山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

‘12年 九州春旅レポート <第37日=5月6日(日)>

2012-05-07 05:03:50 | くるま旅くらしの話

【行程】

里の駅:山香風の郷 →(R10他)→ 杵築城下町散策 →(R210・R10・R500・K11・R210)→ 道の駅:ゆふいん →(R210)→ 日田市城下町散策(豆田町商家町)→(R386)→ 道の駅:原鶴 (泊) <142km>

 

【レポート】

 山香風の郷は道の駅ではなく、里の駅である。大分県には里の駅というのがあり、くるま旅の者には、道の駅に準ずる施設として利用を考えることができてありがたい。このような発想は今のところ他の行政体には無いようだ。車旅の環境は真に貧弱で、我々は常に変わり者扱いである。高額な旅車を買って、公共の施設を無料でぶらぶら旅をして、時に迷惑をかけている連中などと思っている人は多い。実際に迷惑をかけている人もいるのだからあまり反論もできないのだけど、先ずは国や地方公共団体は、もう少しくるま旅の環境整備に力を入れて欲しいと願っている。くるま旅というのは、車社会の中では必然的に生まれてくる旅の文化といっていいのだと思う。車が社会の中で個人にとっても生活に不可欠なものとなっている以上は、これを用いて新しい旅の在り方が生まれてくるのは当然であろう。道の駅は、本来はくるま旅のための施設ではなく、より多目的な車社会のための施設である。これを利用せざるを得ないのは、他に利用できる施設が見当たらないからである。くるま旅はキャンプではないから、キャンプ場は多くの場合利用には不適である。ロケーションも設備も長期滞在時以外は敬遠せざるを得ない。旅館やホテルは、もともとそれらを利用しないで済む気楽な旅を楽しむのがくるま旅なのだから、共存しにくいケースが多い。有料で駐車場を提供してくれるというようなシステムも一部考えられているけど、使いにくい。やはりくるま旅専用の施設やそれを利用できる仕組みが欲しいのである。勿論それは有料で、水、電気、トイレ、ごみ処理などの生活の基本機能を備えたものであり、料金もリーズナブルなものであって欲しい。そのような施設が全国の随所に設けられれば、新しい旅の文化が育つに違いないし、そのことは、これからの高齢化社会ではある意味では一つの社会教育的な価値を生み出す基盤にもなりうるのではないか。現役をリタイアした後、くるま旅で改めて今まで生きてきた世の中をじっくり見て回ることは、いろいろな意味で新たな人生の刺激になり、心身の健康にも大きく寄与できることなのだと思う。大分県の里の駅が、そのような発想をベースに設けられているとは思わないけど、今一つ高い見地から国や地方公共団体がくるま旅の環境づくりに力を入れてくれたらいいのにと、まあ、愚痴付きの夢想が広がったのだった。

 その里の駅の山香風の郷は、風もなく快適な一夜だった。昨夜は泊まりの車もかなりあって、ゴールデンウイークの最後の賑わいだったようである。今日は先ずは昨日ちらっと下見をした杵築の城下町を散策し、その後は相棒が探訪を楽しみにしている日田の城下町(といってもここは天領だったけど)に向かう予定でいる。旅も愈々終盤となり、残りの時間も1週間余となってきている。大分県を終えて福岡県に入れば、県南の方を少し廻ってもう後は帰途につくだけである。

 杵築を訪ねるのは初めてのことだった。ここがどんな所なのかよく判らない。隣の日出町の城下カレイは知っているけど、まだ本物を味わったことはない。その日出の隣が杵築なのだということくらいしか知らなかったのだけど、伝統的建物保存群の資料の中にこの町が含まれていたので、ちょっと覗いてみようということでやって来たという次第。どこへ車を置けばいいのか、しばし迷ったが、商人町といわれるエリアの所にある観光客用の駐車場を見つけ、そこに車を留める。風の郷で貰った観光案内の資料に寄れば、杵築の街並みは商人町と呼ばれる谷底の様な狭い平地にメインの通りがつくられており、その南北両側が武家屋敷となっていたようである。つまり商人町を挟んで武家の住まいがそれを見下ろしていたということの様だった。杵築城というのもあったようで、今は新しい城が復元されて建っているけど、その規模は小さく、これは城主の住まいというのではなく、見張り台の様な機能を持ったものではないかと思った。

 凡その地形や町割りなどを頭に入れた後、散策に。商人町は昨日までお城祭りというのがあったようで、今日はその休養日なのか、休んでいる店も多い様で、静かだった。味噌や醤油などの製造販売の店などが今でも現役を続けていた。武家屋敷は南側の高台を南台と呼び、北側の高台を北台と呼んでおり、先ずは北台の方へ行ってみた。武家屋敷に行くにはどの場所も急な坂を上らなければならず、その坂付近にあった店の商売などを採ってか、酢やの坂とか紺屋の坂などの名前がついていた。北台の武家屋敷には土塀のわずかに残存ずる家が3~4軒あり往時の雰囲気を漂わせていた。現在も子孫の方が住んでおられるとなると、往時のままというわけにはゆかず、これはもう仕方のないことである。何よりも昔を語っているのは、石垣ではないかとここでも思った。庭なども残ってはいるけど、これは手入れをしないと続かないであろうから、その石組などを除けば、植木などの大半は新しいものとなっていると思われ、文化遺産の保存というのは、難しいものだなと思った。

     

杵築城下町、北台の武家屋敷跡の景観。土塀の左手先の方には、藩校の時習館があったとのこと。今は杵築小学校が建てられている。落ち着いた雰囲気の如何にも武家屋敷という感じがした。

 相棒とは歩きのペースも探訪の目的もかなり違うので、一緒だったのは最初の坂を上った時だけで、その後はフリーである。11時半を車に戻るリミットとしている。9時少し前に着いているので、時間的には余裕があるとは思うけど、相棒の場合は、誰かを捉まえて話し込むという習性があるので、時を忘れる場合が多く、油断はできないのである。北台の武家屋敷を見たあとは、坂を下り杵築城の方へ行ってみた。城は川が海に流れ込む辺りに突き出た小さな山の上に築かれており、傍まで行くと実に間近に周辺の町の様子が展望できる。ただ、そこから眺めた町の様子は、規模的には小さくて、この地が交易や産業で栄えるような場所ではなかったように感じた。展望は広いのだけど、町はこじんまりとしているのである。この城に上った殿様も3万2千石の身の小ささを実感していたのかもしれない。良く解らないけど、相棒が仕入れた情報では、杵築藩松平家は、九州の見張り役の様な任に当たっていたとか。殿様も家老以下の武士たちもこの城に立って、その責任感に燃えていたのかもしれない。武家の社会とはそのようなものである。

 城をあとにして、次は南台の武家屋敷や寺町などを歩いてみた。こちらの武家屋敷はどうもそれらしさを感ずる場所が少なくて、少しがっかりした。又お寺の方も5つほどが集められて建っているというので行ってみたが、あまりお寺らしいお寺に見えなかったのは、その昔これらのお寺は、いざという時の武士たちの宿泊所や集合場所として考えられていたという名残の様なものが影響しているのではないかなどと思った。宗教目的の寺ならばもっと荘厳さがあってもいいのではと思った次第。坂を下りて、車に戻ったのは、11時15分だった。相棒の所在は判らない。暫く待ったがそれらしき気配なし。駐車場にボチボチ車が入ってきて、うっかりすると抜け出るのに苦労することになるかもしれないと心配になり、相棒に電話をする。今坂を下りている所だという。しかしその割には着いたのが少し遅かったのは不思議だった。どうやら時間が少し足りなかったようで、何やらの生菓子を手に入れ損なったなどとのたまっていた。でも杵築城下町の散策については満足だったようだ。

  杵築を後にして、日田に向かう。海の近くを走って、別府からは急坂の連続だった。一気に山の中に入り、鶴見岳のロープウエイ乗り場を通過して更に山奥に進むと、急に展望が開けて雄大な由布岳が姿を現した。それほど高い山ではないけど、湯布院から見上げるこの山の姿には心を奪われるものがある。やがて坂を下って湯布院の町へ。と思いきや、ナビに従ったら湯布院の中心街を避けて旧道を国道210号線の方へ行ってしまった。湯布院は人気の場所でもあり、今日は観光客で混んでいたろうから、結果的にはこれでいいのだと思いながら坂を上ってゆくと、湯布院の道の駅に出たのは意外だった。とにかく、ここに寄り弁当類を買って昼食とする。日田まではまだ遠い。一息入れて出発。

 15時少し前に日田に到着。カンカン照りの天気で、真夏のような暑さだ。日田は山の中の町であり、暑さは一層ひどい感じがした。目的の伝統的建造物群の商家町である豆田町の傍まで行ったが、駐車場が判らず一時困惑した。何しろ道幅が狭いので、見つけにくいのである。江戸時代の大通りなどと言っても、現代では車の離合がやっとというくらいの道幅のものが殆どだったのではないか。ようやく見出して車を留める。相棒はたちまちすっ飛んで消えてしまった。こんな場合は疲れない人になってしまうのである。豆田町は小さな地域だけど、商家が密集している感じで、往時を思い起こさせる雰囲気があり、なるほどなと思った。相棒は10年ほど前まで文化財や建築物に関わるボランティアガイドをしていたこともあり、この種の町や建物の探訪にはひときわ情熱的なのである。今回の旅のテーマの中に伝統的建造物群が入っているのも相棒の要望があってのことで、自分としてはさほどは重大な関心はない。でもまあ、実際現地に立ってみると、それなりに感ずるものはあり、勉強にはなっていると思う。一通り町中を回って、疲れてしまい車に戻って小休止。相棒が所在不明なのは毎度のこと。今日の宿をどうするかなどを検討する。三つの候補地の中から、温泉に入ることを考えて原鶴が良いかなと思った。原鶴は福岡県の杷木市にある温泉エリアにある道の駅である。

     

日田市豆田町の御幸通りの景観。この一帯はこのような雰囲気の商家の跡が満ち溢れていた。

 日田といえば咸宜園であり広瀬淡窓であり、日田の生んだ大偉人であろう。そこを訪ねるつもりだったのだが、疲れてしまってもういいやと思っている頃になって、ようやく相棒が戻ってきた。息せき切っているので、何をそんなに急いでいるのかと訊いたら、どうやら自分に文句を言われそうなので急いで来たとのこと。何でも他人の所為にする人ではある。時計は16時半近くになっていた。まだ見残している所が多くあるらしい。じゃあ、明日もう一度来るかということになり、少し遠いけど先ほど選んでおいた近くに温泉のある原鶴の道の駅に泊まることにして出発する。

 原鶴温泉は福岡在勤時に職場の懇親旅行などでも来ており、家族で近くにも来ており、もうその昔の故郷に近い存在なのである。8年前の旅の時にもこの道の駅には何回かお世話になっている。この道の駅の地産品売り場には新鮮な野菜類などが豊富に並べられており、近郊にも人気のある場所でもある。8年前と少しも変わらないその様子だった。夕食の食材を確保した後、近くにある温泉へ。光泉の湯というのへ入る。肌のすべすべする感覚となる湯で、良く温まって疲れを取り去るのに努める。温泉の後は再び道の駅に戻って、錨を降ろす。

 今日は日中に倅からメールが入り、住まい近くの茨城県のつくば市が竜巻の様なものに襲われて被害が出ているとの内容だった。我が家には被害はなかったようで安堵したが、雷鳴と共に雹や霰が降ったとのこと。農家などではかなりの被害を受けたのではないか。原発事故の余波も収まらないのに、再びの天災には驚くばかりである。夕方のニュースを見ていたら、中学生の方が亡くなったという。よほどに酷い大自然の暴威だったようだ。家を壊され、怪我をした人もたくさんおられたようである。一日も早い回復を念ずるのみである。

【今日(5/6)の予定行程】 

道の駅:原鶴 →(R386)→ 日田城下町散策 → (未定)

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