山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

‘12年 北海道くるま旅くらしレポート <59回>

2012-08-29 03:02:39 | くるま旅くらしの話

【昨日(8月28日)のレポート】    

≪行程≫                                                                 

終日クッチャロ湖畔キャンプ場に滞在   <0km>

≪レポート≫

 朝の内は多かった雲も日中はバラけて、ほどほどのいい天気となった。少し蒸し暑いのが気に入らないけど、これは仕方のない話ではある。今日は終日Aさんご夫妻と歓談などしながらの、ゆったり、のったりと時を過ごす一日となった。湖畔の語らいというのも格別の味わいのあるものであり、くるま旅ならではのありがたい時間である。ツアーのような急ぎ旅では決して味わえない、豊かさのいっぱい詰まった時間だったと思う。今日はその豊かさを2家族で存分に味わさせてもらったのだった。

 昼前はAさんにお茶をご馳走になりながらの語らい、午後は夕時に相棒が少し頑張って、近くの漁師さん直売の獲りたてのエビをてんぷらにしての夕餉の歓談、そしてその後の落陽の撮影と鑑賞。どれも思い出に残るものだった。相棒のてんぷらはその母親譲りで褒めても大丈夫のレベルだと思う。問題なのは、その腕前を滅多に発揮しないということか。ま、旅の間は致し方ないとしても、家に居る時はもう少し多くてもいいように思うのだけど。油のカロリーは高いので、健康管理への配慮なのかも知れない。文句を言うべき筋合いではない。

 Aさんご夫妻との歓談の中で、旅の知人の方たちとのお付き合いのあり方の話がちょっと出た。自分の場合は「淡交」という考え方を大事にしている。「淡交」というのは、荘子の中の「君子の交わりは淡き水のごとく、小人の交わりは甘き醴(れい)のごとし」に由来することばで、文字通り「君子の交わりは水のように淡泊であっさりしているけど、小人の交わりは甘酒のようにベタベタしている」という意味である。自分が君子であるなどとは到底思えず、ごくありふれた小人に過ぎないということはよくよく承知しているけど、自分としてはそのような気持ちで旅の間に生まれた出会いを大事にしたいと思っている。

淡交というのは難しく、奥の深い交わり方のようだ。淡泊という行動・素振りは、時に誤解されやすい。調子を合わせないと相手は無視されたと感ずるだろうし、適当に調子を合わせ過ぎると相手の方はこれはいい加減な奴だと受け止めるかもしれない。とりわけて、人が発することばというのは、必ずしもその真実や実態を反映してはおらず、誰でもそのことは知っているので、結局は総合的な誠意の様なもので淡交というのを表すしかない。理論的にはこれはコミュニケーションのあり方の世界であり、その本質はその人の持つ人間性に関わってくるものだと思う。余分な枝葉は切り払って、その人の持つ人間としての本質的なもの、例えば価値観というようなものがあるけど、それらを尊重するということが大切なような気がする。相手の価値観を認めず、自己主張にこだわる人は、どんなにきれいなことばや情報を並べ立てても、相手とバイブレートすることは出来ないのではないか。自分はそのように思っている。Aさんご夫妻と語り合いながら、そのようなことを思ったのだった。

この日の落陽も絶景を見るには至らなかったのだけど、昨日とは少し違った美しさがあった。夕陽というのは沈む太陽とその背景の空とそれから大地や海や湖との関係で成り立つものだと思うけど、勿論その中心は太陽であり、その光が空や大地などの背景にどのような影響を及ぼし演出を行うかという世界であろう。今日の演出はやや平凡だったけど、普段あまり落陽を見ることのない自分などには、やはりこの地のそれは感動的であり、心に残るものだった。3日の滞在で2回の夕日を見られたのはありがたいことだと思った。

    

 今日の夕日の特徴は、昨日よりも湖面がより多く茜色に染まったということか。遠くの山も湖も、そして自分たちまでもが茜色に染まる絶景をもう一度見てみたい。今年はこれが最後となる。 

今日(8/29)の予定】 

クッチャロ湖畔キャンプ場 → 稚内方面へ(未定)

コメント
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