新・遊歩道

日常の中で気づいたこと、感じたこと、心を打ったこと、旅の記録などを写真入りで書く日記です。

伊集院静『ミチクサ先生』その⑪ 299~337

2021年05月16日 | 本・新聞小説
明治36年1月23日イギリスから帰国した金之助(漱石)は2年ぶりに日本の土を踏みました。
熊本には帰らずに、東京で帝国大学英文科と一高で教えることになります。住まいは一高と帝大にも近い千駄木の高台に建つ借家、400坪の広い敷地も気に入っています。
大学では、最初は学生の英語力のレベルの低さに驚き発音から厳しく指導しますが学生には退屈らしく不人気。高浜虚子のアドバイスを受け、噺家の口調で面白く講義を進め学生たちの気持ちを鷲づかみにする・・・と、たちまち教室は満員札止めになりました。

千駄木の借家は家賃が25円。洋行帰りの大学講師は熊本時代の2倍の家賃の家に平然と住めるほどになっていました。帝国大学の年俸が800円、一高が700円、計1500円の高給取りでした。
しかし家計は火の車。帰国直後の4年間はロンドン留学のための借金の返済と物価の上昇で、夏目家にとって最も困窮した生活を余儀なくされた時代でした。妻・箱入り娘で育った鏡子ですが質屋に通うのも苦境と思わぬ奇妙な明るさと大胆なところがあり、この性格がすぐに神経がまいってしまう金之助の心境を救っていました。

熊本時代の教え子寺田寅彦と俳諧仲間の高浜虚子とはずっと親交が続いていました。「ホトトギス」の主宰者・高浜虚子は金之助に小説の執筆を進め、依頼します。
迷いこんだ仔猫と戯れるうちに『仔猫の目から見た私も、鏡子も、娘たちも、いやすべての人間の行動が、ひどく滑稽に映って、こっそり笑ったり、馬鹿にしたりしているかもしれない・・・』。こうして小説家、漱石の第一作『吾輩は猫である』が『ホトトギス』新年号に掲載されます。

ちょうど”要塞陥落、旅順開城、帝国陸軍の破竹の進撃”の時。戦勝号の触れ込みということもあり「ホトトギス」は増刷を重ねます。巷では「読んだか”猫”を?」と、俳句誌でありながら漱石が大人気、虚子の思惑と勘は見事に当たりました。
金之助も日露戦争の勝利はこの上ない喜びで天皇への思慕は変わることはありませんでしたが、軍関係の横暴ともいえる意見や態度は許してはいけないと思っていました。弱者に対する驕慢な態度を嫌う江戸っ子気質からきていたようです。

寺田寅彦は19歳の時土佐で14歳の妻をめとっていましたが、この頃病弱な妻を亡くし、金之助は教え子のそんな哀切をよく見ていました。文章を書くことで哀しみがやわらぐかもしれないと、金之助は寅彦の文章を『ホトトギス』に載せることを虚子に頼みます。
出来上がった短編『団栗(どんぐり)』は物理学の講師がこれほどの文章を書くのかといわせるほどの秀逸さでした。『第3回・吾輩は…』と『団栗』の二つの作品を載せた『ホトトギス』はすばらしい反響を呼びます。

満州奉天の森鴎外からも絶賛の手紙が届きます。作品の強烈な個性で人々を魅了した『吾輩は・・』の本が、こうして大倉書店から出版されることになりました。 


金之助は最初の出版本を子規に捧げたいという思いがありました。子規に紹介されて以来つきあいのある画家・中村不折に挿画を依頼、教え子の橋口五葉に装丁デザインを委ねたのは金之助のセンスの良さでした。

順調に伸び印税も入り喜びの中にも家族が増えたりと家計はまだ火の車。その上かつての養父から無心の手紙が届き、すでに養育費を払い書面まで交わしたのにと憤怒します。

大学での講師、執筆、尋常でない来客の数と忙しすぎる毎日に家族が参ってしまいました。金之助は『精神が最も耐えられなくなるのは教鞭をとっているとき。学生は卒業後は給与の高い役所か、政治家の周辺の職にありつこうとする輩が大半で真剣に英文学を学ぼうという者はまずいない』と悩みます。
こんな生活から逃げたい・・・、それには教職をやめるのが正しい・・・と判断し、実行しようと思います。

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