山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

月の引力を感じる場所

2012-10-25 04:21:33 | 旅のエッセー

  佐賀県の最南端の町といっていいのか、有明海に面した太良町というのがある。海の幸と山(陸)の幸に恵まれた暮らしの豊かな所の様だ。この町の竹崎という所は、竹崎ガニと呼ばれるワタリガニが獲れることで有名だ。有明の海のその干潟では、名物愛嬌者のムツゴロウ君にもお目にかかれる。又陸の方では、ミカンなどの果物類を初め、野菜類や米の栽培も盛んに行われているようで、そのことは道の駅に並べられた地産物の数の豊富さからも推し測ることができる。

 この道の駅には、「地球の引力を感じる場所」という、妙なキャッチコピーが掲出されていた。地球の引力を感ずるというのは、どういうことなのだろうかと思った。ニュートンはリンゴが木から落ちるのを見て、万有引力の法則に気付いたとのことだが、我々凡人には、空を飛ぶ飛行機が墜落するのを見ても、引力がどう働いているのかなどというのに気づくわけもなく、ただあんな重いものが空を飛ぶなって、何とも恐ろしやと思うだけである。

 この道の駅に泊まって、朝を迎えたのだが、昨日家内が聞いてきた情報では、駅の売店で11時ごろからカニ飯の弁当が売り出されるとのこと。彼女はカニには目のない人となっている。どうしてもそれを手に入れたいという強い要請があった。急ぎの旅でもないので、まあ、それも良かろうと販売開始の時を待ったのだった。道の駅に泊まる旅人の多くは、遅くとも10時くらいまでには次の目的地に向かって出発して行くのだが、自分たちはまるでカニ弁当という餌につられて、出かけるのを忘れたアウトサイダーの様な気がした。

 いつものように出発前の車の点検やトイレの処理などをしていて、ふと気が付くと家内がどこに行ったのか戻ってこない。10時を過ぎても所在不明の状態だった。まさかいくらなんでも一刻でも早く弁当を手に入れたいと、店先に並んでいるほど強欲でもあるまいと思いながら、そちらの方へ行ってみたのだが、居なかった。ま、いいかと駅舎の裏の方(=海に面した側)に行ってみたら、そこに海を眺めている家内を発見した。有明海は遠浅の箇所が多いけど、この辺りもかなり沖の方まで遠浅の海が続いていて、丁度今の時刻は、遠く引いていた潮が少しずつ勢いを増して岸の方へ押し寄せてくるところだった。それを飽きもせずにずっと見続けていたとのこと。つまり月の引力とやらを感じていたのだった。

         

月の引力を感じる時間の光景。有明海の沖が盛り上がり、ふと緩むのか、そこから生まれた小さな波が、次第に生長しながらこの浜辺に向かって静かに押し寄せて来るのだった。

  有明海のこの地では、潮の干満の高低差が数メートルにも及ぶとか。なるほど、この落差を実感することがすなわち月の引力を感じるということなのか、と思った。つられて見ていると、確かに押し寄せる波の動きで、何かが起こっているのを実感できるのである。沖から押し寄せる波は、最初はさざ波だったものが、少しずつ勢いを増し、その強さを膨らませているのが判る。この波の動きは、つい先ほど前から始まったらしい。泥の中に顔を出して遊んでいたちびっこのムツゴロウ君たちの動きも、少し活発となり出したようである。干潟に立てられた腐食の進んだ棒杭の脇にも押し寄せる波の大きさが少しずつ実感できるようになり出していた。

       

浜辺近くの干潟の構築物の根元の様子。この近くの泥の中には、幾つもの穴があって、そこにムツゴロウの子供たちが遊んでいた。潮が満ちて来るのを知ると、彼らはそれを恐れているのか、歓迎しているのか、動きが賑やかになった。しかし、泥の風景はそれらを全く気づかせないようだった。

 引力を実感するためには、じっと一箇所に留まっていた方が良いようである。引力というのは沖の方から強まる様な気がした。沖の方の海が盛り上がって、それが波をつくり出して浜辺に向かって押し寄せてくる感じがした。海を引っ張る力とそれを緩めるタイミングが波をつくり出しているように思った。それにしてもこの力の大きさはものすごいなと思った。昨年の東北沿岸の大津波の映像を思い起こしながら、改めて大自然のパワーの巨大さに打たれたのだが、この何でもなさそうな有明の海の変化にも、秘められている大自然の恐るべきパワーを実感せずには居られなかった。

 それにしても人間というのは鈍感な存在だなと思った。月の引力というのは、何も海にだけ作用しているわけではなく、地球に住み、存在する全てのものに同じように働いているはずなのに、ちっとも感じてはいない。辛うじてこのような海の変化を見て引力を実感しているだけである。浜辺のムツゴロウ君たちは、人間とは違って毎日僅かな変化であっても、この引力の働きを実感しているに違いない。生きものとしての、この違いは何なのか。もし、鈍感というのが、人間の思い上がりから来ているとしたら、怖いことだなと思った。

 ところで、改めて引力というのは何なのだろうか。広辞苑などを引くと、難しげなことが書かれている。万有引力だけではなく、様々な引力の形があるらしい。宇宙規模から素粒子の世界まで、引力の存在が判明しているらしい。しかし、何故このようにあらゆる物体、物質に引力が働くのであろうか。逆に考えると、引力がなければ物体や物質はその存在を確保できないものなのだろうか。創造主が何故引力などという働きを持たせたのか、不思議というしかない。

 思うに物理の世界だけではなく、人間の心の世界にも引力というのは明らかに存在するのではないか。その最も典型的な働きは、男と女の惹かれあいなのかも知れない。又、友情などということばで括っている人と人との付き合いも、心の世界の引力の働きによるのかもしれない。更には大震災で確認された絆という人と人との結びつきも、心の引力の働き以外の何物でもないのではないか。この世には、どうやら引かれあうという働きが不可欠なようである。

 海を見ている家内から少し離れた場所で、しばらく動かずに自分も月の引力を感じながら、別の引力に縛られ(?)て、もう40数年も一緒に此処まで、彼の女(ひと)との人生を歩んできたことを不思議に思ったのだった。  (2012年 九州の旅から 佐賀県) 

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