不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

人類だけが生き残ればいいのか?

2011-02-06 01:58:27 | 宵宵妄話

     今回は一つ牛君や鳥さんたちの立場になって、最近の大量殺戮事件のことを考えてみたいと思います。 

 

 この頃は牛や豚などの偶蹄目動物、それに鶏など鳥類の生き物たちの病の話が一段と深刻になってきています。口蹄疫の問題では何十万頭もの牛が殺処分され、今度は鳥インフルエンザで何十万羽の鶏たちが殺処分になろうとしています。これらの状況を見ていると、それが人間のためだとは言え、何だか変だなと思うのです。犬や猫などの小動物の一匹でさえ、虐殺されたのを見たならば、大勢の人間はその蛮行を非難するに違いありません。そしてごみ袋を突き破って群がる都会のカラスに怒りを覚えながらも殺処分にもせず、その対策に汲々と腐心している人間が、なぜ斯くも簡単に何万頭もの牛や何万羽もの鶏を殺戮できるのか、これは考えてみれば不思議であり、恐ろしい行為でもあるように思えるのです。

 このような話は、偽善者の戯論(けろん)であって、人間が生きるための現実はそのようなきれいごとでは済まない、というのがまともな人間の考え方なのかもしれません。しかし、ある時は優しく牛の治療に当たる人間が、自分たちの都合の悪い時にはまだ病に至っていない牛までも、無差別大量に殺してしまうというのは、この自然界の中では相当に思い上がった行為のようにどうしても思えてしまうのです。

特に牛については、人間の子供の生命を育む上で相当にお世話になっており、牛乳やミルクのおかげで育った人も無数にいるはずです。本来ならば感謝して表彰ものの動物なのに、単なる食料としていとも簡単に扱うというのは、可哀想を通り越して申し訳ないという気持ちになります。(私は牛の肉を食べるのを好みません)日本人が牛や豚を食料として普通に考えるようになったのは、明治に入って以降のことでしょうから、まだそれほど時間も経っていないのに、この間に日本人の自然界に対する思い上がりは、西洋人と同じレベルにまで至ってしまっているわけです。

江戸時代までの日本人の食生活が優れたものであったのかどうかは判りませんが、少なくとも自然界との調和という点では、獣類を常食とするような考えはなかったと思います。一部の地域や一部の人間は、現代と同じような食生活を実践していたのかもしれませんが、それはあくまでも例外の存在であり、一般化はできない話だったと思います。獣類を食しないという考え方の中には、宗教的なものも大きかったのだと思いますが、その根底には人間と同じ生き物として扱うという畏敬の心があり、とても食料として常食するなどとは考えられなかったのだと思います。牛や馬は人間の協力者であり、戦や農耕の支援者なのでした。余程のことがない限りはそれを食べてしまうなど、考えられないことだったのです。

それが今の世では彼らに対する感謝や生命の畏敬の気持ちなどはどこへ行ったのやら、ごく当たりまえの食材としてしか認めておらず、その目的に違反するような問題が起これば抹殺するのは当然というのですから、文明の進歩というのは、実に恐ろしいもののような気がします。今、牛や豚の、あるいは鶏の肉がなかったら、日本人の食生活は成り立たないのですから、このようなコメントは実にばかげているというのは承知の上での話です。

話がますます大きくなりますが、この頃思うのは、自然界における人間中心主義の恐ろしさです。現代の科学や文明が目指しているものは、その殆どが人間のために役立つことだけのように思われます。その思い上がりの反省から生まれている行為も少しはありますが、その実態は、例えば京都議定書に対する世界各国の実践行動の状況を見れば明らかです。大国といえども、自国に都合が悪ければ、国が成り立たないからと振り向きもしません。自国経営の維持のためなら、地球が損壊するのも止むを得ないという考え方なのですから、これはもう人間の思い上がりなどという生易しいものではなく、人類の悲劇といっていいのかもしれません。

人間の世の中の動きは常に相対的なものであり、それは言うなれば自己中心的なものをベースにしているわけで、絶対的な善などというものを判断基準にして世の中が動いたことなどあったためしは無かったといえます。つまり大自然の中での人間中心主義は、人間界の中では自国家中心主義であり、その各国家の中ではその成員も又個人(自己)中心主義であるということです。

しかしよく考えると、人間というのは他者との関係において自己の存在が成り立っているのであり、如何に個人主義が大切といっても、他者を無視した振る舞いばかりでは社会は成り立たず、従って自己そのものも成り立たないのです。このことは自然界における人間と人間以外のものとの関係においても同じであって、本来地球上に生息する生き物は、共存共栄を前提とするもので無ければならなかったのではないかと思うのです。この絶対的な理屈を知りながら、「わかっちゃいるけど止められねえ!」というのが、人間が今の世の中を動かしている現実なのでありましょう。

この現実肯定論の限界を指摘しているのが、地球環境問題なのだと思います。これは絶対基準といえるものです。地球が人間の営みの負の遺産によって汚損・破壊され、そのままでは動物が生きてゆけなくなるというのは、人間以外の動物が消滅しても人間は何とか生き残れるなどという相対的な理屈などでは無いのです。その基準に従わなかったならば、全ての動物が絶滅するという絶対的なものなのです。今の地球上において、この基準に最も従わなければならないのは人類なのです。この絶対基準に対する人類の違反は、やがてあるときから急速に現在を支配している現実肯定論を駆除する力を持つようになるに違いないと思われます。

牛君や鳥さんたちの話からは、かなり方向がズレた話となってしまいました。しかし、牛や鶏の病が人間に対して脅威となっているという現実に対して、その脅威を根絶やしするために病にかかりやすい環境にあるその動物たちを、人間の作った法律に基づいて何万何千も抹殺するというのは、同じ地球に生きる生き物として余りに一方的で思い上がっており、それは地球環境問題の本質につながっている様に私には思えるのです。

鳥インフルエンザがどれほどの脅威を人間に及ぼしているのか、科学に疎い私にはさっぱり解りませんが、江戸時代の頃の鳥たちはそのような病に冒されなかったのでしょうか?人間が風邪を引くのと同じように、鳥だって犬猫だって風邪を引かないことは無いはずです。生き物は皆その程度の体調不良は経験しているはずです。抵抗力の弱かったものが命を落とすというのも自然界の習いでありましょう。

しかし、この前提は今の世の人間については当てはまらないようです。人間は科学の力で風邪の原因を突き止め、その対策を考え出し、予想される被害を未然に防ぐ手立てを考え出したからです。でもそれは人間のためだけのものであり、人間以外のものに対しては冷酷であり、救いの手を伸べることなど殆ど考えてはいません。いざとなれば人間に対して害を為すものは排除するだけです。

人間よりも鳥や牛の方が大事だとか、同じだとか言うつもりはありませんが、人間はもう少し謙虚になって、牛や鳥のことを考える必要があるのではないでしょうか。インフルエンザは、地球上を眺めてみれば、鳥などよりも人間の世界の方が猛威を振るっているとも考えられるのです。鳥の立場になって考えれば、人間のインフルエンザが鳥類に対して脅威となっているのかもしれません。自然界の視点で考えれば、人間が現在鳥類に対して行っている処置は、鳥類がそっくりそのまま人間にお返しできる処置なのかもしれません。そもそもヒト型と鳥型ではウイルスが異なっており、交じり合う危険性は少なかったはずなのが、このような状況に至ったのは、鳥の側に責任があるというよりも人間の側の問題の方が遥かに大きいように思えるのです。鳥類にとっては大迷惑といえることかもしれません。ま、彼らは口があっても人間に対しては常に無口ですから、その真意を窺うことはできませんが。

さて、言いたいことは何かということですが、簡単に言えば、少しは牛や鶏の身にもなっての対策を考えるのが、人の道というものではないかということです。先日の口蹄疫では、涙を流しながら牛たちにお別れを言う農家の人たちの姿が痛ましく心に残りました。口蹄疫に罹っていない牛たちとの別れなのです。如何に食料とはいえ、生き物の飼育は愛情が無ければできないことです。愛情を注いで育てた結果が、肉にするために場に送るのであれば同じことではないかという言い方も成り立つという矛盾もありますが、生身の生き物と接している人間は、自分も生き物であるという謙虚さを失うはずは無く、少なくとも生命の大切さを知っているはずなのです。ですから、その人が願ったのは、病でもないのに殺される牛の延命であり、病にならないで済む方法だったに違いありません。

人間が人間中心主義の生き方を捨てられないのであれば、人間は牛や鶏を不都合事態が起きたからといって、簡単に殺処分などで片付けてしまうのでなく、その科学におけるアプローチを、普段お世話になっている近隣動物の健康と安全に、もっともっと真剣に振り向けるべきでは無いでしょうか。彼らを食料とするのであれば、この配慮は一層重要であるはずです。なぜなら彼らの健康と安全は、すなわち人間の健康と安全に直結しているからです。一本の注射で口蹄疫から逃れることができ、一粒飼料に混ぜて食べさせるだけでインフルエンザなどものともしない、そのような科学の使い方を人間はもっともっとすべきではないでしょうか。

牛君や鳥さんたちになり代わって、一言、三言申し述べさせて頂いた次第です。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 久しぶりに東京へ行く  | トップ | お知らせ »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

宵宵妄話」カテゴリの最新記事