山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

信州小さな秋旅の記録<第6回>

2020-12-03 00:28:14 | くるま旅くらしの話

2年ぶりに旅に出かけました。旅と言ってもたった4日間の小さなものです。長いこと休んでいたため、旅の感覚が大きく鈍っているのを実感しました。6回に分けて久しぶりの旅の所感を報告させて頂こうと思います。

【旅を終えて】

 3年ぶり、たった3泊4日の短い旅の感想は?と、問われれば、その答えは「あ~あ、疲れた~」の一言に尽きるような感じがする。どこを探しても今のところ楽しかったという感想は無い。この2年間のブランクは大きい。旅に出ている時は、それなりの勘が働くものなのだが、今回はそれを取り戻すには至らなかったようだ。全山紅葉は楽しめたけど、どうもいつもより出会いの印象が少なかったような感じがする。人との出会いも、それ以外の出会いも記憶に残るようなものが少なかった。これはもう期間が短かかったのだから当然といえば当然のことなのだろうけど、もう一つ大きいのは、出会いを探し味わう感覚が鈍ってしまっている、というのがあるのだと思う。

一つ思いついてチャレンジしたことがある。今回の旅では、句作に努めようと思った。歳をとるにつれて、自分の思いを表現する方法の中で何が一番なのかを考えるようになって来ているのだが、この頃思うのは、この記録のような駄文を連ねるばかりでは自分の思いは伝えられないということ。ことばでの思いの表現には、散文、詩、短歌、俳句などいろいろあるけど、旅で出会った記録についていえば、一番は俳句だなと思うようになった。これには大先輩がいる。口はぼったいことなのだが、勿論俳聖芭蕉である。奥の細道は、まさに旅の記録だが、そこに織り込められている俳句の数々は、その時々の蕉翁の心が捉えたもの、そのものの表現なのだと思う。この記録を何度も読むうちに、芭蕉という方がどんな気持ちでその旅の瞬間を捉え、表現しようとされていたのかが少しずつ解るような気がして来た。

自分が捉えた一瞬の情感を表現するには、やっぱり俳句が最高の表現方法だと思う。俳句でしか表現できないのではないか。全山紅葉に感動しても、その情景をずらずら、だらだらと書いてみたところで、字数を多くすればするほど冗長となって、己の思いは伝わらなくなる。短歌でもダメな気がする。やはりこの表現方法でも冗長なのだ。もはや句作しかない。そう思うようになっている。今までも何度か旅の記録の中で感じた気持ちを俳句や短歌で表現したこともあったのだが、どうも中途半端で済ませてしまっている。

この2年間のブランクを取り戻すための一方法として、今回は句作を心がけてみようと思った。素人の思いつきであっても、始めることが肝要であり、無理やりでいいからチャレンジすることにした。傘寿を迎えてあとどれくらい生きられる時間が残されているのか全く知らないけど、生きている間は旅であろうとなかろうと、一瞬の感じた情感を句作で表現し、己の生きた証としようと決心したのである。

疲れたけど、やはり旅はいい。在宅の時も毎朝2時間近くを、幾つかのコースを設けて歩いており、そこで旅の気分を味わっているのだけど、それだけでは足りないものがある。季節の移ろいなどは実感できても、やはり日常から抜け出すことはできない。非日常性が生み出す感動の大きさは、旅でしか味わえないのだ。初めて見聞するものに対する好奇心が生きているという己の存在を実感させ、小さな出来事にも心を震わされるのである。

思うにコロナ禍というのは旅の天敵だ。人間の好奇心や感動を根こそぎ奪い消えさせようとしているかのようだ。この天敵に勝つためには、我慢に我慢を積み上げ、耐性を強化し、天敵が諦めて離れるのを待つしかない。しぶとさに対してはそれ以上のしぶとさで対処するしかない。旅から戻って、益々悪化するコロナの第3波の状況を聞きながら、そう固く思っている。

家に戻って、庭を見ると、そんなコロナの感染などは問題にもせず、びっしりと赤い実を付けたクロガネモチの木の下にはツワブキが、その向こうには菊の一株が、花を咲かせているのを見て、妙に感動した。

 

 寒菊のしぶとく咲くや歳の暮れ  馬骨

 秋寒の庭に凛として石蕗(つわ)が咲く 馬骨

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