山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

冬の棚田を訪ねる

2010-02-07 00:18:47 | くるま旅くらしの話

今日は旅の話しに戻ります。先日の房総の小さな旅で、鴨川市にある大山千枚田というのを訪れた時の感想です。

鴨川市に棚田があるというのを知ったのは、御宿の月の沙漠のモニュメントを見た後、R128をひたすら走って鴨川の市街地を抜け、道の駅:鴨川オーシャンパークで一休みしようと立ち寄った時でした。エレベーターのカゴ内に、小さな観光ガイドの貼紙があり、そこに「東京から一番近い棚田」という見出しで、鴨川市の東部の山の方にある大山千枚田という紹介記事が目に留まりました。今まで何度もこの道の駅を訪れていますが、このような場所があることに全く気づきませんでした。

棚田というと、能登の海沿いの千枚田のことが直ぐに思い浮かびます。日本全国に、様々な形で残っているのだと思いますが、まだ殆ど訪ねてはおらず、最近になって家内が里山や棚田に関心を持ち出したようなので、これからの旅の中での訪ね先の一つとして取り上げてもいいなと思っていたところだったのです。よし、明日一番でその棚田を訪ねることにしようと決めたのでした。

翌日に泊った道の駅:ローズマリー公園を出発したのは、9時過ぎでした。いい天気で、南房総の今頃の季節を実感させる日和でした。大山千枚田に行くには、R410を使って山の方に入って行くのですが、国道も400番台に入ると、とんだ山道などに悩まされることがあるので、大丈夫なのかと少し心配がありました。でも、平地の多い千葉県なのだから他の山国とは違うだろうと、とにかく最短距離のコースを選んだのでした。

途中に酪農の里というのがあり、ここが日本の酪農の発生の地だとか案内板に書かれていました。北海道ではなかったのかと不思議な気がしました。何でも江戸時代に将軍吉宗公がインドから白牛というのを取り寄せて育てさせ、酪(=牛乳・バター・チーズなど)というものを作ったとか。それが酪農の始まりだということです。現在はアメリカから移入したゼブー種という白い牛が何頭か飼われていました。しばらく彼女たちを観察しました。牛や馬の目を見ていると、草食動物の優しさが溢れており、知らず心が和みます。どうして人間はステーキなどを食べたがるのか、罪なことだなと、あまり肉の好きでない自分は不謹慎な思いを抱きながら牧場を後にし、近くの峠を越えたのでした。

そのあと少し寄り道をしたりして、目的の大山千枚田に着いたのは、10時半近くでした。千葉県の最高峰がどこなのか良く分かりませんが、海抜500mもないのは確かです。従って棚田といってもそれほど規模は大きくないはずだと思うし、それなのに千枚田など呼ばれているのは、高さよりも横への広がりで出来上がっているのかなと思って行ったのですが、それは誤りでした。行って見ると棚田は、広がりだけではなく、高低差もかなりのものでした。千葉県も結構起伏が大きい所があるのだと認識を改めたのでした。

見事な棚田でした。見上げるような大きな棚田でした。能登の棚田にも引けをとらない大きさでした。棚田を見ていると、小さい頃の貧しかった農村の原風景に触れる感じがするのです。

   

丘の中腹辺りか見た大山千枚田の景観。田んぼの1枚1枚の面積は結構大きいように思った。

今住んでいる守谷市は茨城県の南部に位置していますが、平均標高がたった27Mほどしかありません。筑波山の西南部は殆ど平野で、棚田など全く不要の肥沃な土地ですが、私が育った茨城県の県北部は結構険しい山もあり、幾つかの渓谷などもあります。棚田とまではゆかなくても、それに近い段々畑や田んぼは当たり前に存在します。私の実家も、昔はわずかばかりの田んぼを持っていましたが、それは山間の谷津田でした。谷津というのは山間の湿地というような意味です。田んぼとしてはあまり上等のものではなく、水は冷たく日照も劣るといった場所なのです。棚田は日当たりを除けば、多くの場合雨水や湧水などを利用するのでしょうから、多量の収穫を期待するのは難しく、やはり貧しさというものが付きものの農地のように思います。

その昔の棚田のあるような田舎の暮らしは、皆貧しかったのです。農村の原風景は貧しさが常に同居する穏やかさの中にあるような気がします。棚田を見ていると、そのことを思い起こすのです。田舎を出てから、その貧しさを忘れたことはありませんが、表にはあまり出したくない記憶としてずっと心の奥に仕舞っていました。それがこの頃、とくに古希を迎えてからは懐かしさを増してきたようで、貧しさとそれ故に必要な心の豊かさの同居する景観に出会うと、何ともいえない癒しを覚えるのです。この大山千枚田もまさにそれを実感する場所でした。

駐車場に車を停め、歩いて棚田の上から下までを見て回りました。

冬の棚田は、真に淋しくその畦に植えられた何本かの柿や梅の古木も、まるで枯れ木のように痩せた細い枝を、冬の日差しに温めていました。それでも土手の日溜まりには、花を咲かせる小さな野草もあり、休耕田らしき田んぼの一角には植えられた水仙が愛らしい花を誇らしげに咲かせていました。

 

土手の日溜まりには、水仙やフキノトウなどが早春の訪れを告げていた。春というのは知らぬ間に冬と同居を決め込むらしい。

棚田というのは、見上げるよりも見下ろした方が様(さま)になる感じがします。特に冬の棚田は、下から見上げると曲線の土手が重なって見える感じがするだけで、平面としての田んぼが分かりにくい景色となり、写真を撮っても全く迫力がありません。上から見れば、そのような欠点はなくなりますが、私としては、見下ろす棚田よりも見上げる棚田の方により大きな魅力を感じます。貧しさというのは、様にはならないものであり、見下ろすよりも見上げた方がより多く棚田の本質を実感できるような気がするからです。変な理屈です。

棚田の向うに、焚き火でもしているのか、薄紫に立ち上る透明な煙が立っていました。それを見ていると、昔の冬の農村の平日を思い起こす風景にぴったりで、棚田が最も生きた景観であるように感じてしばらくそれに見入ったのでした。

   

遙か下方に煙たなびく、このような景観は、昔の農村風景そのものである。田んぼが白く光っているのは張った氷が解けないで残っているから。

ここには2月になると雪が降ることがあるらしく、棚田の耕作に関る人たちのクラブハウスの展示版に、雪の棚田の風景写真が何枚か掲げられていました。雪の棚田というのも一度は見てみたい景観です。

ここの棚田の運営が具体的にどの様になされているのかは分かりませんが、個人の所有地として一人が全耕作をするのではなく、同好会のような形で田の1枚1枚を個々人が受け持って耕作をしているようでした。能登の棚田には、有名人の看板が幾つも立てられていましたが、ここは有名人ではなく、もっと心ある人たちで運営されている感じがしました。

家内はいたく気に入ったようで、これからは時々訪れて四季の写真を撮るのだと張り切っていました。千葉市の海の傍で育った彼女には、貧しい農村の記憶などなく、棚田は日本という国に相応しい被写体として興味を膨らませる存在なのかも知れません。しかし、心のどこかには農村の原風景のようなものにバイブレートするものがあるのではないか、などと思ったりもしたのでした。

太いしっかりした畦を選んで、あちらこちらと歩き回って、存分に昔のふるさとの懐かしい思い出を反芻したのでした。とてもいい時間でした。これからの再訪の楽しみが増えました。 

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