るものではなく、生きている人間の記憶を超えて、将来の世代にまで悪影響を及ぼし続けるのである。

 このような超重大な恐るべき事態を、今回の事故は我々の眼前に証明したのである。これに対する解決の抜本的結論は、原発の全廃の他にあるはずがない。為政者はこの明確な結論を、期限を含めて決断し、表明しなければならない。このプロセスを経て初めて、次のステップである代替エネルギー等の課題へ取り組みが本格化できるのである。これらの決断に基づく取り組みには、多くの困難が予想されるが、人類が自ら招いた負の悪魔を始末するためには、困難を乗り越えて行く勇気と忍耐が不可欠なのだと覚悟すべきであろう。

 しかし、現在の政治家・官僚や事業者の大半は、この問題の本質に目をそむけようとしているようだ。恐るべき事態を目の当たりにしているのに、それを受けとめる感性は、外国の為政者よりもはるかに鈍いようだ。その多くは、現在のエネルギー供給システムを根本から作り直すなどできるはずもなく、原発の再稼働は止むを得ないと考えているようだ。多少の危険性を孕んでいるとしても、今までの原子力行政に傾注したコストやこれからの廃止にかかるコストなどを考え、或いは代替エネルギー開発の困難性などを考えると、安定した電力供給のためには、再稼働は必要不可欠ということなのであろう。

 それらの考えが今の日本国の常識であり、時間経過と共にこの常識は問題の本質をうやむやにし、やがては将来より大きな災禍を招来することにつながってゆく。人類の歴史の多くはそのようにして積み上げられてきたのだと思うが、科学の一部が異常に発達した今日では、問題の本質の誤った理解や解釈が、未来を破滅に導く危険性を孕んでいることは、わずか半世紀前の時代の比ではないほどなのだ。現に地球温暖化の問題は、歯止めを持たないまま多くの異常気象を地球全体に発生させている感がある。もし大自然の怒りのパワーが日本を襲い、同時多発的に原発事故を発生させたとしたら、日本国の未来はあるはずもなく、世界全体に対しても甚大で深刻な影響を及ぼすことは必至であろう。

 そのような、起こるかどうかも解らぬ机上の空論に、かまっている暇はない。危ないのならそれに対応できる手を打って、再稼働に一日も早くこぎつけるべき、というのが今の日本国の主流の考えとなりつつある感じがしてならない。重大な教訓から何も学ばず、過ちを拡大生産させようとしているかのようだ。福島から遠く離れた、原発のあるエリアの行政責任者や関係者の間では、国に対して再稼働を早めるようにとの嘆願書を提出している所があるとも聞く。当面の暮らしのためには、未来などにかまってはいられない。今を生きなければ未来はない、という理屈は説得力があるようにもみえる。しかし、それは現実という悪魔が、いざという時の恐るべき現実の到来を封じ込めて、当面の利便のための理屈を正当化しているようなものではないか。原発から少し離れた村で、平和に暮らしていた人たちが、ある日突然に故郷を失ってしまったという、厳然たる現実があるのである。そのようなことが、自分たちには来ないという保証は何もないのである。原発事故の本質は、解決が存在しないという現状・実態の中にあるのである。だとしたら、その対処の結論は、原発を全廃するしかない。それこそが今回の事故で思い知らされた究極の結論なのだ。しかし、世の中は再稼働に動いている。しかもすぐ傍に原発がある村の人たちまでが、‥‥‥。

 次に原発事故の事後処理の問題だが、これは、国を挙げての当面最大の課題のはずなのに、国も東電も政治家も官僚たちも、この上なくおざなりの感じがしてならない。オリンピックの招致が成功したのは良かったのかもしれないけど、原発事故の事後処理が完全にコントロール出来ているというようなセリフがそれをもたらしたとするなら、茶番劇の感じがする。この世は茶番で動くものと知ったら、事故の現場で放射能被曝の恐怖と対峙しながら、手探り状態のままに、命をかけて働いている人たちは、バカバカしくてやってられないという気持ちになるのではないか。

この頃、事故処理対応のために原発の現場で働いている人たちのミスが連発しているとの報道がある。その都度、東電の同じような顔触れがTV画面に現れ、謝り役を務めているけど、必死さが伝わって来ず、虚しく可哀そうな景色に見えてしまう。もっと偉い人たちは事後処理に対して、一体何をしているのかさっぱりわからない。放射能の見えない恐怖と闘いながら、命を擦り減らして疲労困憊の状況で作業をしている人たちを、下請けだとか、孫請けだとかで差別して、責任を曖昧にしているような現在の取り組みのあり方を、東電の経営者はこれで仕方がないなどと思っているのだろうか。そして東電の大株主たる国の関係政治家・責任者も、この状況を本気で何とかしようと考えているのだろうか。恐らく、非常事態という当事者意識は薄く、一般の発注業務処理と同じように、それぞれの事業者に分化して発注したのだから、それぞれの事業体の責任者の問題として事態が動いているのであろう。

トップダウンされるにつれて、上位者はその責任を下位者に押し付け、他人事として見ている感覚が窺えてならない。国は東電の対応を批判し、東電は下請けを叱咤し、下請けは孫請けを脅し、現場の末端にいる作業者は無理を強要され続けている。もしそのような体制でこの困難な事故処理対応の仕事が継続されてゆくとしたなら、これからもチョンボは続出し、抜本的な対応策も見出せぬまま、地下も海もより複雑な放射能汚染の度合いを増し続けるに違いない。ぞっとするほど恐ろしい現状だ。海外諸国の注意関心もこの点に集中しているようだ。しかし、日本国では、関東に住む者でさえ、その大半の人たちは、原発事故は遠い場所の出来事で、遠い昔の事件だったくらいにしか思っていない。こんな調子では、原発の再稼働は時間の問題となるに違いない。

完全にコントロールされているなどというセリフが、一国の総理から世界に向かって放たれるという現実は、政治用語として常識なのかもしれないけど、違和感は拭えない。形式的には、事故処理対応の仕組みはきちんと動いているという認識なのだろうけど、あまりにも安易過ぎるのではないか。人を安心させ、元気を出させるためには、嘘も方便ということも時には必要かもしれないが、欺瞞であってはならないと思う。

七年後のオリンピックまでの間に、コントロールされているはずの福島の海が、セシウムのみならず高濃度のストロンチウムなどのより悪質な放射能に汚染されていないことを祈るばかりである。

コメント
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