山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

‘12年 九州春旅レポート <第38日=5月7日(月)>

2012-05-08 05:47:20 | くるま旅くらしの話

【行程】

道の駅:原鶴 →(R386他)→ 日田城下町散策(咸宜園他) →(R210)→ 道の駅:うきは →(R210)→ 筑後吉井商家町散策→(R210)→ 道の駅:くるめ →(R210・R3他)→ 八女福島町商家町散策 →(R3)→ 道の駅:たちばな (泊) <87km>

【レポート】

 原鶴の道の駅の一夜は快眠だった。駐車場が国道から少し離れた所にあり、夜間のトラックなどの通行量も少なくて静かだった。朝になってニュースを見ていると、真っ先に報道されているのがつくば市をはじめ、茨城県、栃木県エリアを襲った竜巻による被害のことだった。常陸大宮市は自分の育った所であり、報道の中に含まれている多くの地名は皆馴染みのある場所であり、知人も多い。災禍に巻き込まれていなければいいがと思うと同時に、被害にあった方々の悲しみや苦悩を思った。お気の毒である。お見舞い申し上げたい。竜巻というのは、自然現象の中でも、局所を襲う性質の悪いひねくれた奴だと思う。どうしてこんなことが起きるのか、科学的な解析ばかりでは解けない何かがある様な気がしてならない。気を付けるといっても、一体その時に何をどうすればいいのか対処のしようがない気がするのだ。

 今日は伝統的建物群保存地区の探訪ばかりを予定している。先ずは昨日の日田の探訪の続きがあり、その後はうきは市の筑後吉井商家町、更には八女市の福島町の商家の町並みを歩くことにしている。自分としては、このような昔の町並みに多大の関心を持っているわけではないのだけど、相棒の興味関心に引きずられるままに、いつしか今という時代を知る上で、これらの歴史の遺産ともいうべき人々の暮らしの跡を覗くのも面白いなと思うようになった。それにしてもどちらかといえば理系志向の相棒が、どうしてこのような遺産やお寺などに関心を持つようになったのか良く解らない。もっとも彼女のそもそもの関心は、それらの建物の構造や形状などに向けられている部分が多い様で、それが建てられた経済活動の在り様とか為政の在り方などについては、あまり興味はない様なのでやはり理系なのであろう。

 原鶴の道の駅は8時から地産物の販売が開始されて活気を呈していた。ジャガイモが食べたくて探していたのだが、新ジャガは皆メークインばかりで、茹でてそのまま食べるのにはあまり適していないので、このところの各地の野菜売り場などでは買うのを敬遠していた。期待していたここも、やはり同じ品種のものしか出荷されていなかった。九州では今頃出荷されるのはメークインが中心となっているらしい。キタアカリや男爵などの品種はどうなっているのかなと思った。それでも鮮度がいいのとたくさん陳列されているのが嬉しくなって、お昼に食べることにして買うことにした。自分はジャガイモを主食にしてもいいと考えている人なのである。勿論相棒とは無関係であることは言うまでもない。

 原鶴を出発し、昨日の道を戻って日田の町へ。昨日と同じ場所に車を留める。たちまち、あっという間に相棒は豆田町の巷の方に消え去っていった。よほどに昨日心残りがあった箇所があるらしい。そのパワーには呆れるばかりである。普段の家事のグータラなどはどこへ飛んで行ってしまうのか、不思議でもある。こちとらは今日は咸宜園を訪ねるだけにしているので、それほど急ぐこともない。記入遅れになっている日記が数ページもあるので、それを書きながら先ほど買ったジャガイモを蒸かしている内にたちまち1時間以上が経ってしまった。ものを書くというのは結構時間のかかる仕事で、一度に何もかもというわけにはゆかず、日記でさえも毎日書くことができず、しばらく温めるということが多い。ブログだって本当は休みたいと思っているのだけど、どうも空白はいけませんという強迫観念の様なものがあり、旅の間は毎日書くようにしているので、そのしわ寄せが日記などに及んでしまうのである。まさに自縄自縛の世界であり、愚かだとは承知しているのだけど、ま、これは一種の習慣性の病の様なものなのかも知れない。

 で、一段落の後ようやく車を離れて咸宜園に向かっての散策を開始する。豆田町との境に小さな堀の様な川が流れており、只の用水路かなと思いながらその側道を歩いていたら、しばらく行くと説明板の様なものがあり、そこに「中城河岸」と書かれていたので驚いた。その昔は、この川(=運河)はかなり川幅も広く、年貢米などの搬送のために筑後川につながっての水路として使われており、そのこともあってこのエリアは港町と呼ばれているのだとか。港といえば海の傍と決まっていると思い込んでいる者には、山に囲まれた日田の地に港などと言う地名があることを理解できるはずがない。一つ新しい発見をした気分となった。

咸宜園はどこなのか、なかなか見つからなかった。地図も案内書も持たずに、行けば直ぐに判るものとタカをくくって出て来たのだったが、どうやら遠回りとなったらしい。淡窓2丁目とかの地名の書かれた電柱の表示板を見ながら、広瀬淡窓という人物のこの地における影響力の大きさを改めて思ったのだった。私塾の主催者でありながら、全国からの俊才を引き寄せたその力は、相当なものだったのであろう。しかし自分はこの方の著書などは読んだことが無く、一体何をどう教えられたのか、何がそれほどに人々を惹きつけたのかさっぱりわからないのである。江戸時代の書物の中で読んだものといえば佐藤一斎の言志四録くらいであり、朱子学にはあまり興味がない。佐藤一斎に少しく傾倒したのは、陽明学の精神が随所に籠められていたからである。論語孟子はその教祖(?)の真意に拘わらず幕府の御用学問である朱子学となってしまっているので、そこのところがどうも素直になれないのが、自分にはある。淡窓先生がこれほど多くの人に尊敬されているからには、単なる御用学ではない何か心を惹くものをお持ちだったのであろう。咸宜園にたどり着いて、その跡地に立っている遠思楼という書斎や秋風庵と書かれた看板の掛かる建物を見ていたら、管理事務所の方なのかが出て来られて、来訪者の名簿に記載して欲しいと依頼された。その方の話によれば、咸宜園に学びに一人も来ていない往時の国としては、沖縄と北海道だけだとのことだった。わが常陸の国からは2名が来ているとのこと。かなりこだわりを持って江戸時代の国の名をおっしゃっていたけど、我が常陸の国のことはあまりご存知ではなかったようで、何回か常陸というのを話させられて、ようやく納得されたようだった。九州の天領にプライドを持つ人には、坂東の果ての如きにある常陸の国などは知るにも及ばない地方なのかも知れない。

     

咸宜園跡の中に建てられている遠思楼。小さな2階建ての建物の中で淡窓先生はどんな思い巡らしておられたのだろうか。

ところで、日田は天領では最も有名な場所の一つだと思うけど、自分的には天領という言葉はあまり好きではない。幕領というのが正しいと思っている。天領というのは、天子が収める領地という意味であり、幕府が天子であるわけがない。そもそも天子などと言うものはどこにもいないと思っている。天使の方はたくさんいると思うけど、天子などというのは太古の権力者の思い上がりの言葉か、あるいは架空の理想人物像に過ぎないと思っている。だから天領などと言うものはあるはずがない。それなのに天領などと思い込んでいるのは見当違いの錯覚なのだと思う。ま、こんなことを言うと、日田を愛する人からは総攻撃を受け、首を絞められるかも知れない。天領などと言うのはどうでもいいことだけど、日田という町のたたずまいは昔から好きだ。山と川と水と樹木と、人間が豊かに生きる為の環境条件が整っている感じがする。幕府がこの地に目に付けたのも、九州を抑える心臓部として最適と考え、選んだのかもしれない。咸宜園は、その中核的な存在としてこの地に多くの人材を育てたのだと思った。

11時半近くになって車に戻ったのだが、相棒の方はといえば、音信沙汰なしである。今まででこの種の待ち合わせで、この人が先に連絡をよこしたことが無い。携帯電話というのは、連絡が来るのを待つための用具だと思っているようだ。今日もおそらくどこかで話し込んでしまって、戻るのを忘れているに違いない。どうなっているのか確認しようと電話をすると、今戻りの途中でそちらに向かっているとのセリフ。これも常套句である。正確には、「これから戻ることにします(だからつべこべいうな)」ということに違いない。なぜなら、戻るまでにはそれからかなりの時間を要しているからである。毎度のことなので、もはや腹も立たないし、大してイライラもしない。やがて何やら荷物を抱えて問題人が戻ってきた。

食事をうきはの道の駅で食べることにして出発。その後の車の中では、相棒の一方的な報告攻めに会う。その中で最も興奮していた話は、土鈴を作っておられる方と知り合ったらしく、その素晴らしさを盛んに話していた。土鈴といえば相棒に良く似たというよりもそっくりのものがあり、孫たちが幼少の頃にそれを取り出して見せて、これは誰だ?と訊くと、ババタン!と言っていたのを思い出す。何やらそのようなことまでも話をしたらしく、ついにはその方から立派なご本まで頂戴して戻ってきたのだとか。後で見せて貰ったら、その方のお父さんの著作で、立派なハードカバーの表紙には「日田土鈴」と書かれており、作陶のプロセスなども紹介されている写真集だった。吉田東光というその方は土鈴づくりの名工で、その作品は切手にも取り上げられているとか。吉四六さんの作成プロセスが掲載されていたけど、このようにして作品は創造されてゆくのかと、アーティストの神業をそこに感じたのだった。相棒のおしゃべりと時間のすっぽかしも、時には宝探しに役立っているのだと、少しばかりは得心したのだった。

うきはの道の駅での昼食の後は、近くにある筑後吉井の白壁通りと呼ばれる伝統的建物群保存地区へ。事前に観光協会で頂戴した絵地図は、かなりの間違いがあって現地では大いに戸惑わされた。先の院内の石橋の時もそうだったけど、絵地図というのはそれを作る人の心がけによって相当に差があるようで、強調したいものだけをオーバーに書きたくなるのか、細部のことは順序が逆だったり省略したりしていて、イライラすること夥しい。観光協会というのは多くの場合あまりいい仕事をしていないなと思っている。自分の自慢ばかりを吹聴するような姿勢は、インチキの観光案内なのではないかと思った。筑後吉井の白壁通りについても、そのような白壁通りがなぜ残っているのかについては何の説明も見受けられなかった。現地に行けば解るじゃろ、ということなのかも知れない。筑後吉井は筑後川を挟んで昨日泊まった原鶴温泉と対峙するロケーションにある。ここにこれほど立派な商家の建物群が残っていたなどとは、7年間も福岡に住んでいたのに全く知らなかった。何を以てこれほど栄えたのか殆ど解らないのだけど、筑後川の水利がもたらした交易による富の蓄積によることは明らかなのであろう。これらのことを知るのは、帰宅してからの課題である。我々の旅は現地を楽しむばかりではなく、帰ってから苦しむなどいうことが結構含まれているのである。あまりにも白壁土蔵の町並みが立派過ぎるので、何だか違う空間に入り込んだ感じがした。ここは修復が行き過ぎて、逆に昔の面影が新品になってそこに現出しているような感じがしたのである。それにしても建物個々の規模は大きいものであった。

     

うきは市にある筑後吉井の商家の建物群。相当に豪勢な造りに圧倒される。右隅でカメラを構えている人もいる。

筑後吉井の町並みを歩いた後は、八女に向かう。途中道の駅:くるめにて小休止。ここは未だ久留米市のはずれであり、久留米絣の情報を得たいと出かけて行った相棒だったが、その願望は叶わなかったようである。久留米の市街地を抜けて、八女市の方へ。八女市には中心街に福島町商家町という伝統的建物群の保存地区がある。実はこの中に相棒がお茶を買いたいと思っているこのみ園というお茶屋さんがあり、そこへ行けば両方の目的が叶うというわけである。ナビは正確に案内してくれた。「このみ」とは漢字では「許斐」と書く。難しい読み方なのでこのみと店名を表示されたのかもしれない。お茶の方はすでに新茶が造られていて、相棒の願いはようやく達成できたのだった。何しろ関東一円どころか静岡エリアまでもが原発事故の影響を避けることはできない状況にあり、相棒は相当に神経質になっているようで、お茶は九州なら安全と予てから思っていたようだ。紅茶なども作っておられるようなので、この先も何かと頼りにできそうなお店だった。相棒がお茶屋さんと話している間、近くの別の家の方が、キャンピングカーに興味をお持ちの様だったので、どうぞ中を見てくださいを話したら、急いで娘さんを呼んでこられて二人で熱心に見ておられた。くるま旅は憧れなのだという。ぜひ実現してほしいと話したりした。

その後は福島商家町一帯を散策する。ここは筑後吉井とは違って、もっと正直にその昔の面影が残っていると思った。落ち着いた(というのは少し寂しいというのも入っているけど)雰囲気の町並みには、その昔の繁盛した商家の姿が随所に残っていた。ここも初めて来る場所だった。この地がどのような産業で栄えたのかはさっぱりわからない。これも帰ってからの宿題である。17時を過ぎており、車に戻って、今日の宿は近くにある道の駅:たちばなにすることにして出発。15分ほどで到着。

     

八女市福島商家町の建物群の中の一つ今里家住宅。こちらは表通りに面した方で、右手奥に豪勢な庭などのある住まいが続いている。

ここは国道3号線に面しており、夜間の交通量も多かろうと少し心配したけど、他の道の駅も皆似たり寄ったりの条件なので、まあ何とかなるだろうと錨を降ろす。ここには湧水があり、それを汲みに来る人も多くあって、これは嬉しい発見だった。ごみ処理もOKだし、問題は車の騒音だけである。今日もかなり歩き回って疲れたので早々に寝床に入る。

【今日(5/8)の予定行程】 

道の駅:たちばな →(R3・R442・R385)→ 吉野ヶ里遺跡探訪 → (未定)→ 秋月城下町散策 →(R322)→ 道の駅:おおとう桜街道 (泊) 

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