山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

‘18年 北海道生誕150年の今めぐり旅 レポート <第34回>

2018-06-28 06:34:16 | くるま旅くらしの話

【今日(6/28)の予定】 

道の駅:上湧別チューリップの湯 →(R242・R238他)→ 紋別市博物館 →(R238・R239)→ 西興部村郷土館 →(R239・R238)→ 道の駅:おうむ →(R238)→ 道の駅:マリーンアイランド岡島(泊

 

【昨日(6/27)のレポート】 天気:雨

<行程>

道の駅:上湧別チューリップの湯 →(R242・.R238・D)→ 佐呂間町開拓資料室 →(D・R333・R242)→ 遠軽町郷土資料館 →(R242他)→ 湧別町郷土博物館ふるさと館JRY →(R242)→ 道の駅:上湧別チューリップの湯(泊)  

<レポート>

 朝から雨。それでも止んでほんの少し明るくなり出したので、ワッカへ行けるかなと思ったのも束の間、再び雨が降り出し、これはもうワッカは諦めて郷土館巡りをするしかないと決めたのだった。今日の予定としては、3か所を訪ねることにしており、先ずは佐呂間町の開拓資料館、次が遠軽町の郷土館。そして地元湧別町の郷土博物館ふるさとJRYである。

 先ずは雨の中を出発して佐呂間町に向かう。佐呂間町は勿論日本で3番目の大きさの湖のサロマ湖に因んだ町の名だと思うが、いつもその湖の傍を走る道しか通っていないので、町の中心がどの辺にあるかなどさっぱり解らない。地図によればかなり山の中に入った場所に役場があるようだ。開拓資料室は役場の傍にあったが、本当に資料室といった感じで、事務所の受付に申し込んで鍵を開けて中に入ることとなった。中に入ると入口にこの町の開拓年表が配布資料として用意されていたので、有難かった。それによるとこの地の開拓は明治27年ごろから始まったようである。最初は湖側での漁業からだったようだが、その後道路がつくられるなどして内陸部への入植が展開して行ったようである。地名の中に、岐阜、伊予、栃木などという所があるようなので、恐らく出身地名をそのまま地名にしたのではないかと思った。展示資料は開拓に関わる今まで見て来た各所の様子と同じようなものが並べられていた。後で年表等をじっくり見ることにして資料室を後にする。

 雨は依然として降り続いており、幾分強まった感じがする中を走り続けて、遠軽町の郷土館についたのは11時を少し過ぎた頃だった。雨は一向に弱まりそうもない。中に入ると、事務室の中にいた方に声をかけ、入館料を支払う。実はこの方が館長さんで、その後約1時間半ほど展示資料やそれらの背景などについて、詳しく丁寧にご説明を頂戴して恐縮した。杉山さんとおっしゃる館長さんは、高校の社会科の先生をされていた方で、専門の社会科の領域のみならず、地学にも造詣が深く、特に地元近くで産出する黒曜石については、特段のコレクターでもあることを知った。伺ったお話を全て記すことは到底不可能なので、特に印象に残ったその一部のみを期すことにしたい。

 まずは黒曜石の世界の話。郷土館の玄関を入ると受付の傍に金網の籠が置いてあり、その中に丸い黒っぽい石が30個以上無造作に入れて置かれていた。何なのだろうと聞くとそれが何と黒曜石なのだという。この石のイメージといえば、縄文時代から鏃などとして広く使われて来ているという知識くらいで、その原石を見たことも無く、一体どのような意思からどのようにしてあの鏃を作るものなのかを知りたいとは思っていた。この黒曜石は北海道では白滝という所が産地として有名なのは知っていたが、その白滝は今は合併して遠軽町の中にあるのである。杉山先生は遠軽町出身のお方で、以前からこの黒曜石に魅せられて、白滝エリアにある赤石山に出かけられ調査をされたとのこと。それのみか世界中の関係ある場所へ出向いて調べられたとおっしゃっていた。ご自宅にあるコレクションの写真を見せて頂いたが、驚いたことにその中に白色の黒曜石があるというのを知り不思議な世界があるものだと、何だか自分も急に地学の世界に入ってしまった感じがした。

 端から異種の世界に入ってしまって、少し当惑しかけたのだが、その後の先生のお話は北海道の開拓の歴史を考える上で大変参考になり素晴らしかった。その中で特に気づかされたのは、北海道の開拓には皆「新天地」を求めてやって来たということである。アメリカの西部開拓がそうであったように、日本では北海道の開拓がそうだったのだ。この視点をうっかり忘れていたのを先生のお話からはっきり取り戻した感じがした。遠軽町の場合は(これは遠軽という捉え方で考えるよりも分村以前の湧別地区として捉えて考えることが大切)新天地を求めてこの地にクリスチャンの大学を作ろうと同志を募り入植することを決意した北海道同志教育会というのがあり、その代表の人物が押川方義という方で、この方は東北学院大学の創設者でもあるという。そのメンバーには後に京都の同志社大学の総長を務めた方も何人かおられるということだから、往時としては相当に力の入った新天地の開拓事業だったのではないか。多くの方々は往時の明治政府の高圧的な政治の在り方に反対の立場の自由民権運動に関わる立場だったようである。遠軽のこの地にそのような歴史があったことを知って開拓というものが、単に地を拓くだけのものでは決してなかったということを改めて思い知った次第である。

 又薄荷栽培についてもその由来を教えて頂いて参考になった。薄荷といえば単純に北見の仁頃辺りが栽培の中心かと今まで思っていたのだが、そうではなくその始まりはこの遠軽の地にあったということ。それがこの地の開拓者たちにとって大きな力となっていたことなどを知り、物事というのは、半端な知識は危険だなと自戒の気持ちとなった。他にも感得することは多多あり、杉山先生には心から感謝とお礼を申し上げたい。

 雨の中を再び出発して、途中軽く昼食を済ませ、今日の最後の訪問先地元の郷土博物館へ向かう。実は今朝の歩きでこの郷土館まで往復しているのである。道の駅からは4km弱の道のりだったが、その時はこの建物が何なのかを知らず、傍に行って見て郷土博物館なのだというのを知ったのだった。とにかくものすごく存在感のある建物なので、一体どうしてこのような建物がここにあるのか理解できない感じだったのである。屯田兵との係わりのある展示がなされているようなので、今日は中に入って見るのを楽しみにしていた次第。

 14時少し前に、やはり雨の中を到着する。邦子どのも初めてこの建物を見て驚いていたようだ。先日美幌の郷土博物館を訪ねた時もその立派さに驚いたのだが、この湧別の博物館は、それを遥かに凌いでいる感じがした。400円也の入館料を納めて中に入る。がっちりしたコンクリート造りの建物は、内部もコンクリートはそのままで、一種の荒々しさを感じさせるものだった。観覧は2階からというので、エレベーターで上がることにした。老人になっているのである。

偉風堂々たる湧別町の郷土博物館ふるさと館JRY。建築家渡辺豊和氏の設計によるもの。

さあ、それから順路に従って約1時間ほど順次内部の展示や解説を見て行ったのだが、それは今までのこの種の展示の在り方とは違った迫力を感ずるものだった。この館は、ほぼ屯田兵の開拓の歴史で占められているのである。屯田兵全員の顔写真までもがその名前と出身地を書いて展示されていた。又この湧別の屯田兵は全国の各地から3隻の船で入植したとのことだが、その船に乗る様子から下船、そして入植地までの道のりの様子から始まり、開拓の様子から一段落までの全てのプロセスがジオラマを使って、或いは様々な資料等を展示して解説されていた。399戸、2569人のドラマなのだった。屯田兵なるものの実態を知ろうとするなら、この施設に来れば大方が理解できるのではないか。そう思った。ようやく1階に辿り着いて、最後に本物と思しき官舎を見る。伐り倒した原木の転がる庭の奥に官舎が建てられていたが、その間取りは二間と台所、それに外にトイレという簡素なものだった。

管内に復元されていた湧別屯田兵の官舎。厚岸の大田屯田兵とほぼ同じような印象を受けた。

 しかし、民間の小作人の開拓小屋と比べれば、雲泥の差を往時の人たちは感じたのではないか。どちらも厳しい自然環境を相手のチャレンジには変わりはないのだから、それらを比較するのはナンセンスなのかも知れない。最後に邦子どのがこの建物について館員の方に訊いていたようである。それによるとこの建物の設計者は渡辺豊和という方で、その設計に当ってのテーマは「恒久楽土の結晶」というものだそうで、それをどう理解するか困難だと話しておられた。博物館よりも建物の方を見たいという来訪者もあるのだと話されていた。

 今日は3カ所の訪問だったが、いずれも内容の濃いものだった。特に遠軽町の郷土館での杉山先生のお話から得るものだ大きかった。機会があれば再訪してお話を伺いたいなとも思っている。

 その後は今夜も同じ道の駅:上湧別チューリップの湯に泊ることにして、3時過ぎ到着。今日は温泉にも入ることにして、その後早速温泉を楽しみ夜を迎える。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ‘18年 北海道生誕150年... | トップ | ‘18年 北海道生誕150年... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

くるま旅くらしの話」カテゴリの最新記事