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新・遊歩道

日常の中で気づいたこと、感じたこと、心を打ったこと、旅の記録などを写真入りで書く日記です。

仲道郁代 レクチャーコンサート「ショパン」

2013年09月08日 | 本・新聞小説

「九州市民大学」のチケット2枚が妹から回ってきました。講師はピアニスト仲道郁代氏、演題は「ショパン その人生と悲しみの旋律をひもといて」です。美しいタイトルが仲道さんの雰囲気とピッタリです。
ショパンというと私はなぜか青色をイメージしてしまいますが、仲道さんのドレスもシルクの陰影が美しい青色でした。
人気を反映してアクロスコンサートホールは2階までびっしりでしたが、運よく指の動きまで見える席をゲットしました。

ポーランド生まれのショパンの生い立ちから始まり、曲の技術的な説明ではピアノを弾きながら、ソフトで、メリハリのあるとてもわかり易い解説でした。
パワーポイントを操作しながら、楽譜、子供時代に書いた父親への手書きのカード、カリカチュア風の絵が映されて、その才能はピアノばかりではなかったことが証明されました。
ポーランド独立蜂起の版画、ジョルジュ・サンドの写真、親友ドラクロワが描いた肖像画も映しだされました。

①ポーランドの民族音楽、②一時期は失われてしまった祖国ポーランドへの思い、③パリでの、貴族や文化人との華やかなサロン生活、というキーワードをなくしては、ショパンの曲は語れないとのことでした。
それぞれのレクチャーごとにそれに合った曲が演奏され、①ではポロネーズ、マズルカ、②では革命、③ではノクターン、ワルツなどが演奏されました。
最初の作曲が7歳。まだ楽譜が書けなかっということで、父親が書いたものだそうですが、その演奏もありみんな溜息でした。
楽譜に隠れている音符のマジックで、メロディに深みと厚みと美しさが出てくるのを、曲の一つ一つに納得しながら聴くことができたのは貴重なことでした。

ショパンの人間像も作品も研究し尽くした仲道さん自身が、ショパンの手紙の朗読された時には、やはりとても胸を打つものがありました。
普通にはないとてもユニークなコンサートで、2時間ばかり音楽校生になったつもりでとても充実感がありました。

Photo数年前に、平野啓一郎『葬送』(全4巻)を読みました。

ショパンのパリのサロン生活の華やかな面と暗い部分、恋人ジョルジュサンドとの生活と別れ、思わしくない体調、親友ドラクロワとの交流、当時の画壇事情、ブルジョワジーの抬頭、2月革命の混乱、イギリスへの逃避・・・を描いたものです。

結構難解で霧がかかったみたいでしたが、今度のレクチャーでその霧が晴れた感じです。それほど、整然とまとめられた解説がわかり易かったということです。
仲道さんは「弾く」能力ばかりでなく、「教える」能力も相当なものであることがわかりました。

表紙の写真は、ピアノの前に座ったショパンの肖像画の一部でドラクロワが描いたものです。その左には腕を組んだジュルジュサンドが立っていたそうですが、今は切り離されて別々になっています。
あれほどショパンに尽くしたジョルジュもショパンを見限って離れて行ってしまいました。サンドとの別れで、絵も同じように切り離されて別々に・・・。

ショパンのスポンサーであった貴族たちも革命のあと離れていき生活は困窮し、胸の病も悪化して39歳で亡くなりました。
若き日にポーランドを出て二度と帰ることはなかった祖国を、ショパンは生涯忘れたことはありませんでした。遺言に従って心臓は祖国ポーランドへ、遺体はパリに埋められています。

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黒田官兵衛に関する本

2013年08月17日 | 本・新聞小説

Img_1694酷暑真っ最中の去る5日、来年の大河ドラマ「軍師 黒田官兵衛」の主人公岡田准一さんが、博多区の官兵衛の墓所、崇福禅寺を訪れました。

そして今日、新たな主要な出演者の発表がありました。織田信長を江口洋介さん、秀吉を竹中直人さんが演じるそうで、なかなか面白くなりそうです。

岡田さんは、もともと歴史好きで、今は官兵衛関連の本を読みあさっているとのことで、どんな本か興味津々。
官兵衛は福岡藩祖。身近な題材だけに、ただ眺めているだけでは・・・と思い、ドラマのことが発表になるや、いろいろな作家の本を読んで官兵衛を立体的に見ようを思いました。


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◆ 葉室麟 『風の軍師 黒田官兵衛   官兵衛はキリシタンでもあり、その動きの背後にはイエズス会があり、インドのゴア、ルネサンス後期のイタリアまでが出てきて世界史的な規模の広がりを見せてくれます。
秀吉のキリシタン弾圧に「太閤謀殺」を目論んだり、キリシタンの自由の国を九州に作るべく挙兵をしたりという、今までにない斬新な官兵衛が書かれています。
資料が残っていないというだけで、もしかしたらこんなのもありかな…と思ってしまうストーリーです。


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戦国時代秀吉のもとにいた「二兵衛」、つまり「竹中半兵衛」と「黒田官兵衛」の名軍師としての生きざまを書いた本です。 
◆ 火坂雅志 『軍師の門 上』   竹中半兵衛の知略で秀吉が信長に認められていく様子、半兵衛と官兵衛の絆、説得に行った荒木村重に官兵衛が幽閉され過酷な地下牢生活を送るところが書かれています        

◆ 火坂雅志 『軍師の門 下  官兵衛の稀代の知略謀略に秀吉は絶大な信頼を置く一方、自分の権力を脅かしかねない官兵衛を次第に遠ざけていくところが書かれています。官兵衛は信義を重んじ、その人柄から敵からも家来からも信頼されます。
官兵衛の幽閉を敵方に寝返ったと勘違いした信長は、子の松寿丸(後の長政 )の打ち首を命じますが、半兵衛の機転でひそかに隠され生かされます。
のちに事実がわかると「官兵衛に対面すべき面目なし」と信長にいわせて、長政は官兵衛のもとに返されるという感動の場面もあります。
竹中半兵衛がいなかったら、黒田藩はなかった・・・ということになります。



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これは前に読んだ事がありますが、地名、人名、人物相関図が複雑です。火坂氏の2冊の本で歴史の流れを確認した後、もう一度この4冊をじっくり読み直しました。
 司馬遼太郎 『播磨灘物語』 (一、二、三、四巻)  やはり司馬氏の小説は重厚感があり、歯切れのいい文体でストーリーも軽快に進みます感想は「以前のブログ」で書いていますが、今回でやっと内容の把握がしっかりできました。



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信長とは対照的な人格の官兵衛が、なぜ冷酷非道な人物像を持つ信長の配下に加わる事に奔走したのか・・・、その部分が気になって読みました。

◆ 辻邦生 『安土往還記』 信長の時代に渡来した外国人船員が、信長との交流の中でみた「大殿」の心と行動を、辻氏特有の美しい文体と表現で描いています。
『いかなる信仰も持たず、狂気のように、この世の道理を純粋にもとめ、自己に課した掟に一貫して忠実であろうとする』信長を肯定した見方で描いています。



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兵衛はキリシタンですが、なぜ惹かれたのか・・・。その原点になる部分が出てこないかと読んでみました。

◆ ピーター・ミルワード 松本たま訳 『ザビエルのみた日本』

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平清盛と聖徳太子のルーツを探って

2013年04月15日 | 本・新聞小説

3月末、テレビ東京系列で「世界遺産“三大迷宮”ミステリー」という、かなりショッキングな、興味津々の番組がありました。

厳島神社から始まる問題提起。厳島神社は水を利用した建物であり、北西向きに建てられており、舞楽「抜頭」はペルシャの踊りであることから謎解きが始まります。
祭神がゾロアスター教からのものだった・・・。そこから平清盛と聖徳太子の関係を探っていくと、聖徳太子のブレーン・秦河勝が登場し、彼らの先祖が同じペルシャ人だというところにたどり着きます。

その根拠になるものを京都、奈良、はては出羽まで足を延ばしつぶさに検証していきます。
★ 厳島神社の高舞台での舞楽「抜頭(ばとう)」はペルシャ人の物語であること。
★ 厳島神社は593年から始まる。
★ 厳島神社の隣にある大願寺は、神仏分離令により、厳島神社から弁財天を持ってきて祭神としている。
★ 推古天皇の飛鳥宮は593年から始まり、聖徳太子は摂政であった。
★ 聖徳太子が活躍した飛鳥の宮は、水の回路をめぐらした水の都であった。
★ 厳島の大願寺と大阪・四天王寺(593年創建 聖徳太子の御霊を慰めるために創建)には、弁財天(ペルシャに起源)、抜頭という共通のキーワードがあり、ペルシャとのつながりがみえてくる。
Photo_2 太秦(うずまさ)にある渡来人、秦氏のゆかりの神社「木嶋坐天照御魂神社(蚕の社)」には三本足の鳥居の中に祀る神がゾロアスター教と合致する。それは水の中に建てられていた。
★ 秦氏は、山城を拠点にして
織物や交易で莫大な富を築く。秦河勝は聖徳太子の有能な側近として歴史にも名を残す。
★ 祇園祭の山鉾の懸装がペルシ絨毯。代表者も、ペルシャ一帯の文化は祭りの思想に大きな影響を与えたと証言。
★ 聖徳太子の母親、穴穂部間人(あなほべのはしひと)の「はしひと」は「ペルシャ人」という意味。
Photo_4出羽三山神社を開山したのは、聖徳太子のいとこ、蜂子王子で、肖像画は顔は真っ黒で、鼻が異様に高く異相の人である。見慣れた聖徳太子の肖像画は、中国・莫高窟の壁画を真似て書かれたものだという。
★ 厳島神社の社殿とペルシャのペルセポリスの宮殿向きは、同じ北西向き。冬至の南東からの日の出は春に向けての復活であり、それを北西から拝する事はとても重要なこと。

以上のことを整理すると、聖徳太子も平清盛も秦河勝も先祖はペルシャ人で、ゾロアスター教の影響を受けているということでした。

平清盛は、先祖をペルシャ人に持つ聖徳太子にあやかるために、水の中に、北西向きに厳島神社を建てたのではないか…というのが番組の結論でした。

いくつかのキーワードが共通だからという理由でこの説を導くのは、かなり危険を伴いますが、見ている方はなぜかわくわくしてしまうのです。

  

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ここ
に出てきた「秦河勝」で思い出したのが、司馬遼太郎の短編小説です。たしか秦一族の先祖は大陸から渡来した集団で、帰化人として日本歴史上に重要な役割を果たし名を残した・・・だったような。

Img_1811_2急に、もう一度読んでみたい!秦氏の先祖を確認したい!という欲求がわきてきました。
しかし、その文庫本はもう処分してしまっていて、本のタイトルすら忘れてしまいました。


そこで、検索、検索、検索して探しだしたのが『 兜率天の巡礼 』という短編のタイトルです。
それは「
ペルシャの幻術師」(文春文庫)に収められていることがわかりました。ラッキー!

すぐにパソコンで購入手続き。なんとリユースで48円で出品されているのです。プラス
送料250円で、数日後に手にすることができました。帯までついていて、大切に本を扱っていた前のオーナーの人柄がしのばれます。

 

 *-∞-*-∞   司馬遼太郎 『 兜率天の巡礼 』  ∞-*-∞-*

うだつの上がらない主人公の大学教授は、ある日、長く病床にあった愛妻を失くしてしまいます。従順なその妻が亡くなる数日前に突然に発狂した事からこの物語が始まります。

ある講演会がもとで大学を追われた主人公は、妻のすざましいまでの発狂の原因をさぐるべく、そのルーツを求めて調査を始めると、意外なことが次々にわかってきたのでした。

妻の本家の当主から、「自分たち
秦氏の祖先は、千数百年前にコンスタンチノープルを追われた景教徒のユダヤ人ではなかったか」という衝撃的な話を聞きます。
秦氏がはるばる日本にやってきた経緯と古代キリスト教の一派の景教の東遷について知るべく、異常な執念を持って文献を読みあさるうちに、時空を超えて5世紀のコンスタンチノープルに飛び、教授はネストリウスになり替わります。

5世紀、東ローマ帝国のコンスタンチノープルで宗教会議で敗れたネストリウス派は、キリスト教界から永久に追放されます。コンスタンチノープル、ペルシャ、インドと、遠く東へ流亡の旅に出て再び故郷に戻ることは許されませんでした。

東へ東へと逃げ延びながら、
200年かかってにたどりついたのが7世紀の中ごろ。時の太宗に滞在を許され、キリスト教を「景教」と称し、そこに「大秦寺」を建立するに至ります。( この寺を詠んだ漢詩も残っており、史実であることを証明しています)
しかし9世紀の中ごろ、武宗が過酷で大規模な廃仏毀釈を行なった際に、大秦寺も巻き込まれた形で寺院は破壊され、景教徒たちは永久に歴史の文献から姿を消すことになります。
残されたネストリウス派の人々はまたしても「孤絶の天涯」をさまようことになります。

これとは別に、
景教徒の日本渡来は唐よりもはるかに古く、コンスタンチノープルを東へ逃れ、ペルシャを経て、インドへ入り、インド東岸を離れて中国沿岸地帯をつたいつつ赤穂の比奈の浦に流亡してきたのが秦氏の先祖になっています。
彼らは、秦姓
名乗り、そこに大闢( だいびゃく )神社を建て、境内にイスラエルの井戸「いすらい井戸」を掘ります。「大闢」はダビデの漢語訳で、後には大避神社とよばれるようになります。ちなみに大秦国とは中国表記のローマ帝国のこと。

『日本書紀』には、秦氏の先祖は秦の始皇帝の末裔 功満王の子 弓月ノ君が、山東120県の民を率いて日本に帰化したと明記されていますが、秦氏末裔の当主は、英のゴルドン女史の立てた説によりユダヤ人説を信じています。
秦姓は、「大(ローマ帝国)」の秦であり、
の始皇帝の末裔ではないということです。

秦一族の先祖、普洞王は河内からたけのうち峠を越えてやがて大和に達し、飛鳥のおおきみ(天皇)を訪ねます。これまでの流浪の地と違って平和で穏やかな風土の大和を気に入り、女性を娶りその子孫にあたるのが
秦川勝ということになっています。ようやく信ずべき形で世に現れたのが6世紀のこと。コンスタンチノープルを追放されてから100年を経ていました。

秦一族は拠点を播磨から京都・太秦に移し、養蚕の技術を使って織物で財をなし、川勝は聖徳太子を強力にバックアップし、歴史にもそのに名を残すほどになります。
秦氏が京都太秦に建立した
大闢の社(大酒神社)に、三本足の鳥居ややすらい井戸」にユダヤ人の痕跡を残しています。河勝が建立した広隆寺は、聖徳太子の別墅として献上されました。

旅の最後に、教授が「
兜率天の曼荼羅」の壁画を求めてたどり着いたのが、嵯峨野の上品蓮台院弥勒菩薩堂。秦一族の何者かが建てたという弥勒堂に、その壁画がありました。
薄暗い堂の中で、ろうそくの明かりを頼りに剥げ落ちたしみだらけの壁画の中に妻に似た顔を発見し、自分も壁画の中に入ろうとするような錯乱状態の中で意識を失います。そしてろうそくの火が燃え移り堂は炎上してしまいます。それは昭和22年8月31日。焼け跡から一体の焼死体が発見されたというところで、この物語は終わります。



『 日本の景教の衰微の原因は穏やかで豊饒で美しい山河の日本の風土にある。インドでもシリアでも、肌骨を刺す自然の中にこそすぐれた神は生まれる。自然が人間の肉体をいじめないところに神は育たない。
大和には、個性の弱い、温和な、妥協性に富んだ生活の神々がいて、微笑をもって彼らを迎え入れたため、やがて景教徒はユダヤの神を祀ることを忘れさせた。
100年を経たずして唯一神エホバの神は、日本の神々と同格になり、それぞれ名を変えて各地の神社に素性も知られずに祀られることになった 』
というのを景教消滅の経緯としています。

テレビでは聖徳太子の祖先もペルシャ人ということになっていますが、この小説では、秦氏との関係は『仏陀の徒であった摂政の太子は秦氏が異教の神をいだいていることを暗に知りつつも陽に口を緘していたようであった。秦氏の感謝はかくて政治資金に現れるのである。それにもまして、秦の長者川勝は、この魅力ある怜悧な青年と語れる快感をできるだけ多く持ちたかったのも本心であろう』 としています。

テレビでは秦氏の先祖はゾロアスター教、この本では景教。共通しているのは、「ペルシャから来た」「ペルシャを経由してきた」ということです。まだまだ謎の部分があるところに興味が尽きません。


史実と想像と幻想を隙がないほどがっしりと組み合わせて、読者を引き込んでしまう巧みさに司馬氏の作品の魅力があります。


最近では聖徳太子はいなかったとか、藤原氏の時代に記録を抹殺されたとかいろいろな説もありますが、まだ十分な記録が残っていない古代には、そこはかとないロマンをかきたてる余白の部分がたくさんあり、作家の数だけロマンあふれる小説ができそうです。
それに、日本人のルーツは?自分がどこからきてどこへ行くのか?と、やはり自分の足元は気になるものです。

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コンクラーベから

2013年03月26日 | 本・新聞小説

クリスチャンでない私も、新聞に「コンクラーベ」の文字を見つけると、やはり関心がわきました。
コンクラーベはローマ法王選出の秘密会議のことで、一定の得票数が得られるまで何回もやり直すのです。決定に至らない時は黒い煙、決定すれば白い煙が煙突から流れるようになっています。テレビニュースでこの黒い煙を見て、本に書いてあった通りのやり方に妙に納得したものです。


Photo_2

それというのも、ひと月ほど前に読んだ塩野七生『 神の代理人 』が、まさにコンクラーベから始まるからです。


「神の代理人」とはカトリック世界の頂点に立つローマ法王のことです。ここではルネサンス時代に、人間性をむき出しにした4人のローマ法王の実像が生き生きと描かれています。

タイトルからすれば、キリスト教の教理の哲学的な難しい事が書いてあるのでは・・・と思いがちですが、まったく違います。

『過度の禁欲は、しばしば狂信の温床となる』という言葉から書き始められているように、法王が自分の欲することをすべて正義と信じ、自らがそれを実現させなければならないと心を燃やすところから、この人間ドラマは始まります。

神の代理人というより、法王国家の元首として政治的に動き回り、各国と駆け引きをし、競争相手を蹴散らし、法王の領土を増やしていこうとする人間臭い法王の実像が描かれています。同時にルネサンス当時のフランス、スペイン、ベネツィア、フィレンツェ、ドイツ、トルコの歴史もよくわかります。

もちろん実際の法王庁では神聖な部分がほとんどだと思いますが、塩野さんは別の観点から見た法王の人間ドラマを描いているので、同じ人間としてわかり易く、非常に愉しく読めます。

「参考にした資料」として掲載された9ページにわたる西欧の文献が、ただの小説でなく歴史ロマン小説であることを物語っています。

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辻 邦生著 『春の戴冠』

2013年01月11日 | 本・新聞小説

Img_1197このところ、ひょんなきっかけで辻邦生氏の本を読み続けています。うんざりするほど長い本ばかりですが、深い感銘と感動と細やかな文体から受けるしみじみとした共感から逃れられないでいます。

舞台が日本であれ、西欧であれ、膨大な資料をよく研究されているようで、時代背景や当時の生活の描写が緻密で、すんなりとイメージできる所が親しみを覚えます。

『背教者ユリアヌス』の次は何を・・・と思っているときに、ちょうどcannellaさんのお薦めがありました。『春の戴冠』です。
これがまた1800ページもありますが、時代はルネサンス、あのボッティチェルリを中心に彼を取り巻く歴史的にも豪華な人物像を浮かび上がらせながら、花のフィレンツェの喜びと苦悩が克明に描き出されています。

時はフィレンツェの15世紀半ば。メディチ家は13世紀に台頭し銀行家として財を蓄えながら、14世紀には銀行業は急成長し、コジモは15世紀前半に強大なメディチ家の基礎を築きます。建築、彫刻、絵画を通じてフィレンツェの街づくりに力を注ぎ、老練な政治家としても辣腕をふるいます。プラトンアカデミーを設立しルネサンスの繁栄へと導き、「祖国の父」と呼ばれます。

その後、孫のロレンツォは15世紀後半のフィレンツェに君臨し、父祖の文化の奨励を受けつぎ拡大させ、周りの都市国家とも安定した関係を結びながら、平和なフィレンツェを30年も維持します。一流の学者や芸術家が集まる宮廷を作り上げ、「豪華王」と呼ばれます。

15世紀の半ばに生まれ、フィレンツェ繁栄の申し子として活躍するボッティチェルリは、当然生まれるべくして生まれた『 春 』、 『 ヴィーナスの誕生 』を描きます。その裏にはフィレンツェ随一の「美しきシモネッタ」の存在と、時代を超えても変わらないで続く「不変の形」を描くことに、苦悩しながら挑戦する画家の深い思いがあります。

なんと、ボッティチェルリがそのシモネッタを描いたものが日本にあるのです。丸紅が所蔵する『美しきシモネッタの肖像』です。その後のボッティチェルリの描く絵の中には、彼女の死後もなお、その美しさをずっと引き継いで行きます。

フィオレンツァ随一の美女と言われる彼女は、一度はマルコ・ヴェスプッチ( 航海者アメリゴ・ヴェスプッチの従弟)と結婚しますが、そのあと離婚しています。
そして、馬上槍試合で美の女王として選ばれ、その時の優勝者ジュリア―ノ( 豪華王ロレンツォの弟)と彼女は恋仲になります。
プラトン・アカデミーの常連、詩人アンジェロ・ポリツィアーノは甘美な花の香りのような二人の恋を歌い上げます。
ボッティチェルリも、この本の進行を務める「私」も、プラトンアカデミーの人たちも、このカップルに敬意を表し、好意的に交流を図ります。

シモネッタは結核で、ほどなくジュリア―ノも反メディチのパッツィ家の陰謀により暗殺され、二人とも若くして世を去ります。そして、これが花の都フィレンツェにひとつの陰りを落とす出来事になります。

ロレンツォの死後、息子ピエロの凡庸さとフランスの侵入にフィレンツェは危機に陥り、市民は怒り狂いピエロを街から追い出します。

こうした爛熟の後の危機に、必然的に表れたのが修道僧サヴォナローラです。彼の実直とも言える説教は、市民の間にはびこる退廃的な雰囲気にマッチしたかのごとく市民の心をつかみます。
サヴォナローラ(本書ではジロラモ)は、華やかな文化とメディチ家に断罪の目を向け、市中の多くの美術品や貴重な本をかき集めて広場に積み上げ、虚飾の焼却を行います。
ボッティチェルリも彼に大きく影響を受け、それまでの古典的な美しさと調和を保つ絵とはうって変わった、精神性があらわに見える固い表現に変わっていきます。( この変化を時系列的に、画集の絵を見ていくとはっきりそれがわかります)

イタリア全土を巻き込んで発展するルネサンス思想の中で、フィレンツェだけがこうした禁欲的な厳しい教えの中にある状態が長く続くはずはありません。
サヴォナローラはローマ教皇をも攻撃し、教皇からは破門されます。市民の間からも反動が起こり、人々はメディチ家の自由な暮らしを懐かしみ、フランス寄りだったサヴォナローラに憎しみを抱き始めます。
まだ力を残していた市議会のメンバーと教皇とが手を組んでサヴォナローラの失脚を謀り、彼がかつて芸術品を焼いたその広場で火刑に処されます。20年ほどでサヴォナローラの暗黒の時代は幕を閉じました。

ボッティチェルリの最後の絵( 多分『神秘の降誕』のことだと思いますが)で、『 ( 人間の運命をフィオレンツィアの形で表す)フィオレンツィアが、ただ十字架を抱いて心から痛悔する時だけに( 自分の一切の虚偽、不正、冷酷を告発する時にのみ)初めて人間の心の美にかなうようになる』としています。
『絵の美しさも、人間が願わしい理想を実現できず、それに無関心なら、何の意味もない』というボッティチェルリの心は、サヴォナローラに傾倒していった彼の絵の変化でした。

レオナルドやラファエロ等は、フィオレンツィアを出て新しい地で芸術の才能を伸ばしていきます。しかし、ボッティチェルリは最終的にはフィレンツェから離れることはできず、新しい手法を学ぶこともしませんでした。時代遅れの手法として、いつしかフィオレンツィアの人からも忘れさられていきました。

この本に出てくる数々の絵を画集で対比しながら読んでいくと、確かに絵の技法も表現も変わっていくのがわかります。個人的にも、『 春 』、『 ヴィーナスの誕生 』が最も美しく穏やかな調和を保っていると思います。

ここに登場する人たちをイメージするために、いくつかの冊子から取り込んでみました。

左の写真・・・コジモ
右の写真・・・黒いマントの横顔の男がジュリアーノ 
         右の茶色のマントの男がボッティチェルリ
( 『 東方三博士の礼拝 』 の部分より ) 

Img_1192_2Img_1195

下の写真左・・・サヴォナローラ ( 厳しい神聖政治を行い芸術の思想を大きく変貌させる)
下の写真右・・・左から フィチーノ ( ロレンツォと交流しながら新プラトン主義を説く)
ポリツィアーノ ( ロレンツォの友人で詩人、彼の詩からヒントを得てシモネッタの肖像を描く)
ピコ・デラ・ミランドラ ( 眉目秀麗な哲学者、のちにサヴォナローラに傾倒)

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この本は、ボッテチェルリの友人で古典学者のフェデリゴが、「私」という形で話を進めていきますが、あまりに多くのことが書かれていてとても書き表すことはできません。

一度目の旅では娘と、二度目は夫と、当時から残る黒い石畳のフィレンツェを歩き回ったことを思い出しながら、フィレンツェという花の都に起きた運命的な出来事を、少しは身近に感じながら読むことができました。

∞-*-∞-*-∞-*-∞-*  ついでに      ∞-*-∞-*-∞-*-∞-*-∞-*-∞-*-∞-*-∞-*-∞

ボッティチェルリが工房で修業をしているときに、7歳年下の若きレオナルドも登場します。
レオナルドは、親方が10種類の絵の具の作り方を教えると、即座に自分で20種類の絵の具を調合できる才能を持っていることが書かれていました。ほかの画家には見い出せない、あの深い抑えた色調は、その稀なる天才の腕から紡ぎだされたものなのです。
ダ・ヴィンチのウフィッツイ美術館の『受胎告知』や、アルテピナコテークの『聖母子』の奥ゆかしく、存在感のある色彩を見ると、ボッティチェリの『受胎告知』も物足りなく感じます。

もう一つ印象的だったこと。『ヴィーナスの誕生』の描き方で悩みぬいて考え出した手法のことです。
まず、板に布を膠で貼り付け、そこに絵を描き、色を塗る段階でヴィーナスの裸体の下地に金箔を塗りこめ、そのあとに肌色を塗ることです。もし板絵だったら、金箔が浮いて上塗りの肌色をはじき飛ばすし、逆に単なる画布なら上塗りの肌色が強くなって、下塗りの金箔の効果がでません。このボッティチェルリが考え出した手法、板と布を一つにして初めて効果が得られるということが、なぜかとても心に残りました。

読み終わったのが大晦日の真夜中の3時。元旦の日の出までに読み終わろうという意図は全くなかったのですが、ついつい面白くてちょうど区切りよく読み終えることができました。

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石光真人 『ある明治人の記録』 会津人柴五郎の遺書

2013年01月08日 | 本・新聞小説

今年の大河ドラマは会津が舞台の「八重の桜」。何かそれに関する本を、と思っていた時に、tocoさんのブログで『放送が始まる前に予習のつもりで・・・』というおすすめの記事が目に留まりこの本を知りました。

Photo_2(カバーについている説明書きから)
『明治維新に際し、一方的に朝敵の汚名を着せられた会津藩は、降伏後下北の辺地に移封され、藩士は寒さと飢えの生活を強いられた。明治三十三年の北清事変で、その沈着な行動により世界の賞賛を得た柴五郎は、会津藩士の子であり、会津落城の際に自刃した祖母、母、姉妹を偲びながら、維新の裏面史ともいうべき、惨苦の少年時代の思い出を遺した。』 

この本は、柴五郎翁が八十歳を過ぎて書いた追想の記録を、石光真人氏が整理編集したものです。柴五郎がかかわった人々やその時代の知らされなかった部分を、きちんと後世に残す仕事をした石光氏の功績も大きいと思います。

幼年期から明治10年の西南戦争で西郷隆盛が自刃し、翌11年大久保利通が暗殺されるまでが書かれています。
『会津を血祭りにあげたる元凶なれば、今日いかに国家の柱石なりといえども許すこと能わず、結局自らの専横、暴走の結果なりとして一片の同情も湧かず、両雄非業の最期を遂げたるを当然の帰結なりと断じて喜べリ』 そして『これらの感慨はすべて青少年の純なる心情の発露にして、今もなお咎むる気なし』と薩長への憎悪が深かったことを書いています。


いつの世にも新しい政権が登場すると、その威信を守り権力を誇示し正当化するために、記録の抹殺や誇張、装飾がなされます。維新前後の会津藩の記録もそうだったのです。

会津藩丸ごとの流罪に等しい北辺への移封。史上でも珍しい過酷な戦後処理を具体的に知ったのは初めてでした。読むほどに衝撃を受け、決して目をそらしてはいけない歴史の真実に触れ、襟を正して一気に読めました。

中公新書で160ページほどの薄めの本ですが、1971年初版、2012年53版の出版を重ねていることも素晴らしい本であることを証明しています。

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 柴五郎氏略歴 (本書よりの抜粋)

安政6年 (1859) 1歳  会津若松に生まる
明治元年(1868)10歳 会津若松城落城
   2年 (1869)11歳 俘虜となり東京に護送さる。年末脱走流浪。下僕生活。 
   3年 (1870)12歳 下北半島斗南に移封。野辺地、田名部に住む。
   4年 (1871)13歳 青森県庁給仕。
   5年 (1872)14歳 東京に再び流浪。下僕生活。
   6年 (1873)15歳 陸軍幼年学校。
   10年 (1877)19歳 陸軍士官学校。
   12年 (1879)21歳 陸軍砲兵少尉。
   22年 (1889)31歳 清国福州にて特別任務に就く。
   27年 (1894)36歳 大本営陸軍部参謀。
   33年 (1900)42歳 北京駐在武官。義和団事件にて北京籠城。
   37年 (1904)46歳 砲兵連隊長。
   40年(1907)49歳 陸軍少尉、重砲兵旅団長、要塞司令官、大十二師団長、東京衛戍総督
大正 8年 (1919)61歳 陸軍大将、台湾軍司令官、軍事参議官。
   12年 (1923)65歳 予備役被仰付。
昭和20年(1645)87歳 十二月十三日没。
 

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'14年大河は 『黒田官兵衛』 に決定

2012年10月12日 | 本・新聞小説

 朝刊に嬉しいニュースが出ました。NHKの2014年放送の大河ドラマが、戦国時代に活躍した武将・黒田官兵衛に決まったそうです。主演は岡田准一さん。兵庫県、大分県、福岡県が舞台になるらしく、播磨灘物語再来年のことですがわくわく!
 岡田准一さんの演技も優れていると思います。何かのドラマでの演技が非常に印象的でした。何よりも、主演者が歴史が好きで、歴史の先生になりたかったというところがまたいいですね~!郷土愛から、福岡が全国的に有名になる事を願っています。放送は決定しているので、あとは安心して待つのみ。
 以前、福岡に住んでいながら福岡のことは何も知らない・・・と、手にした本が官兵衛の生涯を描いた司馬遼太郎 『播磨灘物語』 でした。その官兵衛がドラマになるとはなんとラッキー!
 放送前にはもう一度読み直したいと思っています。全4巻というとちょっと引きそうですが、講談社文庫は字も大きくてとても読みやすいのです。

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 福岡城を築いた黒田長政の父親が黒田官兵衛です。関ヶ原で、長政は如水(官兵衛)の命で豊臣家の諸武将を徳川方に組織づけ、家康に大きく貢献します。その功績で長政は家康から筑前52万石を封じられます。
 印象的なのは、長政が関ヶ原から凱旋して、中津の小さな城に如水を訪ね戦功を報告したときのことです。長政は小早川秀秋を裏切らせて戦況を一変させ、その時家康は長政の手を取り3度まで押し頂いたというのです。
 しかし如水は苦い表情で、『家康が執ったというそちの手は、左手であったか、右手であったか』と反問します。
「右手でございました」
「すると、そちの左手は何をしていたのか」
 如水(官兵衛)は関ヶ原の戦いが一年はかかるとみて、その間に九州四国を引っ提げて京に攻め上り、天下を取ることを夢見ていたようです。だから家康を除くその機を逃したことを問い詰めたのです。
 家康は如水にも封地を与え官位を進めようとしたらしいのですが、願うところは引退のみと事実引退してしまいます。
 中途半端な欲だったのか、天下を取るか引退かの二者択一だっのか、そんな官兵衛がおかしみをもって描かれています。
 商業的思想を持つ家系の始まりから、信長に傾倒し、秀吉に才能を認められて濃密な関係を結び、周囲に一目を置かれるまでに躍進する武将の特異な生涯が描かれて、楽しく読むことができました。
 この本がきっかけで、もう少し黒田のことが知りたいと思い立ち、現在は黒田古文書を読む会に参加しています。

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『背教者ユリアヌス』 辻邦生

2012年08月31日 | 本・新聞小説

 もし辻邦生著『西行花伝』『嵯峨野名月記』を読んでいなかったら、まずは手に取ることはなかったであろう本がこの『背教者ユリアヌス』です。3巻からなる長編歴史小説を前にするとため息が出ましたが、読み始めると4世紀前半のローマ帝国を舞台にした壮大な叙事詩にすっかり心を奪われてしまいました。

 ストーリーの運び方はわかり易いし、細やかな美しい表現はその場面をカラーでイメージできる楽しみを与えてくれます。極力抒情を配した表現には、じっとりとした湿度の重苦しさが感じられません。思いもかけず短期間で読み終わりました。

 小説の舞台もヨーロッパからユーフラテスまでと広く、実在、架空も含めて登場人物が多く名前も似ているので地図とメモなしには読めません。

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 西暦337年にコンスタンティヌス大帝が病死した後、息子のコンスタンティウス帝は自分の権力を脅かすことになる叔父、従弟を含めて大部分の親族を粛清します。そんな時にかろうじて死を免れたのが、従弟のガルス12歳、ユリアヌス6歳の兄弟です。権力欲に目覚めたトップは、親、子、兄弟ばかりでなく叔父、従弟までもいとも簡単に謀殺してしまうのは、日本史でも然りです。

 二人の存在におびえたコンスタンティウス帝の命令で幽閉状態の少年期を送りますが、山野を駆け巡り狩猟に明け暮れる兄と違って、ユリアヌスは哲学や古代ローマ・ギリシャの信仰への礼賛へと心を向け、ここでユリアヌスの人格が形成されていきます。さらに二人は十代の最も多感な時期を、奥地の過酷な環境のマケルスの古城で育つことになりました。

 大帝コンスタンティヌスと息子のコンスタンティウス帝がキリスト教優遇の路線を引きましたが、ユリアヌスはそこにいつも違和感を覚えていました。表面上はキリスト教の教えを受けていますが、古代ローマ、ギリシャの信仰に帰ることこそがローマ帝国の繁栄につながるものだと強く信じていました。

 コンスタンティウス帝は直系に恵まれなかったので、仕方なく都に呼び戻したのが生き残っている従弟の26歳ガルス。不遇だったガルスにもやっと光が差し初め東部ローマを統治する「副帝」に任じられます。しかし、ガルスの抑制のきかない性格と皇帝の持ち前の猜疑心と悪名高い宦官の権謀術数により、皇帝殺害を謀ったかどで処刑されてしまいます。二十九歳でした。

 ユリアヌスは従弟コンスタンティウス帝の逆鱗に触れないようにひたすら哲学の道を究め権力には無関心をを装いますが、ガルス亡き後に唯一の親族として皇帝に呼び戻され、これもまた「副帝」を命じられてガリアを統治することになります。

 そんな時にコンスタンティウス帝は、ペルシャ戦線に参加すべく、ガリアのユリアヌスの軍団の東部への移動命令を出します。ガリアの地で安定していた軍団はそれを強硬に拒否し、ついには心を寄せていたユリアヌスを「皇帝」に擁立し、ユリアヌスはこれを受託します。謀反者となったユリアヌスはコンスタンティウス帝と戦うことになりますが、進軍の途上で皇帝が急病死し、その皇帝の遺言通りに「ユリアヌス帝」が誕生したのです。361年の終わりです。

 このころキリスト教会は特権を得て世俗化しており、教理を巡って内部抗争が頻発していました。ユリアヌス新皇帝はまずギリシャ、ローマ伝統の宗教を復活させることに力を注ぎ神殿を再建ます。ミトラス神へのいけにえの儀式を民衆の生活に破たんがくるほど強引に推し進めます。

 ユリアヌスは正面からキリスト教を禁じたわけではありませんが、キリスト教聖職者階級の特権や財産をはく奪し宗教活動をにぶらせます。二代続いた親キリスト教の皇帝一族が反キリスト教的な政策を行ったということで「背教者」と呼ばれる所以があるのです。さらにアンティオキア滞在時代に、中小市民層の皇帝に対する反感と侮蔑を広げていきます。

 363年3月ペルシャ遠征のために東方ユーフラテスに赴き首都の近くまで迫りますが、作戦がうまくいかず退却の途中でペルシャ軍の攻撃を受けて戦死してしまいます。363年6月、31歳7か月の人生でした。

 哲人皇帝アウグストゥスを仰ぎ、自分もそれを目指したのですが、古代回帰の独りよがりの考えが人間的にも政策的にも破たんをきたしていました。長い間ユリアヌスを心からサポートしてきた優秀な側近たち、哲学者の友人たちたちもユリアヌスの弱点・欠点を冷静にわきまえていたところが、なんとも哀しい終わり方でした。

 この全3巻では、皇帝になるまでの幼年、青年ユリアヌスは非常に魅力的な人間味のある人物として描かれています。皇帝になり権力を持った後、強い宗教心と哲学心が人格の変容をきたしたかの如く変貌していったところが、短命の皇帝で終わらざるを得なかったのでしょう。

 変貌というより、プラトンを愛したユリアヌスは、高い精神を目指し理想を実現させるために、自分の心に忠実に生きたといった方がいいのかもしれません。皇帝の期間は1年9か月でした。

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辻 邦生 『 西行花伝 』

2012年05月27日 | 本・新聞小説

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 『 願はくば 花のしたにて 春死なん そのきさらぎの 望月の頃 (西行) 』と詠んだ西行は、まさに旧暦2月の満月の白く光る夜、花盛りの桜のもとで73年の生涯を終えました。その西行を偲んだ歌が藤原俊成の『 願ひおしきし 花のしたにて をはりけり 蓮(はちす)の上も たがはざるらん 』、そして末尾の一句が桜を愛した西行の『 仏には 桜の花を たてまつれ わが後の世を 人とぶらはば 』で閉められています。

 700ページにわたる『西行花伝』の最終章の終わり方が見事でした。送迎バスを待ちながら霊園の休憩所で読み終えた時、余韻に浸りながらガラス窓に目をやると燃え立つ若葉が生命を謳歌していました。泉水の静かな流れと音が演出でもしたかのような最終章にふさわしい終わり方でした。

 NHK「平清盛」では、容姿端麗だったという西行役を藤木直人が演じています。先に「顔写真」が決定してしまい、本を読む際にも最初から強引に「藤木西行」が出てきてきたことは、幸なのか不幸なのかはわかりませんが。

 朝廷、公家の紛らわしい姓名、摂関家、台頭してきた武家、位階など複雑この上ないので、人物相関図をメモし、ページをシールでマークしながら読み進みました。

本著は、西行(佐藤義清)の幼いころから73歳の晩年までを、弟子の藤原秋実が聞き語りの形式でまとめ、西行の人間像を浮かび上がらせて行くという手法を取っています。西行に関係のあった人たちとの交流から生まれているものだけに、見る角度がたくさんあってストーリーの運び方が丁寧でした。

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 義清(西行)は紀ノ国田仲荘で領主の子として裕福に育ちます。しかし律令制の国衙と相容れない荘園制度に、私領は矛盾を抱えてトラブルが多くなっていくのを目にしながら成長します。

 8歳で父を失いますが、田仲荘を徳大寺家の本所(名目上の領土保持者)にしたことから京に出て出仕。亡くなった母が義清が宮廷内できちんとした職を得るための支度として絹2000匹を用意していました。そのおかげで18歳で兵衛尉につき、弓馬や蹴鞠の鮮やかな技量で認められ、北面詰所で鳥羽院の近臣になるという輝かしい昇進をし、公家の歌の集いにも顔を出しそこで歌の道を磨いていきます。

 ある日余興の流鏑馬の鮮やかさから待賢門院(鳥羽院中宮)から特別の褒賞を受けたことが、その後の西行と待賢門院との相愛と苦悩、歌の精進へとつながっていきます。

 西行は待賢門院を才女というよりは「凡庸で薄紅色の靄のようなものが立ち込めた、たまらなくいとおしくかわいい人」とみています。一夜限りの愛を交わした西行は月にも花にも女院の姿を感じ、女院へのもどかしい思いを幾つもの歌にし秘められた恋に苦しみます。

 西行と友人の清盛が論争する場面があります。ここに清盛ばかりでなく父の忠盛もどうしても手に入れたい「公家ブランド」の獲得への強い執念が見られます。「この世で事を成すには二つの力」が必要で「武力と権能」。権能は見えない働きで、畏怖させる力、例えば摂関家のような家柄、門閥、身分、位階・・・。武力をもっている平家が、もう一つの権能を手に入れてここそ世の中を変えていけるという考えです。

 そのころ最大の理解者で従弟の佐藤憲康の死に合い、世のはかなさに打ちのめされますが、浮世のすべての定かならぬものを超えて、それをしっかり支えるのは歌であることに気づきます。そしてこの世の森羅万象を愛するために、この世を美しく生きるために現世を捨て浮世から離れてこそ、その良さがみえてくる事に思い至り出家のことを考えるようになりました。現世にとどまると現世のしがらみにとらわれ、現世の良さが見えてこないというものでしょうか。然し出家しても心の迷いや弱さに苦しみました。『 身を捨つる 人はまことに 捨つるかは 捨てぬ人こそ 捨つるなりけれ(西行) 』

 保元の乱に関しては、かなり詳しく書いてあります。西行は待賢門院の子である崇徳上皇とは歌を通じて親しく交わっていました。策略により近衛帝に位を譲らされた崇徳上皇が歌の道で生きようとしていたところに、突然の近衛帝の死。それは崇徳上皇に、天皇家の正統なる継承者である子の重任親王に天皇の位を継がせたいという欲望をわかせました。が、思いもかけない後白河天皇が誕生したことが、朝廷と摂関家と武士を巻き込み、天皇派と上皇派に分かれて争う大きな渦となっていきます。西行は、崇徳院が左大臣・頼長らの策謀に巻き込まれないで歌で生きていって欲しいと奔走しますが、それもむなしく結局はあっという間に後白河帝方の勝利に終わりました。上皇方の頼長は流れ矢に当たり命を落とします。この時の処罰で采配をふるったのが、後白河帝を押して頭角を現してきた信西(藤原通憲)です。崇徳上皇を四国讃岐に配流し、近臣側近には拷問ののち死罪を言い渡して、冷酷な信西の存在と名を世に知らしめました。

 また信西(藤原通憲)が下した残忍な処罰で、義朝に父・為義と弟たちを斬らせ、清盛に叔父・忠正と従弟たちを斬らせ世の中をふるいあがらせました。それは台頭してくる武士の力を武士自身の手で減殺するという考えがあったようです。信西の妻が後白河帝の乳母でもあることから宮廷内で急速に力を延ばしていきますが、後になるとその目に余るやり方に後白河帝も反発を覚えるようになっていきます。

 一方、保元の乱を未然に防ぐために崇徳上皇を説得しようと奔走した西行でしたが、無残な結果に終わり深い哀しみの中に沈みます。そのことで心神喪失の状態になったところを高野山に連れて行かれ、日月をかけた荒行で回復していきます。真の意味の出家とは、「我という家を出、我執という家居を脱却」して森羅万象の良さに住みなし、心を同調させることだと思い至り、さらに強い意志を持ち京に戻ってきます。

 西行は50歳の時に崇徳院の配流された讃岐に旅します。京に出没する怨霊に心を痛め、崇徳院は不運を他人の所為にせず、一切の苦難をかき抱いて森羅万象の中に同調していってほしいと鎮魂の歌を捧げます。

 世の中は大きく変わり、源平の乱が始まり平家の都落ちがあります。諸国は武士の合戦で人馬が殺傷され、その荒廃に激しい憤りを感じて『 死出の山 越ゆる絶え間は あらじかし なくなる人の 数つづきつつ(西行) 』と詠んでいます。

 出家した西行は人知れず庵を結んで歌い続けたのではなく、現実の世の中にもしっかりと目を向けていました。重源に頼まれて東大寺大仏殿再建のための砂金調達に、再び老骨に鞭打って陸奥の藤原秀郷のもとに向かい役割を成し遂げます。それは自分の利や昇進を抜きにした世の中のためにというものでした。

 この旅の途中で偶然に源頼朝に出会います。頼朝の鋭いまなざしは勝利、成功しか見ない心なき心だが、心が生命である限り必ず森羅万象の持つ愛しさ、哀れの思いに戻ってくると、頼朝の人格の中に確信をします。

 西行は、この現世に「頼朝ほどの器量の人は他には見いだせない・・・頼朝は私が生涯に見ることができたもっともすぐれた人物の一人であった」と深く感じました。『 心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫立つ沢の 秋の夕暮(西行) 』の歌を、この場面に持ってきた辻氏の構成のうまさが表れています。

 この本は西行を中心に政治、朝廷、歌の世界、仏教思想、恋が書かれていますが、哲学的なところがよく把握、理解できないままでいます。しかし歴史小説とみると、その密度の濃さに引きづりこまれてしまいました。

 700ページの中から、西行の心の奥の葛藤というよりはエピソード的なものを抜き出しました。NHK「平清盛」と連動する部分です。今日5月27日の放映は『保元の乱』。先週の最後の場面に高野山から降りてきた西行の後ろ姿が見えました。今日は如何に・・・。

 分厚い本からはとても辻氏の思いを書ききることはできませんが、この本に巡り合えたことはラッキーでした。ブログ仲間の記事に見つけた『西行花伝』、きっかけを作ってくださったtocoさんに感謝しています。

解説の中に、辻氏の双璧をなすのがこの『西行花伝』と『背教者ユリアヌス』だとあります。さっそく注文して文庫本3冊が届きました。やっぱり長~い・・・。

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BSプレミアム『陽だまりの樹』 と 適塾

2012年05月08日 | 本・新聞小説

 NHK BSプレミアム,土曜(18:45~19:30)で放映中の「陽だまりの樹 」は、激動の幕末を背景にした医師と武士の二人の若者が主人公です。二人の若者の生き方を縦軸に、両者を絡ませながら当時の漢医と蘭医の対立、蘭学、幕末の思想、米国使節団、二人の恋を横軸にして軽快なタッチでストーリーを展開させていくドラマです。

 ドラマはあと7回も続きます。良庵 ― 成宮寛貴、万二郎 ― 市原隼人、良庵の父 ―笹野高史、藤田東湖 ― 津川雅彦 などのキャストが十分にその役割を果たして、テンポよくわかり易く退屈しないドラマです。

 この『陽だまりの樹』は手塚治虫原作で、主人公の一人手塚良庵は手塚治虫の曽祖父に当たる実在した人で、蘭学の立場から種痘所の設立に奔走し維新後も新政府で活躍します。

 もう一人の主人公・伊武谷万二郎は藤田東湖の教えに感銘を受けひたむきに幕府を守ろうと忠誠を尽くします。そんな二人をつなぐ友情と恋。軽妙な会話とストーリーで肩の凝らない痛快歴史ドラマというところです。幕府の要人、緒方洪庵、福沢諭吉、ヒュースケン・・・など実在の人物が絡んでいるところも手ごたえ見ごたえのあるところです。

 歴史の最前線に立ちはだかり歴史を動かしていく人物の壮絶なドラマでなく、その襞の部分でそれでも重要な役割にひたむきに生きていく人たちにスポットを当てたドラマです。

 良庵は若き日に大阪、緒方洪庵の適塾に2年間入塾します。先の放映でその適塾と塾生の生活の場面が出てきました。数か月前に読んだ福沢諭吉に関する本をダブらせながらドラマを観たので興味もひとしおでした。

 『福翁自伝』によると、適塾は『 毎日毎日進歩するという主義の塾 』で、『学生はみな活発で有能な人物であるが、一方から見れば血気盛んな年ごろ、乱暴学生ばかりで、なかなか一筋縄でも二筋縄でも始末におえない人物の巣窟 』だったほど、塾はエネルギーではちきれそうでした。

 自伝にもドラマの良庵のことが出てきます。『 そのとき江戸から来ている手塚という学生があって、この男はある徳川家の藩医の子であって、いかにも見栄えがよくて立派な男であるが、どうも身持ちがよくない 』とあり、手塚が本気で勉強するところや、塾生が共謀し遊女から手塚への手紙を偽造して大騒ぎをさせたり、手を変え品を変え手塚に食事をおごらせたりと、ここにもおおらかな青春がありました。

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 その本が 斉藤孝『現代語訳 福翁自伝』(ちくま新書) 北康利『福澤諭吉 国を支えて国に頼らず』(講談社) です。教科書に載った福澤諭吉の肖像画から想像すると、全くといっていいほど面白味がなく親しみを覚えるものではありませんが、実際はまさに痛快に破天荒に生きた人物像が本人の筆で書かれているので、目からうろこの意外性とホッとするような親近感が出てきました。斉藤氏の現代語訳も読みやすさの一つです。

 近代の啓蒙思想家という固い肩書が何となく福澤諭吉を遠くへ押しやってしまうのかもしれません。40年間も1万円札の肖像画の地位を保っているほどの人物とは・・・、と興味が出て読んだのがこの本でした。その自伝を読んでみるとそれまでのイメージに目からうろこ。人間福澤諭吉のこんな豪放な生き方に、女性としてもちょっと羨ましくもありました。

∞-*-∞-*-∞-*-∞-*-∞-*-  ついでに ( 福翁自伝より ) *-∞-*-∞-*-∞∞-*-∞-*-∞

★ 外に出ても内にいても塾生は乱暴もすれば議論もするが、学問勉強の一点に於いて   は当時では緒方塾生の右に出るものはなかったと自負しています。

★ 『ヅーフ』という蘭学社会唯一の字引の写本が1部あるのみの適塾で、5人も6人も群れをなして無言で字引を引きつつ原書を読み、『大概の塾生は原書をよく読むことができた』そうです。

★ 黒田藩の出入りの医者であった緒方洪庵が、藩主から『ワンダーベルト』という原書を借りてきたので、塾生で「二夜三日」で百五、六十ページの写本を成し遂げました。計り知れない知識欲に、当時の蘭学への希求が伝わります。学生は当時悪く言われるばかりだったが、『知力思想の活発で高尚なことは王侯貴族も見下すという気位』で学問に励んでいたそうです。

★ 塾生は『ヅーフ』という辞書の写本をしてアルバイトをし、『なかなか大きな金額になって、自然と学生の生活を助けていました。』

★ 漢医の大家・華岡の塾を敵視し『漢方医流の無学無術を罵倒して、蘭学生の気炎を吐くばかり』と意気盛んなところを見せています。

 これを読みながら文学書で読む旧制高等学校の破帽疲弊の風習は、この適塾以来ずっと続いているような気がしてしまいました。

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『嵯峨野明月記』

2012年04月27日 | 本・新聞小説

061031toruko_215本が少々汚れていようと折れ曲がっていようと要は中身が問題で、それが「本の役割」なのだと単純素朴にずーっとそう思い込んでいました。

そんな私に衝撃を与えたのが、’05年に世田谷美術館で見たコーランの書かれた金ぴかの重厚で豪華な美しい本でした。

その後スペインやトルコ旅行で展示されている本を見るたびに、イスラム社会の高度な文明に深く心を打たれました。「日本にはこういうのはないな・・・」と。(写真はトルコのコンヤで見た本です)

そしてつい先ごろ、京都の古書展で5000万円の豪華「嵯峨本」が売りに出されるというニュースを耳にしました。日本にも豪華本があったのだ・・・、とさっそく調べてみると、日本の印刷の歴史において有数の美しさを持つといわれている本で、その出版を起こしたのが角倉素庵。書を本阿弥光悦、下絵が俵屋宗達という豪華メンバーだったことを知りました。その本が出来上がるまでの芸術家たちの生き方、生きざまを描いた本、辻邦生『嵯峨野明月記』を知り、さっそくAmazonでお取り寄せ。

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時代は織田信長の京都制圧、本能寺の変、豊臣政権、大阪城の落城、徳川の台頭と殺伐な戦乱の世でした。一の声:本阿弥光悦 「私」。二の声:俵屋宗達 「おれ」。三の声:角倉素庵 「わたし」を使い分けて、それぞれの内面を深く掘り下げた独白形式でストーリーはすすんでいきます。三つの声が、それぞれの幻の嵯峨本を目指して途中から微妙に交わり一つに編み上がっていくという筋書きです。

本阿弥光悦(1558~1637)は刀剣の鑑定、研磨の家業を継ぎ、傍ら寛永の三筆といわれる書、陶芸、茶の湯などを愛し、当代の知識人と交流し、秀吉 家康 前田利家に重用されます。

俵屋宗達(~1643)は裕福な織屋の一門に生まれ、染め織の下絵を見ながら絵の才能を膨らませていき、それまでにない画法を編み出すべく苦悩します。

角倉素庵(1571~1632)は海外貿易で財をなし、土木工事に力をつくした豪商の家にうまれ家業を継ぎます。父は著名な了以。蔵にある膨大な書を読みこなし、実学と学問のはざまで悩みますが、本の出版という強い欲求を成し遂げます。

当時の歴史的な背景の中で、文化意識の高い上層の人々の交流、公家から町人に至るまで本を求める心、戦乱で荒廃した中から感じ取ったもの・・・などが絡み合って「嵯峨本」が出来上がっていきます。3人が同時代に生きたということは素晴らしいめぐりあわせだったと思います。

宗達が平家納経の修復に携わったことから豪華な絵を着想し、商人から得た料紙の知識などその時々のひらめきも面白く、表現に苦悩する場面ではここに風神雷神図の着想があったのかもと想像していくのも楽しく思われました。

辻文学はとにかく日本語が美しく、どの場面をとっても抒情的な日本の四季の美しさとそれからくる精神性が感じられます。司馬さんのすぱっと歯切れの良い文体は歴史文学にぴったりだし、芸術的な展開のストーリーには辻さんの文体はまさにぴったりです。

  ♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪  嵯峨本  ♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪

嵯峨本は手書きではありません。手書きの味わいを損なわないように木製の活字(木活字)で印刷されたものです。原則的には一文字の木活字ですが、ひらがなの美しさを表すために二文字、三文字・・と長方形に彫られたものもあります。雲母の粉を紙に刷り込んだ「雲母刷り(きらずり)」の用紙を使い、装丁にも意匠が凝らされた豪華本です。

織田から徳川へと変革期に作られた木活印刷は江戸初期を最後に途絶えます。江戸の安定した世の中になると庶民にまで高い需要をもたらし、一枚版の木版印刷に変わっていきます。

時代が生んだ豪華本。その『嵯峨本』を実際に見たことはありませんが、日本にこんな美麗な豪華本が存在したという事実が残っているのは嬉しいことでした。

Cimg8969左の写真は嵯峨本ではありませんが、書:本阿弥光悦、下絵:俵屋宗達 『四季草花下絵和歌巻』で、『嵯峨野明月記』の表紙に使われている絵です。

’10に福岡市美術館で開催された「シアトル美術館展」 (過去ブログ)で、やはりこの二人になる『鹿下絵和歌巻』を見ました。その展示の巻物全部がシアトル美術館のHPで見ることができます。

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『後白河院』

2012年04月20日 | 本・新聞小説

NHKの大河ドラマ「平清盛」が放映されています。帝と上皇と法王が対立し、それを摂関家や公卿が取り巻き、それぞれが他を陥れるために策をめぐらし、それにまた抬頭した武家が加わり、よほど丁寧に観ていないとストーリーが混乱してしまいます。

Photo_2松田翔太扮する破天荒な雅仁親王(のちの後白河天皇)の登場は度肝を抜くほど印象的でした。その後白河天皇の事を書いた本が井上靖 『後白河院』です。以前に一度読んだことがありますが、人物相関図が複雑でもう忘れてしまいました。

今回の大河ドラマで登場人物の「顔」が設定されているので、再読するにはイメージしやすくいいチャンスでした。なんとこの本は新潮文庫の『人生で二度読む本』に指定されていたのです。二度読んでもすらすらと内容を話せるわけではありませんが・・・。

内容は四部に分かれていて、後白河院の周辺にいた四人の語り手が後白河天皇を中心に据えて、めまぐるしく変わりゆく世の中を語るという形式で構成されています。大河ドラマで出てくるであろう所を本の前半から記しておきます。

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雅仁親王は、今様の歌、田楽、猿楽に興味があり自身もなかなかの腕前。白拍子を宮中に呼び物議を醸しだしたこともある遊び好き派手好きの性格でした。天皇の継嗣問題では埒外にあり、弟君の近衛帝が先に御位についています。

後白河帝践祚は美福門院、法性寺(忠通)、鳥羽法王が押し、内裏では対立派の崇徳上皇と忠実、頼長が遠ざけられ、この時に姿を現したのが信西入道です。当時は頼長と並び称されるほどの「宏才博覧並びない」学者で、新帝に関する一切を取り仕切るようになります。

後白河帝の反対勢力(崇徳上皇、頼長)を後白河方の清盛、義朝が追い、崇徳上皇と頼長は逐電し保元の乱はあっという間に終わりました。信西がその後の混乱を鮮やかに収拾し、新しい時代を取り仕切り上下の心を一つにまとめていった手腕は卓抜なものでした。

しかし後白河帝は信西に対して自然に距離を置き憎しみすら感じるようになります。それと同じくして後白河帝は若き公達・藤原信頼を寵愛し重用し傍若無人ぶりを発揮します。後白河帝が譲位ののち院政を敷くようになると、院を挟んで信西と信頼は対立しあい、それが源平二氏の争いの平治の乱に発展していきます。

信西は清盛と結んでいましたが、清盛の留守中に信頼・義朝軍の追われ自刃。信頼は一時政権を握った格好になりますが周囲の朝臣たちに見限られ、清盛に信頼追討の勅命が下されます。わずか一か月足らずの間に信西と信頼の二人の権力者は後白河院の周辺から姿を消してしまいました。

「武家の興隆期に際して、力を持ったものとはあえて正面から敵対することを避け、対立勢力を巧みに操りながら力の牽制をはかり、善良な野心家たちが身を滅ぼしていくのを平然と見守っている」ような後白河院の姿は深いなぞとされています。

時代が動いて行くなかで、後白河院は義仲、頼朝、義経と接触し無節操な宣旨院宣を出しながら、「源氏の動静を鋭敏に見据える姿は周囲の人々にとっても理解をこえたもの」であり陰謀家と呼ばれる所以のようです。

第二部では、建春門院に仕える中納言の語りです。建春門院の姉時子は清盛の妻で、夫である後白河院と義兄である清盛の間で揺れ動く複雑な心境を描いています。病に伏していた建春門院の崩御を境として後白河院と清盛の間柄は張りつめたものになり鹿ケ谷事件がおこります。

第四部の最後に、後白河院崩御に際してその所領の処分の遺詔があり、鳥羽法皇と美福門の遺領と頼朝寄進の土地など広大な領地の大部分を後鳥羽天皇が受け継いだことを「実に見事と申し上げるほかはなかった」と語り、日録に『今法王、遺詔に於いて、巳に保元の先蹤に勝ること百万里、人の賢愚得失まことに定法無き異なり』と認めたとありますが、これは井上氏の言葉でもあるのかもしれません。

平安末期の院政の裏面史として権力の座にある人たちの心をえぐりだした歴史小説で、井上氏独特の繊細な描写や語り口にはいつも日本語の美しさを感じます。巻末にふられた注解が平安時代を理解するのに広がりを持たせてくれました。

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ドラマの最初に流れてくる『遊びをせんとや生まれけむ、戯(たわぶ)れせんとや生(む)まれけむ 遊ぶ子供の声聞けば、我が身さへこそ揺(ゆ)るがるれ…』は、後白河院が編んだ今様の歌『梁塵秘抄』から採られたものです。

「遊びをせんとや生まれけむ・・・」のフレイズはしばしば耳にしたので近代に作られたものだとばかり思い、子供の情景を的確にとらえていると感心していましたが、なんと12世紀に後白河院が後世に残すために本にしたものの一節だったのです。

後白河法皇『梁塵秘抄』も、かつてテストのためにだけ丸暗記した書名でした。これを横に広げていけばこんなに複雑な歴史が隠されていたのだと感じ入っています。

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『ホームステイのイタリア』  ばぁばの一人旅

2012年02月22日 | 本・新聞小説

Img_2 わたしが楽しみにしているブログ「ばぁばは語る」があります。『たそがれの72歳』からイメージすると『イタリア旅行15回』はとても結びつかないほど内容が若々しく、衒いがなく、人を引きつける生き方と文章力が魅力的なブログです。

 そしてひょんなことから本を出版されていることを知り、すぐAmazonでポチッ!

3日後に届いた『ホームステイのイタリア』元就出版社は、途中で止められずに一気に読み終えました。 とにかく楽しく面白いのです。ホームステイで語学研修をしながら『暮らすように旅をした』詳細が綴られています。

 著者が初回に訪れたイタリアは65歳の時。パックツアー最終日のフリータイムで独り歩きの楽しさに目覚め、『この次はイタリアに一人で来よう』と『残りの人生の生きがいを見つけた』のです。帰国後すぐにイタリア語の語学講座へ。その後1年もたたないうちにホームステイを実行に移します。その実行に至るまでの奮闘、努力、心の動きが、無駄のない文体と巧みな構成で書かれています。このあたりの小気味良さも読む者の心に弾みをつけてくれます。

 ステイ先では、語学の勉強の合間に食材の買い出し、オリーブ畑の散歩、日用品の調達、スーパーでの珍しい支払方法、ステイ先のマンマと一緒に料理をしたり、日本料理をふるまったり、ホームパーティによばれたりと、普通の旅行記では見えない部分や知りたかった部分が鮮明に描かれています。家庭料理のメニューにはおいしさが伝わってくるし、トイレ事情、住居事情など生活に密着した日常のことに読む者は親しみと温かさを覚えます。

 15回のホームステイの中には、出発を控えて2度の『突然の試練』の怪我もあるのです。紆余曲折のようにも見えるのですが、「イタリアへ」という大きな流れは変わることなく強い意志で流れていきます。こういう人生は誰でもすぐ真似できるものではありません。でもひょっとしたら私もできたかも・・・とそんな希望を持たせてくれるのは、主婦という同じ立場での目線、見方や考え方のひとつひとつが共感共鳴できて、追体験しながら自分も一緒にそこにいるような感じを受けるからでしょうか。

 著者の『人々の暮らしの中に入って眺められる、自分の身の丈に合った旅から得られるものは大きい。イタリアの街で発見する、生きることへのひたむきな気持ち、実直さを私は好ましく受け取る』という文章に羨望のまなざしとともに共感を持ち、読んだ後のカラッとした心に余韻がずっと残りました。「ばぁば」世代にも、これから飛び立つ若い世代にも勇気と力を与えてくれる素敵な本です。

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『冬の鷹』  杉田玄白と前野良沢の相克

2011年12月19日 | 本・新聞小説

Photo_4昔、むかしの小学生時代の話。小学校高学年の国語の教科書に出てきた「解体新書」「杉田玄白」「前野良沢」「腑分け」「ターヘル・アナトミア」の文字とその扉絵。数十年を経てもなお頭の片隅にこびりついていました。とにかく苦労して苦労して強い意志だけで歴史的偉業を成し遂げた偉人伝みたいな話だったように記憶しています。

玄白は歴史的にも日の目を見ていますが、なぜか良沢は日の当たらない場所に・・・という疑問がずっとありました。その謎解きをしてくれる本を偶然に書店で見つけました。吉村昭著『冬の鷹』です。正確にはその「偶然」は、ももりさんのブログで吉村昭の書評がよく出てきて、その作家の著作を探していた時に「偶然」に見つけたのです。

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良沢(中津藩医)と玄白(若狭小浜藩医)はそれぞれに解剖図の載っている『ターヘル・アナトミア』の本を所持していました。1771年、医学に志を持つ玄白、良沢、中川淳庵らが骨が原の罪人の腑分けを実見すると、『ターヘル・アナトミア』の解剖図や骨格図と完全に一致しており、それまでの中国から伝わる五臓六腑の解剖図とは全く異なっているのに驚愕を受けます。激しい熱意を持って玄白は、良沢に『ターヘル・アナトミア』の翻訳を提案すると、以前よりオランダ語の翻訳に強い宿願を持っていた良沢も感動をもって賛同します。

良沢はオランダ語が少しはわかるものの、玄白と淳庵はABCからスタートという最悪の条件のもと、「櫓も舵もない船で大海に乗り出す」ことになったのです。頼みの綱は長崎時代に自分でまとめた300語ほど蘭語の記録と、700語ほどの青木昆陽著『和蘭文字略考』と、ピートル・マリンの『仏蘭辞書』だけです。(25年後に、ようやくオランダ語を日本語に訳した6万5千語ほどの「ハルマ和解」ができあがります)

手探りの翻訳は遅々として進みません。たとえば解剖図の「頭」の部分に『het Hoofd is de opperste holligheid.』とあります。良沢の乏しい語学力でわかるのは、Hoofdとisとdeで「頭とは・・・・・也」のみ。数日してやっとマリンの辞書でoppersteという綴りを発見しますが、その語に付記されたオランダ語の説明文もわからず、良沢の苦しみは増すばかりでした。

気を奮い立たせて説明文の単語を一語ずつマリンの仏蘭辞書で探していきます。oppersteという一語を究明するのに説明文が網の目のように広がっていくのです。いたずらに日が過ぎてわかた事は「最も上」ということ。holligheidとhetもやっと解明できて、「上体は頭顱なり」の短い文が初めて出来上がりました。オランダ通詞の力も借りずに、マリンの辞書を使って独力で単語を解明できたことは、良沢に自信と明るさをもたらしました。しかしまだまだこのような作業が249ページ余り続くことになります。ちなみに長崎一の大通詞と言われる人でも、話す方はいいとしても読解力はほとんどなかったとか。

良沢は孤独を好み、他人と共同作業のできない気難しい性格であることを玄白は知り抜いていましたが、良沢の存在なしには翻訳が成功しないこともわかっています。訳語を探して深みに陥った良沢の心身を解きほぐしたり、天性のひらめきで訳語のアドバイスをしたり、展開させたり、良沢も玄白のその能力を評価していました。

こうしてつらく厳しい翻訳作業も2年余りで一応の目途がついたのですが、このときから良沢と玄白の生き方の違いがはっきり浮き出て、それぞれの人生は二つの方向に大きく分かれてしまうとになりますす。

翻訳が終わった段階で玄白は、まず幕府の反応を見るために解剖図のみをまとめた『解体約図』を世に出すことを提案しますが、学究肌の良沢は完全な翻訳ではないことを懸念して自分の名前を出すことを拒否し、玄白が名声を得る手段として翻訳に参加したのだろうと不快感を示します。しかし玄白にすれば、訳語の不備よりもそれまでの東洋医学から西洋医学へ大きく転換し、医学界に大きく寄与する事が大切だと主張して、訳者に良沢の名前はないままに刊行されることになります。

Photo_2『解体新書』には、解剖図と人体図も平賀源内の紹介により小野田直武が原画を描き(これは後世に貴重な学術的記録となります)、『解体約図』の評判がよかった1年後の1774年に刊行されます。もちろんここにも良沢の名前は載せないままに。そしていつしか玄白と良沢の交流も途絶えてしまいます。

この鎖国の時代に横文字の混じった書物の出版は禁制で、その罪が自分たちばかりか藩主にまで及ぶ場合もあリ得ると、ここで玄白は慎重な計画をたてます。

玄白の幅広い交流を利用して、将軍家治に本を献上し、別に老中にも献上、さらに公家方へも献上して、賞賛を得て出版は公然と認められました。

『解体新書』の序文を良沢と交流のあった長崎大通詞、吉雄幸左衛門が書き、その中に良沢の努力とその意義を激賞していることで、どうにか良沢も翻訳にかかわったことが世に示されることになります。これ以降、人嫌いの良沢は弟子をとることもせずに、ひたすらオランダ語の翻訳にのめりこんでいきます。

社交的な玄白には学問を乞う人も多く、開いた天真楼塾からは大槻玄沢のような素晴らしい学者が排出し、後継者に娘婿の優秀な伯元を得て、玄白自身は江戸屈指の流行医になり、富は日を追って増していきます。家族や弟子たちに囲まれた華やかで陽光きらめく人生で、歴史の中にもくっきりと名を残しました。した。

他方良沢は、藩主から下賜された蘭書『プラクテーキ』を1年足らずで読み終えますが、それを出版する気などみじんもありません。人を寄せ付けずただオランダ語の翻訳に没頭し、そのことだけに意義を感じている毎日で、患者を得ようという気持ちも薄く、藩医としての収入だけの貧しい生活でした。その上幼い時に亡くした長女に続き長男を亡くし、続いて妻も亡くし、家督を養子に譲ったあとは、一人で借家住まいの孤高な暮らしに入ります。雪に埋もれた借家暮らしの弱り果てた良沢をたった一人残った娘が引き取り、最後はそこで80歳の生涯を終えます。玄白に比べると、目的だけを貫き通した孤独で静かで、家族にも早く分かれてしまった人生でした。

1冊を読み終えてどちらの生き方がいいというものでなく、良沢と玄白があったからこそ『解体新書』は出来上がったのだと思います。。翻訳は良沢中心だったかもしれませんが、それを継続させていったのは玄白の統率力によるものでしょう。それに玄白には翻訳の最中でもイメージを的確に把握するひらめきや考えをまとめる能力があったように思います。玄白の翻訳の参加の動機は、良沢が疑った名声のためばかりでなく、骨が原の腑分けの驚愕が示したように医家としての使命感もそれに負けないくらいあったと思います。しかし、良沢の生き方には胸が詰まるものがあり、やはり良沢は応分の評価がなされていないというところに胸苦しさと悔しさを覚えます。

『解体約図』の出版に際し将軍に献納するときの時代背景として田沼意次や松平定信が登場し、良沢と関係の深かった勤王派の高山彦九郎が登場して、ストーリーに横の広がりが見られます。子供の頃「偉人伝」で読んだ平賀源内が、学究を目指す翻訳グループの間では鼻持ちならぬ人物としてとらえられているのも意外でした。

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古文書関係の方から、2011年11月26日の西日本新聞のコピーをいただきました。「 『解体新書』より87年も古い解剖書 」 というビックリのタイトルが目に飛び込んできました。

------------------ 内容要約 -------------------------------------------------------------

原三信は初代福岡藩主、黒田長政の藩医を努め、代々襲名し、偉業を継承してきました。6代目が藩命で長崎に留学し、1685年オランダ語による医師免状を受け取り、それには外科医術を学びよく理解した事を認めると書いてあるそうです。1687年にはドイツ人医師レメリンによる解剖書を筆写、解説書も和訳して藩に持ち帰りました。日本初の西洋解剖書『解体新書』よりも三信の写本は87年も早いことになります。

「キリシタンが弾圧され洋書の輸入も禁じられていた時代。原家では免状とともに和訳した解剖書は『一子相伝、門外不出』として錠前の付いたきり箱に厳重に保管してひそかに受け継いできた」ということです。

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同じ福岡の地で・・・、というのが私には誇らしく思われます。洋書禁止の当時には秘密裡ということもあるでしょうし、名家の秘伝ということも納得できます。このような隠れた資料が続々と出てくるのを待っています。

今、能古博物館で免状や写本が展示されているということです。

Kaibouzu

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『 坂の上の雲 』と『 日露戦争に投資した男 』

2011年12月01日 | 本・新聞小説

Photo_43年にわたって放映された「坂の上の雲」も、今月の第3部で幕を閉じます。40代の司馬遼太郎が作家生命をかけて挑んだこの大作は、読んでも読んでも終わらない全8巻。

後半は戦争場面が多い中、戦場以外での息の詰まるような活躍をした人たちのことが少しだけ出てきます。印象に残ったのが4巻「遼陽」の章。

1904年4月の日銀の正貨(金貨)は6800万円しかなく、軍事費調達のために、まず1000万ポンド(1億円)の戦時外債募集の責務を負わされたのが高橋是清でした。

このくだりが司馬氏の独特の語り口で『・・その金の調達に、日銀副総裁の高橋是清が、調査役の深井英五をつれてヨーロッパ中をかけまわっていた。ひややかに観察すれば、これほど滑稽な忙しさで戦争をした国は古来なかったに違いない。』 これが宣戦布告の半月後の状況でなのです。『もし外債募集がうまくゆかず、戦費がととのわなければ、日本はどうなるか。高橋がそれを仕遂げてくれねば、日本はつぶれる』といった元老井上馨言葉にもあるように、国を左右する重要任務でした。

必死の説得でやっとロンドンの銀行団から500万ポンドの約束を取り付けます。しかしまだ半分・・・。その晩餐会でユダヤ人ジェイコブ・シフとの劇的な出会いがあり、残りの500万ポンド分をまさにポンと約束してくれたのです。シフ氏の協力の理由はロシア国内には600万人のユダヤ人が居住し迫害を受けている。日本が勝てばロシアに革命が起き帝政をほうむるであろう」という人種問題が絡んでいました。

また別の側面から、大佐明石元二郎が100万円の資金を懐に、帝政ロシアを取り巻く革命分子、不平分子などに接触、革命工作をして、ロシアの国内攪乱を図りました。

もう一人金子堅太郎(巻3)。書生時代にハーバード大学で法律を学び、その時の同窓生が日露開戦当時の米大統領になったセオドル・ルーズベルトです。日露開戦を決意した御前会議の直後、開戦に消極的だった伊藤博文は『米国に行き、大統領と米国国民の同情を喚起し、程よいところで米国の好意的な仲介により停戦講和ということろにもってゆけるよう、その工作に従事してもらいたい』と金子を米国に送り込みます。

こうした戦場以外の地道な戦略があったのです。そのシフのことをもう少し知りたいと本を探していたところ、寺田さんのブログで田畑則重 「日露戦争に投資した男 ユダヤ人銀行家の日記 (新潮新書) を見つけました。

シフは1847年フランクフルト旧ユダヤ人街でも500年の歴史を持つ裕福な家に生まれました。18歳で急激な発展を遂げるアメリカに飛び出したシフは、南北戦争後の好景気で成功を遂げます。やがて彼は、アメリカの近代産業国家への歩みと歩調を合わせ成長しているクーン・ロープ商会(国債、鉄道債券を取り扱う)に入り、経営者の娘と結婚して積極的に海外との関係を築き、その人脈は比類なしと言われるまでになります。善意のアメリカを象徴しながらも有能な金融資本家の顔を持つのがシフでした。

田畑氏は、ロンドンでの晩さん会での高橋との出会いは根回しがあったと書いています。シフの日本支援は、日露開戦前にすでに公債の情報をつかんでおりロシアに与える打撃を計算していたこと、ルーズベルトもアメリカ国民も日本支持に傾いていたこと、アメリカ資本の参加により日本に対して同情するのは英国ばかりではないと英国政府も喜んだこと…など複雑な背景をあげています。

後半130ページ余りがシフの日本滞在記「シフ滞日記」の日本語訳です。日本の勝利に大きく貢献したシフは叙勲を受けるために、講和の翌年の春、妻や友人を伴い往復3か月半をかけて日本へ旅行をします。その時の旅の記録です。、明治維新からまだ40年たらずの新興国日本が、外国人の目にどう映ったかがとても興味のあるところです。

明治天皇の謁見、勲二等旭日重光章の叙勲、午餐、晩餐、物見遊山、骨董品の買い付け、日本文化への好意的な見方、日本の上流階級の生活と様式、韓国の100年前の風景など新鮮でとても興味がそそられました。パートナーのご婦人方は「買い物」のスケジュールも多く、この時代に日本美術が流出していったのが感じ取られます。

政府の要人や官僚、そのパートナーの夫人たちも、外国人を接待するマナーを心得ており、急速な日本の文明開化が確実に進行しているのがみられます。婦人方にも英語を話す人がかなりいたようで、手取り足取りの文明開化が着実に根付いてきた証拠でしょう。とにかく私が知らなかった明治初期の日本を、外国人の客観的な目を通して知ることができ非常に面白く読みました。

日露戦争を語るときにシフのことはあまり出てきません。シフが秘書に口述筆記させた日記には、日本人の歓迎のスピーチでシフに対する感謝の念が切々とつづられています。それを読むと、今を生きる私もホッとするものがあります。戦争の良し悪しはともかく、資金のめどがないままに開戦していたら日本はどうなったか・・・。最も追い詰められた日本がすんでのところで窮地を脱することができたことに感謝の念がわきます。

晩餐会のシフの謝辞も記述され、『私は真剣に、新たな起債をして国家に過重な負担を負わせることの危険性を忠告した。とりわけ日本に価値ある資産がないことは、高い信用がないことと同じだとだという事実を詳しく説明した。信用は、日本が世界の市場で重ねて得てきたもので、周到に守るべきものなのだ』と忠告したことがとても心に残ります。

NHKの「坂の上の雲」第3部が楽しみです。。

  :。:.::.*゜:.。:..:*  シフのその後  :。:.::.*゜:.。:..:*゜..:。:.::.゜

その後、シフが1920年にこの世を去ったあと、1929年の世界大恐慌でクーン・ローブ商会も大きな打撃を受け、かつての栄光は取り戻せませんでした。一方、孫のドロシーは36歳の時「ニューヨーク・ポスト」紙を買収し、1976年にメディア王パート・マードック氏に売却するまで社主として君臨し、歴代大統領とも親しく交わるほどの華やかな経歴だったようです。

第2次世界大戦後、クーン・ロープ商会は同じユダヤ資本のリーマン・ブラザーズと合併しましたが、その結末はといえば、つい先ごろ、世界を巻き込んだ大恐慌を引き起こし破綻してしまったことは周知の事実です。しかしシフの末裔はアメリカ政財界に隠然と名を残しているようです。

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