山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

門司レトロ街を歩く

2012-10-22 04:03:28 | 旅のエッセー

  4月の初め、門司を訪れた。門司という街を訪れたのは初めての様な気がする。気がするなどと曖昧な言い方は不謹慎だけど、北九州市には何度も行っているのに、その殆どは小倉までで、門司へは関門トンネルを1~2度潜ったくらいで、いつも通り過ぎてしまっていた。九州には、転勤で福岡に7年余りも住んでいたのだが、門司がどのような街だったのか少しも知らぬままに過ごしていたのだから、勿体ないといえば実にもったいない過ごし方だったというしかない。それはまあ、今でもその延長線上の暮し方をしており、守谷市の近くにある町なども存外知らないという点では少しも変わりがないようだ。人は、何か特別なことでも起こらない限りは、隣町の名所ですらも気づかぬままに人生を終わってしまうような存在なのかも知れない。

 今回偶々門司を訪れることができたのは、家内が盛んに門司のレトロ街を訪ねたいと言っていたからである。そのような場所に、旅車が留められる駐車場があるのかどうか迷ったのだけど、ま、行ってみれば何とかなるだろうという、いつもの成り行き任せの判断だった。少し手間取ったけど、何とか車を留めることができ、そのレトロ街というのやらを歩くことになった。

 関東に生まれ育った者には、北九州や筑豊エリアの繁栄や衰退の歴史の風をなかなか実感できないものがある。北九州について知っていることといえば、八幡製鉄所の存在を核とする重工業地帯としての煤煙の街のイメージと筑豊炭鉱における激しい労働争議のニュースなどばかりで、繁栄というよりも衰退の歴史の印象の方が遥かに強いのは、やはり遠く離れてその実態を知らなかったからなのであろう。

 考えてみれば、そのような暗く重い繁栄と衰退の歴史ばかりではなく、基幹エネルギーとしての黒ダイヤのもたらした繁栄の時期が確実に存在していたのである。しかし、それがどのようなものだったのかを殆ど想像出来ないのは、異なった環境で育った者の宿命のようなものなのかもしれない。

 北九州筑豊エリアの場合の繁栄の跡というのが何なのか、まるで石炭が燃え尽きるのと同じように殆どのものが跡形もなく消え去り、残っていたボタ山さえも今は草木に覆われて、その存在も、知っているのは老人くらいしか居なくなってしまっている。繁栄というのはどこかにその証となるものを残すはずなのだが、自分は門司という街については、全くそれに気付かなかった。その迂闊さに今回は気づかされたように思う。

 門司のレトロ街を初めて訪れて、ああ、ここに北九州エリアの繁栄の証が残されていたのかと気づいたのだった。レトロ街には、レンガ造りの瀟洒な建物が何棟か保存されていた。それを見ながら、そうか、門司港というのは往時の大陸を初めとする世界につながる産業交易の一大拠点だったのだと気づいた。九州エリア初の人口百万を超える政令都市となった北九州市は、合併前は、小倉、八幡、戸畑、若松、そして門司の五市が夫々の役割を担った重工業地帯を形成していたのだが、その中で門司市は、交易の港として重要な役割を果たしていたということなのであろう。

      

門司港レトロ街の旧税関の建物と跳ね橋。跳ね橋の向こう側は下関。この跳ね橋は、今でも現役で活動している様である。

 ここに残っている幾つかの建物の名称などは、一々案内図などを見ないと判らないのだけど、レトロ街というこの一角に入ると、往時の街全体としての門司の賑わいが彷彿として浮かんでくるのである。港に引き切りなしに出入りする船の数々、それらの荷物を積み下ろし、積み出す起点となっている鉄道の駅、そして本州とをつなぐ渡船の往復する姿等々、人と物の激しい動きの様が目前に広がってイメージされるのだった。

 レトロといえば、人はある種の情緒的な懐古心を以って今に残る建築物などを眺めるのであろうが、自分にはその建物への印象よりも、それらに出入りする無数の人々やそれらの人たちが動き回って醸し出している喧噪の風景、躍動の景色が目に映るのである。今に残る港のレンガ倉庫などの景観は、横浜や函館、それに小樽などが有名だけど、そこへ行って見ても、往時の人々の活動のイメージは何故かあまり湧いて来ないのである。それは、現在の姿が往時を忘れさすほど再利用が進んでしまって、今の時代の人々の往来に気を取られてしまうからなのかもしれない。門司のレトロ街の景観は、それらのレンガ倉庫街とは異なった、交易の一大拠点としての往時の姿を彷彿させてくれるように思った。それは、もしかしたらこの港が倉庫を不要とするほどに、物資の移動の速さを求められていたからなのかもしれない。玄界灘の向こうは東シナ海であり、中国大陸や台湾に近く、又本州への人や物資輸送の重要な基地でもあった。又、九州というエリアにおける鉄道の基点でもあり、現在も残っている門司港駅は九州鉄道記念館と併せていやが上にも往時の賑わいを思い浮かべさせてくれるのである。

      

門司港駅の景観。レトロ街の中で、最も良く往時の面影を残している建物の様に思えた。今も現役で使われているのも凄いなと思う。東京駅などとは違った地方都市の賑わいを今に残している印象的な建物だと思った。

 そのような感慨に打たれながら、2時間ほど港の街中を歩いたのだが、うっかりするとレトロ街を取り囲み、一部侵入している高層ビルなどが目に入って、今までのイメージがゆがんだりするので、戸惑うこと大だった。レンガ造りの建物や、跳ね橋、渡船乗り場に繋がれている古い洋風の船、それに財閥の倶楽部だった洋風木造建築物などなどの点在する空間をさ迷い歩いたのだが、その中で、汚れかけた街角の隅に、一つの妙な立札を見つけた。

そこには、「バナナの叩き売り発祥の地」と書かれていた。そして、傍にその由来についての説明があった。これを読んで、これこそが往時の門司の景観をイメージさせてくれるに最もフィットした証拠ではないかと思った。それを紹介したい。

「バナナの叩き売り発祥由来の記  昔を偲べば、大陸、欧州、台湾、国内航路の基幹と、九州鉄道の発着の基地点として大いに発展した、ここ桟橋通りは往時の絵巻の一こまとして、アセチレンの灯のにぶい光の下で、黄色くうれたバナナを戸板に並べ、だれとはなしに産まれ伝わる名セリフは大正初期~昭和十三、四年頃まで不夜城を呈し、日本国中の旅行者の目を楽しませた。バナナの叩き売りの風情は門司港のこの地桟橋通り附近を発祥の地と由来せし。昭和五十三年四月吉日  門司港発展期成会 北九州市門司区役所」

    

街角にあるバナナの叩き売り発祥の地の碑。普段は見過ごされているか、或いは「なんだ、そうか」くらいで人が通り過ぎてしまう、歴史の賑わいの名残りとは、そのようなものなのかもしれない。

 今の時代、バナナは叩き売りの対象とはなりえない果物となってしまっている。しかし、往時はなかなかな手に入らない貴重で高価な果物だったに違いない。保存技術もなく、南国から運んできた青いバナナが、国内各地に配送する前に既に黄色く熟れてしまった分を処理する方法の一つとして、この地での販売が始まったということのようである。その売り方に特徴があって、それが叩き売りという形で有名となったということらしい。由来を記した立札が建ったのが、つい30年ほど前なのは、叩き売りの口上が寅さんの登場で再び名を挙げたからではないか。そう思った。観光資源として活用のための、抜け目のない行政のバックアップがあったに違いないけど、人間模様と一緒に往時を思い浮かべるには、この切り口は無言の建物などよりはより活き活きしている情報の様に感じたのだった。

 それにしても、あの賑やかな時代はどこへ消え去ってしまったのだろうか。この港が開かれて僅か120年余りの間に、何という激しい変化の連続だったことか。レトロ街というのは、逆説的にいうのならば、繁栄の残骸に過ぎないのだろうか。この地における今までの出来事の全てが、歴史の必然であったということが言えるのかもしれない。だけど、それらは又人間どもの気まぐれの所産にすぎないとも言えるのかもしれない。ほんの少しばかり歴史の感傷を味わいながら、レトロ街を後にしたのだった。

(2012年 九州の旅から 福岡県)

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