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組織化しない集団

『映画は社会学する』より 組織と集団
最小集団としての家族
 目的が明確で規模が大きいほど集団の組織化は進む。では、組織化しない集団、集団であり続ける集団、また別のいい方をすれば、目的が不明確であり規模が大きくはならない集団、というのはないのだろうか。
 こたえを先にいってしまうと、家族がそれにあたるのではないか。家族はそもそも目的達成的なものではない。目的がないとまではいわないが、目的が不明確だといっていいだろう。人数も限られている。なによりも、合理化できない。そういう意味で、家族は組織化されない集団としていいだろう。
 家族は、テンニースのいうゲマインシャフト。クーリーのいう第1次集団にあたる。ここでは第1次集団という面から考えていきたい。クーリーは第1次集団として、家族、遊び集団、近隣の3つの例をあげている。現代社会では、直接的な相互作用を行い親密に協動しているという点では、遊び仲間や近隣は第1次集団としての地位を後退させているかもしれない。しかし、家族は今でもその地位にとどまっているといえるだろう。
 家族も日本映画が好んで扱うテーマである。現代で家族の姿を描きつづけている映画監督といえば、是枝裕和の名をすぐにあげることができるだろう。本節では、近年の是枝作品の中から2っを取り上げる。
 『歩いても歩いても』は2008年に公開された作品である。 15年前に海の事故で亡くなった兄の命日に、横山良多(阿部寛)は妻と子どもを連れて実家に帰省する。妻(夏川結衣)は前夫と死別しており、子どもは妻と前夫との間の子である。良多は町医者だった父(原田芳雄)とは長年うまくいっていない。父と母(樹木希林)の仲も不和というわけではないが円満といいきれるものではない。姉(YOU)家族も含めての、穏やかのように見えてやや緊張した家族の2日間を描いている。
 映画は、家族の合理的にはいかない。わりきれない様を、それぞれの言葉や行動を通して映し出していく。互いにかみあっていないけれど、誰もそのことを口にしない。すれちがったまま進んでいく日常から「人生は、いつもちょっとだけ間に合わない」ことが淡々と描かれる。
 『そして父になる』(2013)は、第66回カンヌ国際映画祭審査員賞を受賞した作品である。一流大学を出て、大手建設会社に勤め、都心の高級マンションでくらす野々宮良多(福山雅治)は、6歳になるひとり息子の慶多の優しすぎる性格を少々もどかしく思っている。その良多に、妻のみどり(尾野真千子)が慶多を出産した病院から電話がかかってくる。子どもの「取り違え」があった、との連絡だった。相手側は群馬で小さな電気屋を営む斎木雄大(リリー・フランキー)。ゆかり(真木よう子)夫婦である。生活環境が真逆の家族である二組の夫婦が子どもの「交換」を前提に交流を始めるが、これまで何事も合理的にことを進めてきた野々宮の思うようにはならない。
 この映画で投げかけられる「家族の絆とは、血なのか、時間なのか」という問いに対して、どうこたえたらいいのだろうか。最初は自分なりの合理的判断で「血だ」と考えていた野々宮も、だんだんとわからなくなっていく。
 野々宮がわからなくなっていくのは自分と子どもの関係だけではない。自分の親(父と継母)との、また妻との関係についてもわからなくなっていく。家族とは合理的に考えることができない存在、わりきれない存在であるという事実が野々宮に迫ってくる。しかし、だからこそ逆に家族は豊かさを含んでいるのではないか。「第1次集団は個人に対して社会の統一性についてのもっとも初期のもっとも完全な経験をあたえる。また複雑な関係が湧き出てくる永続性をもった源泉をかたちづくるという意味において第1次的」であるというクーリーの第1次集団についての説明は、家族の性格を適格に表しているように思われる。
 またクーリーは,第1次集団は「人間性の養成所」であり、「生活の泉なのであって、それはたんに個人ばかりではなく社会制度にとってもそうである」とも述べている。
 家族は「人間性の養成所」「生活の泉」だからこそ、そして父になる。そして母になる。そして子どもになる……。そういったらいい過ぎだろうか。
そして自分になる
 第2節で紹介したウェーバーとクーリーは同じ1864年生まれである。集団と個人との関係(による人間性にっいて)のこのふたりの、捉え方の違いがおもしろい。ウェーバーは集団構造の方に、クーリーは人間形成の方に、重みをおいた考察を行っている。ふたりは違うことをいっているようで,重なることもいっているように思われる。
 現在では、組織(クーリーの分類でいえば第2次集団)の方も人間的な組織を目指しているし、第1次集団(本章ではとくに家族)の方も人間性の養成所、生活の泉であるためにはそれなりの工夫と努力を必要としている。
 組織は合理的だから/合理的にならざるを得ないから,個人は葛藤をかかえ、人間ドラマが生まれる。最小集団である家族は合理的ではないから/合理的にはなれないから、個人はもどかしさをかかえ、人間ドラマが生まれる。人間ドラマを、他者との相互作用を通して自分になっていくプロセスといいかえてもよいかもしれない。ひとは組織・集団の一員になることを通じて社会化されていく。この場合の社会化とは、社会・組織・集団の一員化のみならず社会・組織・集団の中での自分化である。
 『踊る大捜査線』の青島俊介は、警察組織の中で青島俊介になっていく。『歩いても歩いても』の横山良多は、家族の中で、横山良多になっていく。「そして父になる」の野々宮良多は、家族の中で、父になるとともに、野々宮良多になっていく。それぞれの「OOになる」道は歩いても歩いても終わりがない。私たちは組織や集団に所属しながら・かかわり合いながら、そして自分になるのである。
 「そしてOOになる」という社会化については本章では直接的には扱っていないが、関心があればG.H.ミード(1883-1931)の『精神・自我・社会』をひもといてほしい。ミードもウェーバーやクーリーとほぼ同時代の人物であり、社会的自我について研究した社会学者である。

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数学は天賦の才か、習得した能力か?

『なぜ理系に進む女性は少ないのか?』より
数学は天賦の才か? 女性を危険にさらす考え
 なぜ多くの最も聡明な女性たちは数学や科学のキャリアを追い求めないのだろうか? ある不思議な発見がきっかけで、私は急にこの論争に放りこまれた。私は、同僚たちとの共同研究において、学生がまったく新しい題材を学ぶときのとまどいに対し、どう対処するかを調べていた。数学や科学でのとまどいは日常的に起こるものである。というのも、多くの言語の領域と異なり、数学や科学にはまったく新しい技術、概念や概念的体系が新たな題材に含まれることがよくあるからだ。そこで我々は、学生に新たな学習課題を与え、そのうち半分の学生に対しては、はじめの頃にいくつかの混乱しやすい題材を提示した。
 その結果、頭の良い女子はこの混乱をまったく処理できないことがわかった。実際、その女生徒の知能指数(IQ)が高ければ高いほど、結果は悪かった。多くのIQの高い女子は、混乱を経験した後にはその題材を学習することができなかった。これは男子には起こらなかった。男子ではIQが高いほどよりよく学んだのだ。混乱は彼らにやる気を起こさせただけだった。
 これらの発見は、我々の実験対象が第5学年の生徒だっただけに、なおさら衝撃的だった。女子は、依然としてほとんどすべての科目において男子よりも良い成績を収めていた。また女子の成績に不名誉な点は何ひとつなかったのだ。また、我々が彼らに与えた題材や問題には、数学は含まれていなかった--だから、女性と数学についてのステレオタイプは働いていなかったのである。
 IQの高い女子は困難にぶつからないときには驚くほど良い成績だったので、我々がここで見ているものは、能力の違いではなく、生徒が自分の能力に疑問を投げかけられるような経験にどう立ち向かうか、つまり困難によってやる気を出すか、士気をくじかれるかどうかの違いなのである。バーバラ・リヒトはこれらの発見の裏づけを進めた。それに続く研究の中で、彼女は異なる課題と尺度を用いて、聡明な女子、つまり物事が順調なときには勝者である子は、困難に出くわして自信を失ったり有能さが目減りしたりしたとき、精神的に傷つきやすいことを指摘したそして、まさに能力分布の頂点でこそ、数学におけるジェンダー差が現れる部分なのである。よって、数学で現れる差の少なくとも一部分は、数学能力のジェンダー差というより、むしろ挫折や混乱への対処の性差と考えられる。
良い知らせか、悪い知らせか?
 数学や科学分野の女性の問題にとって、このことは良い知らせか? はたまた悪い知らせか? もちろん、もし能力があるならこれは良い知らせだろう。しかし、同様に悪い知らせにもなりうるのだ。結局、もし賢い女性が難題にうまく対処できないならば、これは彼女達には数学や科学の専門職、つまり難しいとわかっている問題に取り組むことや、それらを根気強く追求する作業をともなう職業には適していないということを意味するのではないかと考えられるからである。このことはまさに、女性では挫折への感受性がより大きいことの根底にあるものを発見しようとなぜ我々が一生懸命になったのか、その理由になっている。我々は、もしその根底にあるものを見いだすことができれば、この状況を変えられると信じていた。確かに、我々にはその状況が変えられるのだ。
 最近の研究で、我々は、傷つきやすさに対する心理学的基盤を突きとめた。我々はまた、この要因への対処が数学の成績でのジェンダー差を小さくするような介入を報告した--それは課題の上でも実社会でもそうであった。
数学は天賦の才か、習得した能力か?
 この研究は、一般的に学生が知的能力と特に数学の能力について信じこんでいることから始まる。彼らはそれらの能力を天賦の才、つまり単に持つか持たざるかの能力と見なすのだろうか? それとも発達可能なもの、つまり初めの能力をもとに訓練と努力で広がるものと見なすのだろうか?
 我々は過去の研究で、知的能力を天賦(不変のもの)ととらえると、その学生は挫折に出会うと、その能力に疑問を持ち、やる気を失うということを明らかにした。対照的に、知的能力を発達可能な資質ととらえると、その学生は、困難に直面した際、積極的で効果的な改善法を探した。
 我々はまた、こういった知的能力についての思い込みが、成績が急に下がったり多くの生徒が学校に興味を失う、非常に難しい時期である中学校への移行期に、どれだけ成績をとれるかを予測できることを示した。ここで、知的能力を発達可能なものと見なした生徒は、知的能力を天賦とした生徒よりも学習への興味を持続したと同時にずっと良い成績を収めた--実際、2つの集団は、中学入学前の成績も入学時学力検査の成績も同じであったにもかかわらず。さらには、成績の差は、2年間連続して広がったのだ。
 これらの発見をジェンダーの立場で見ると、第8学年の終わりには、男子と女子の数学の成績にはかなりの隔たりがあるが、これは知的能力を天賦と考えた生徒のみにいえることである。知的能力を発達可能なものと考える生徒では、差はほとんどなかった。実際に、そのような考えの男子は能力が固定していると考える男子より少しだけ成績が良かったし、女子では、同様の比較でとても成績が良かった(繰り返すが、実際彼らは同じ数学の成績で入学しているにもかかわらず、である)。これは、知的能力を単に天賦の才だと信じている女子は数学があまりよくできないが、知的能力を発達可能な資質だと考える女子はよくできる場合が多いことを示している。
 同様の研究で、我々はコロンビア大学の医学部進学課程における化学課程を受講する学生らを第1学期の期間、追跡調査した。この講義はかなり難しいものであるが、科学的職業に就く人にとって大きな影響力を持つ。ここで我々は科学の成績における典型的な男女の差を見いだした。しかし、繰り返すが、これは知的能力を天賦と考えている学生だけに見られたことである。知的能力を発達可能なものと考える学生については、そのジェンダー差は逆転していた。女子学生は、最後には男子学生より高い成績を収めていたのである(通例に従い、入学時の成績を今回はSAT〔大学進学適性試験〕の成績をもとに比較している)。
 こうして、すべての頭脳明晰な女性が同じように傷つきやすいわけではないという状況が見え始めた。能力は不変のもので成績で判定できると見なす人間は傷つきやすいと思われ、したがって困難にぶつかると自分の能力に疑問を持つ--「じたばたしなければならないなら、天賦の才を持っていないに違いない」「最初の成績が悪いなら、天賦の才はないに違いない」--と。

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個と全体を描く

「個と全体」を描いた映画はどこにもない。表層的な現象ばかりを扱っている。第10章はまとめですね。 #個と全体
岡崎のリブラも今日から休館。こんなことで人類は内なる世界を構築できるのか。 #図書館を閉めるな
シナリオなしに行動している。考えれば分かることを考えない。存在させておく意味を失っている。 #シナリオなしの行動

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