【行程】
道の駅:たちばな →(R3・R442・K15・R385)→ 道の駅:吉野ヶ里 →(R365)→ 吉野ヶ里遺跡公園 →(R385・R34・R500・R322)→ 秋月城址 →(R322)→ 道の駅:おおとう桜街道 (泊) <124km>
【レポート】
考えてみれば、もう5月に入って1週間が過ぎ、旅はあと残り1週間となっている。今日は九州観光の最後の日とすることにしている。明日は北九州から山口県に入り、しばらく山陰路を行くことにしている。当初は山陽道を行こうかと考えていいたけど、天気も少し安定して来たようだし、気温は北側の方が低いはずだから、持参した着衣のことを考えると山陰の方がいいのではないかと考えた次第。夏用のものを殆ど持ってきていなかったのだ。福井からは琵琶湖を回って東海側に出て今度は太平洋側を行こうかなと思っている。ま、しかし実際にはどうなるのかはその時の天候や気分次第である。
昨夜は終夜傍を通過するトラックの騒音に時々眠りを脅かされた。国道3号線は九州を走る大動脈の一つであり、連休の終わった今は物資の移動が相当に激しくなっているのを実感させられた。旅だなどと言って、こんな所で夜を過ごしている者が、その動きの音をとやかくいう資格はないなとは思いつつも、やっぱりもっと静かな場所を選んでおけばよかったと思うのは、凡人と証である。この道の駅には湧水があり、早朝から汲みに来ている人も散見された。自分たちも出発の前に少し水を汲んだ。ここはTVが全く映らないので、ニュースや朝ドラは、今日の最初の目的地の吉野ヶ里遺跡の駐車場に行ってから朝食の後に楽しむことにしようと、6時過ぎに出発する。久留米などの大都市の混雑を避けるにはその方がベターだとも思った。
吉野ヶ里遺跡公園までは1時間足らずの道のりだった。しかし駐車場の入り口まで行くと、開場は9時からだと書かれていて、入場は不可だった。ここで待つわけにもゆかず、やむなく道の駅:吉野ヶ里まで行くことにした。ここからは10kmほど山に入った所である。こんなことなら昨日無理をしても吉野ヶ里の道の駅まで来ておけばよかったと思った。遺跡を過ぎると間もなく急な坂道を上り続けることになり、燃料の少なくなっているSUN号には負担と心配の多い道だった。道の駅は福岡県と佐賀県とを分ける背振山系の中腹ほどの高所にあり、眺めは抜群だったけど、吉野ヶ里という駅名には何だか違うのではないかという印象を受けた。7時半前の駅構内には泊りの車は殆どなく静かだった。TVも良く映った。朝食の後朝ドラなどを見て、その後吉野ヶ里遺跡公園に向かって出発。
坂を下って20分足らずで到着。もう入口はOKだった。吉野ヶ里遺跡はその卑弥呼説のニュースなどを聞いてから久しくなるけど、来訪するのは今日が初めてである。一度は見ておかないと、と予てから考えてはいたのだが、なかなかその機会がなかった。さて、どんなものなのか、興味津々である。入場料の400円は、シルバーは半額となっており、これは良心的だと思った。中に入るとその広大さに驚かされた。弥生の太古の町づくりがどのようになされていたのか、凡その見当はつけてきたのだったが、ここに来て見ると、その実際のスケールの大きさは予想をはるかに超えたものだった。環濠集落の遺跡は幾つか見てきているけど、ここのそれは今まで見た中では最大のものだった。復元した各種の建物などが点在しており、幾重にも環濠が掘り巡らされているのを実物大でかなりリアルに見たのは初めてだった。なるほど、卑弥呼説が生まれるわけだと思った。資料館のDVDを30分ほど見て凡その予備知識を入れた後、南内郭、北内郭などを見て回る。何しろ広大なので、全域をまんべんなく見て歩くのは1日では無理である。主なものだけを見るにとどめることにした。来訪者の殆どは小学生の社会科学習の子供たちで、勉強の準備の用具などはぶら下げてはいるものの、気分は遠足と同じのようで、まあ、賑やかなこと。時々調子を狂わされたけど、子供は大人の、ましてや老人の調子を狂わすくらいで丁度いいのである。叱ったりはしない。北内郭が王宮の在った場所と推察されているらしい。ちょっぴり威厳のある高さのある建物が建てられていた。それを撮っている時にカメラの電池が切れてしまい。それを機に引き上げることにする。
吉野ヶ里遺跡公園内の見張り櫓の上から見た集落の様子。ここは南内郭であり、環濠内には大人と呼ばれる治世の幹部の家があり、柵の外には一般人の集落があるようだった。
弥生時代というのはインドや中国あるいはギリシャやエジプトなどでは既に幾つもの王朝などが栄えた時代である。その中では、このような形の小さな集落は国家とは言えない未開の場所に過ぎなかった
と言わざるを得ないなと思った。しかし、大和朝廷というものも、その始まりは同じようなプロセスを経て伸展していったのであろう。神話の国と呼ばれる霧島や高千穂などを見て来て、この吉野ヶ里を見ていると、日本国の成り立ちの、神話とその現実との落差を改めて思ったのだった。人間の空想力は無限であり、どんなものでもどんな時間田空間でも自在に創造してしまうのだと思う。だから神話はどのようにでも創ることが可能なのだと思った。そのような心構えでもう一度古事記などを読んでみようかと思った。
吉野ヶ里を後にして、九州での最後の観光地訪問先となる朝倉市の秋月城址に向かう。途中鳥栖市郊外で給油を済ませ、リンガーハットでちゃんぽんを食する。これが九州で食べる最後のちゃんぽんとなるのかも知れない。美味かった。秋月には13時半ごろ到着。いつもの駐車場に車を留める。いつもというのは、福岡に住んでいた時代には何度もここに来ているからである。駐車場の場所だけは未だ忘れてはいなかった。しかし、その後の城址へ行く道は忘れていて、わざわざ遠回りとなる道を選んだのだった。記憶とは曖昧なものではある。秋月藩は、福岡黒田藩の支藩の一つであった。ここも今では小京都などと呼ばれているけど、わずかに残る武家屋敷の町並みがそれらをイメージさせるのであろう。この場所が気に入って、特に相棒にはいろいろと思い出があるらしい。その後2時間ほどあちこちとその昔を訪ねて歩き回っていた。自分の方は黒門を見ればあとは用がないので、車に戻り午睡を楽しむ。小さな都の中で眠る時間はリッチなものだなと思う。観光というのは目を見開いて動き回るばかりではない、などと勝手な論理での眠りだった。15時半ごろ電話がかかってきて、疲れて坂を上って戻るのがつらいので車で来てほしい、と下方にある石造りの眼鏡橋の辺りにいるらしい相棒からだった。眠りを覚まして車を動かす。どこかで話し込んでいたらしく、その後はあれこれとその話を聞かされることとなった。
秋月城の黒門小さいのだけど、何度見ても飽きのこない歴史の深さをしみこませたその姿である。
秋月の後は、来た道の延長線をどこまでも走ると、4月初めに泊まった道の駅;おおとう桜街道に出るので、今日はそこに行って泊まることにしている。福岡にもう一度寄ることも考えていたが、どうも大都市は苦手で、敬遠することにした。大宰府や都府楼跡などへは行くチャンスは未だ何回かはあるだろうと思っている。秋月からは嘉麻市の方に向かうのだが、嘉麻というのは何とも妙な市名である。4町が合併してできた新しい市なのだけど、なかなか場所のイメージが湧かない。嘉麻郡というのがあったのかもしれないけど、福岡在住時代でもこのエリアに行ったことが無く、せいぜい耳にしたのは嘉穂町の大衆演芸劇場のことぐらいだった。今日はその辺りを始めて通ったのだが、八丁峠とかいう山道はトンネルもかなり上の方に1つあるだけで、相当に厳しい国道だった。しかし、坂を下りて平地になってからしばらく走っていると、突然道の駅:おおとう桜街道の案内板が現れ、あと2kmと表示されていた。一気に緊張が緩んだのだった。1ヶ月ぶりくらいになるのだろうか、もう桜は鮮緑の葉桜となって迎えてくれた。ここには1億円のトイレがあり、相棒はさっそくもう一度写真を撮るのだとか言って出かけて行った。ここには温泉もあるので、今日は九州最後の夜の疲れをここで癒すことにして錨を降ろす。
【今日(5/9)の予定行程】
道の駅:おおとう桜街道 →(R322)→ (未定)→ 道の駅:津和野 (泊)
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