山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

エンストからの再出発

2008-06-12 07:17:08 | くるま旅くらしの話

  今年のブログ投稿は、366日皆出席で行こうと思っていたのですが、思わぬ出来事にエンジンは竦(すくみ)み上がって、突然停止してしまいました。あまりのショックでブログの原稿作成に至ることが出来す、長い間多くの皆様の期待を裏切りましたことを深くお詫びいたします。

 半月以上もブログを休んでいる間考えていたのは、「老」ということでした。思わぬ出来事については、語りたくありません。人生の中では、あるときに想像もつかないほどの出来事が起こるものですが、その一つを如実に体験させられたということでした。そのことに関連して、今回は、「老」ということについてしみじみと考えさせられました。

 中国の古人(名前は忘れましたが)のことばに、人生五計というのがあります。五計とは①身計②生計③家計④老計⑤死計の五つを言います。「計」というのは、計(はか)ることすなわち方法、段取りという意味です。身計とは、身体(からだ)を如何に上手く管理してゆくかすなわち健康管理のことでありましょう。生計とは、これは一般に使われている暮らしの立て方ということであり、家計とは一家の暮らしの収支、すなわち経済面をどう支えてゆくかということです。そしてあまり聞きなれないことばに、老計と死計があります。老計とは、如何に上手く老いるかということであり、更に死計とは如何に上手く死ぬかということを意味します。

 この人生五計と同じような考え方を、お釈迦様の場合は、人生の4大苦難テーマとして「生・病・老・死」として取り上げています。生きることの難しさ、病を避けることの難しさ、老いを避けられず、又死という絶対的なものも避けられない。これらの困難をどう乗り越えるかというのが、お釈迦様の基本命題だったと私は理解しています。

 さて、五計と4命題に共通しているものの中で、思えば私の人生は「老」と「死」の足元に既に到達していることに気づかされます。67歳というのは、そのような年齢なのだと思います。現在国会で後期高齢者医療制度問題が騒がれていますが、あと10年以内でその対象者に加わることは疑いもない事実です。

 現在の世の中は、人類の歴史上、稀に見る老にとって生きるのが難しい時代にあると思われます。人生80年として、その生まれた時から現在に至るまでの文明というか、環境変化のスピードの速さは、人類の進化の歴史上突出した加速の中にあるように思うのです。文明の成果というのは、現在を生きている若者たちのために使われるものが多いのが普通ですから、老域に入った人には、なかなかその変化について行くことは難しく、益する部分よりも害する部分の方が多いような気がするのです。

 例えば現在当たり前になっている携帯電話や、パソコン、インターネットなどを初め、コミュニケーション(狭い意味では情報)に関する様々な電化製品等のツールは、多くの老域の人たちにとっては、アンタッチャブル(気味が悪いのでさわらない)の存在となっているように思うのです。電話といえば、昔のモシモシで始まる話の交換機能にだけしか知らない、そのような老人はゴマンといるはずです。若者が、何故歩きながら携帯を手にしているのか、を理解できる後期高齢者領域の老人は、極端に少ないのではないでしょうか。多くの老域の人たちには、携帯の画面に何が現れ、どんな使われ方をしているかを理解できるチャンスや力は、殆ど与えられてはいません。自ら前に出てその文明の成果を身につけようとする人以外は、文明とは遠ざかるポジションにいる人が全てといっても良いと思います。そしてその距離はどんどん遠ざかってゆくのです。

 かつて「断絶の時代」という呼び方で、世代間格差が論ぜられたことがありました。これはアメリカの経営哲学の大家ドラッカー博士が指摘されたことだったと記憶していますが、その断絶という激しい格差は、老域の人々にそのまま当てはまる現実が到来しているような気がするのです。

 老人医療を中心とする病院を訪れて、待合室のくたびれた椅子に座っていますと、診察を待つ不安顔の老域の人々が溢れているのを目()の当たりにすることが出来ます。この方たちの老計とは一体何なのだろうか。そして死計とは、……。そして思うのです。老計も死計もあったものではない、と。ここまで来てしまったら、もはや成り行きに任せて、なるようにしかならないのではないか、と。

 私は現在の世の中は、大別しても4段階くらいの世代間格差が断絶的に存在しているように思います。そしてそれらの格差は、加速度的に離れているように思うのです。祖父と孫の間の格差は、人間としての本源的な関係を除けば、文明的な領域(特に情報機器)では殆ど交流は困難な距離にあるように思います。祖父には、孫の手にしている携帯やパソコンの中身は正確には理解出来ず、ただコンセプト的(これも実際は不正確)なアバウトな理解の下に、解ったふりをしながら孫と話すことになってしまっているに違いありません。もし孫が中学生や高校生だったら、よほどに人間的な優しさを持った孫でない限り、祖父などの傍に行って話しかけることなどないことでしょう。祖父の方から話しかけても、喜んで近寄ってくる孫は数少ないのではないでしょうか。

 何時の時代も、老というのは扱いにくい存在のようです。文明進化のスピードが遅かった時代までは、その扱いにくさは時に長老としての尊敬の存在であったこともあるようですが、多くの場合は、扱いにくい頑固者として対処されたように思えます。姥捨て山の話は有名ですが、功利経済優先の世の中では、老人の存在は、心理的には廃棄物に等しい存在となって来ているのかも知れません。今話題の後期高齢者医療制度なども、その根本には困った老人対策の思想がありありと見て取れるような感じがします。

 振り返って、我に返りますと、幸いなことにまだ老計を立てるのに遅きに失してはいない位置にいるように思います。老計の第一は、時代の流れに置き去りにされないこと。そしてそれは新聞などを見て時事の話題に詳しいことなどのレベルではなく、続々と生み出される新たなツールの中で、日常的にメインの位置を占めるものをきちんと理解する努力を忘れないことのように思います。老人のプライドは、観念的には決して若者たちに引けをとるものではないと思いますが、文明の利器を使えなければ、観念だけの塊は、やがて弧高の扱いにくい存在と成り下がるだけなのですから。

 孫との世代間格差から来る断絶は、知識などの世界では埋めようもありませんが、心の世界では永遠に断絶などとは無縁の世界にあるように思います。つまりは様々な断絶的な問題を乗り越えてゆくためには、老域に入った者としての心の世界を豊かにしてゆくことが老計のもう一つの柱になるのではないかと思ったのでした。

 最後に思ったのは、老計さえ上手く運ぶことが出来れば、死計など殆ど要らないのではないかということです。PPK(ピンピンコロリ)の死に方であっても、病の果てであっても、そのときが来れば甘受すればいいだけのことなのだと、そう思ったのでした。

コメント (3)
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