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OCR化した4冊

『ハイデガーの超政治』
 学長就任演説「ドイツ大学の自己主張」
  学問の必然性 
  ギリシア的原初への回帰
  民族の精神的世界
  ドイツ学生団への呼びかけ
  知の奉仕の強調
  闘争共同体としての大学
  プラトンの影
『ベストセラーで読み解く現代アメリカ』
 インターネットで他人を血祭りにあげる人々
 ソーシャルメディアはアメリカの少女たちから何を奪ったか
『がん哲学のレッスン』
 がん細胞の不思議。
  死者と向きあい いのちの意味を探る
  がん細胞で起こることは人間社会でも起こる
  1個の細胞と1人の人間が生命と地球を救える
  異なるものと共存する楕円の発想を持つ
  がん細胞はギブ・アンド・テイクの実践者
  不良息子のように存在をただ受け入れる
  がんの特性を知れば向きあう余裕が生まれる
『スペイン通史』
 カルタゴとローマ
  ローマの台頭
  ローマ属州ヒスハニア
  パクス・ロマーナ
  植民都市と幹線道路の建設
  キリスト教の伝来
  属州ヒスハニアの崩壊
 レコンキスタ(国土再征服戦争)
  レコンキスタの開始--「コバドンガの戦い」の勝利
  初期のレコンキスタ
  中期のレコンキスタ
  「大レコンキスタ」
  異端審問所の創設

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レコンキスタ(国土再征服戦争)

『スペイン通史』より レコンキスタ(国土再征服戦争)
レコンキスタの開始--「コバドンガの戦い」の勝利
 イスラム勢力の侵入期に一度も占領されなかった唯一の地帯は、半島北西部の北バスクから狭くて貧しいアストゥリアスにかけてのカンタブリア山岳地帯であった。この地に避難したアストゥリアス人やカンタブリア人たちは、七一八年、西ゴートの貴族の末裔と称するペラヨを国王に選び、西ゴート王国の継承国家としてアストゥリアス王国を建国した。その後彼らは七二二年頃、カンタブリア山脈北側のカンガス≒デーオニスから数キロ離れたコバドンガでイスラム軍と初めて対峙した。標高二五七メートルの山岳地帯であった。装備も少なく、粗末なペラヨ軍は、洞窟を要塞として守りを固め、侵攻してくるイスラム軍を待ち伏せ、見事撃退してしまった。この戦いに、ペラヨ軍はわずか三百人、対するイスラム軍が途轍もない兵力だったといわれている。これこそ「建国神話」的な逸話にはよくある話だがペラヨ軍からすれば多勢に無勢だったことは間違いなかったろう。
 コバドンガはキリスト教徒の「レコンキスタ」の発祥の地とされている。アストゥリアス王国はイスラム圏から来た多くの避難者や西ゴート人住民たちを受け入れ、半島におけるキリスト教信仰の擁護者の役割を果たした。こうした一連の動きとともに、国王ペラョは西ゴート王国の正統な継承者であることを公言し、レコンキスタの根幹である「西ゴートースペイン」の復興という理念を確認させた。ペラョの後継者である息子フアフィラは即位して二年後にクマに襲われて死んでしまう。それからほぼ半世紀後になるが、アルフォンソニ世は、自軍を北西部のガリシア地方に展開し、イスラム軍を放逐し、さらに南の国境線をドゥエロ川まで広げた。
 伝承によると、八一四年、半島の北西部ガリシア地方で、聖ヤコブの墓が見つかったという。イリア司教区内で、毎夜不思議な光が輝き、そこにしばしば天使が現われるとの報告を受けたテオドミーロ司教はみずからその地に行き、草深い所に埋まっている大理石の聖ヤコブの墓を発見した。それを聞き付けたアルフォンソニ世は直ちに聖ヤコブの名にちなんだサンティアゴ教会を献堂し、司教区をイリアからコンポステ土フに移した。これが聖ヤコブ伝説の縁起であるが、やがて聖ヤコブは、対イスラム戦争におけるキリスト教徒軍の守護聖人とみなされるようになり、レコンキスタに十字軍の精神が付与された。だが、「サンティヤゴーマタモーロス(モーロ人殺しの聖ヤコブ)」という膚懲本位の言葉も生まれた。後にサンティアゴ・デ・コンポステーラは、カトリック三大巡礼地のIつとなるのだが、聖人伝説の縁起は何処もこのようなものなのかもしれない。八六六年、首都オビエドで即位したアルフォンソ三世は、今までアンダルスとの境界地帯だったドゥエロ川流域やその他の無人地帯に着実に植民し、南の国境線をさらに南に下げることになり、版図を拡げた。しかし、アルフォンソ三世はアストゥリアス王国の領土を息子たちに分割相続させた。そして国王の死後、長男ガルシアはレオン王、次男オルドーニョはガリシア王、三男フルエラはアストゥリアス王にそれぞれ登位する。
初期のレコンキスタ
 八世紀から一一世紀前半までの、キリスト教スペインの基礎となる諸国家は、アストゥリアス王国、レオン王国(九一〇年)、カスティーリャ伯領(九三三年)、ナバラ王国(八二〇年頃)、アラゴン王国(一〇三五年)、バルセロナ伯領(八○一年)、ガリシア王国(九一〇年)であった。これらは、国とか伯領といった名称を掲げているが、アンダルスと比較するなら、おしなべて小国であり、国としての基本的な行政組織や法体系や軍事機構なども備わっておらず、言ってみれば、初代国王ペラヨを例に挙げるまでもなく、身元や血筋が明確ではないが、西ゴート時代の貴族や豪族の末裔と僣称し、戦術や武術に長けていた軍事エリートがその国の王や統治者に納まっていたようだ。従って、こうした国では、王や統治者の後継をめぐって、国内の覇権をめぐって、隣接する国との領土をめぐって、新しく誕生した国に対する軍事干渉をめぐって絶えず武力紛争、政治闘争などの内紛を繰り返していたために、実質的には対イスラム戦争どころではなかった。というより、アンダルスの軍事的優位が持続していたのだった。
「大レコンキスタ」
 一二三二年、ムハンマド一世の支配するナスル朝グラナダ王国が誕生する。これ以降、キリスト教徒諸国軍は、コルドバ(三六年)、ハエン(四六年)、セビーリャ(四八年)、カディス(六三年)などを次々と占領し、アンダルスの中で唯一残ったのは、グラナダ王国であった。
 これまで離合集散を繰り返してきたキリスト教徒諸国は、この陣営で覇権を確実なものにしていたカスティーリャ王国、地中海一帯に勢力を拡大していたアラゴン連合王国(アラゴン、カタルーニャ、バレンシア)、フランスとアラゴン王国に挟まれたナバラ王国の三か国となった。この陣営にも、一丸となってレコンキスタを推進するにはさまざまな社会的な問題を抱えていた。一三一〇年から四六年まで続いた不作による餓死者の大量発生、それに四八年の東部海岸へのペストの上陸によって、カタルーニャでは、推定であるが、全人口の三五~四〇%、カスティーリャでは一五~二〇%死んでしまう。これは途轍もない人口減少であり、経済は回復不可能な状態に陥ってしまった。こうした社会的な大災害が勃発すると、決まってスケープゴートを見つけ出すのである。「神殺しの下手人であるユダヤ人」だ。この年、バルセロナのユダヤ人居住区が襲撃され、これがカタルーニャ一帯に広がった。
 さらにキリスト教徒陣営において、王位継承戦争、国境争議、貴族間の権力闘争などが多発し、すでに一一四三年にカスティーリャから分離独立したポルトガルがこうした紛争に積極的に関与することもあり、いわば内戦状態となることもあった。イサベル女王とフェルナンド国王の両王家統一
 それが一大転機となることが起こった。ァラゴン連合国王ファンニ世は、長男で王位継承者であるフェルナンドとカスティーリャのイサベル王女とを結婚をさせようとしたのは、フランスがピレネー山脈を越えてカスティーリャに攻め込んでくるのを危惧していたからだった。一四六九年。一八歳のイサベル王女と一七歳のフェルナンド王太子が結婚する。さらに、七四年のイサベル一世の即位、七九年のフェルナンドニ世の登位により、カスティーリャ王国(人口約四五〇万人、領土三九万平方キロ)とアラゴン連合王国(人口九〇万人、領土一一万平方キロ)の同君連合国家がついに実現する。これによって二人の国王による共同統治が始まる。だが、両国の連合は国力からしても著しいアンバランスであり、事実、グラナダ戦争も主力軍はカスティーリャ軍であり、アラゴン連合王国は南進する構えを見せているフランスに対する国防上の軍隊を配置し、グラナダ戦争には補助金を提供するくらいであった。これでも一五世紀後半から政略結婚も含めて推し進められてきた王権強化政策の到達点であった。とはいっても、の二つの国には、それぞれ独自の議会、国内法、行政機構、軍機構、関税、租税システムを維持しており、言ってみれば、「王家の統一」にすぎず、厳密な意昧での、「王国の統一」ではなかった。それにしても、この共同統治はきわめて迅速であった。

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答えは外にはない

個の意思決定に必要なのは完全な情報共有。勝手な思い込みでも脅しでもない。存在をかけて決める、未来からの視線できめる。 #情報共有が前提
存在をかけいるときは他者には関与しない。未来に怯えない。 #未来に怯えない
本来の教育はそのためにある。それを育成するコミュニティ。今の日本の「常識」では不可能。 #日本の「常識」
リアルな世界はとても貧弱。 #リアルな世界
答えはどこにある。外にはない。人との接点にはない。内と宇宙にある。となるとNPOなどの存在理由がなくなる。 #答えは外にはない
ファーストペンギンはおとなしい。えらぶらない。みんなのためにやめろと言ってものは偉ぶる。うまくいけばよかったじゃないか、失敗すれば言った通りになった。組織の人間はろくなもんじゃない。 #生田絵梨花は正義

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過激派イスラム対女性解放

『女たちの中東 ロジャヴァの革命』より 女性の革命
過激派イスラム対女性解放
 過激派イスラムの軍隊がロジャヴァと南部クルディスタンを攻撃した時、女性もまた攻撃された。女性虐殺である。都市を占領したジハーディストはそのことをモスクから拡声器で知らせた、と人権活動家アキシン・アメードが報告している。イスラム国が誘拐した女性はイスラム国メンバーに「与えられる」か、あるいは商品のように市場で「売られた」。屈服を拒否し、乳房を切られ、手足を切断された女性もいると目撃者は報告した。
 イスラム国は、自分たちのイデオロギーを受け入れない女性を、たとえ少女でもレイプすることをハラール(許可された)とみなした。二〇一四年六月T八日、モスルでイラクとシリアのイスラム国(ISIS)のマフティ(イスラム教法典教職者)は以下のように布告した。「マリーク(イスラム・スンナ派の学派)のために働く兵士と政治家の妻と娘は、メンバーのためのハラールである」。レイプと性暴力は、女性への絶対的な軽蔑と女性の身体的・人格的な高潔さへの蔑視を表現する、意図的かつ永続的な戦争状態下の道具である。レイプは、その女性の男性の家族成員が女性を守るという家父長的な義務を果たせなかったということを証明することになるようだ。なぜなら、ほとんどの中東の社会ではレイプは家族の「名誉」(ナムス)を破壊し、レイプされた女性は恥ずべきものと見倣される。レイプの脅威は、復讐を挑発し、移住を強制するという目的を持つ戦争の意図的な道具である。
 アーシャ・アブドュラによると、二〇一三年夏にヘセケ地方でイスラム国は、「多数のアルメニア人女性を誘拐し、レイプし、虐殺した。この地域では、クルド人、アラブ人、キリスト教徒、ドゥルーズ教徒、スンニ派、アラウィー派が互いに皆和やかに暮らしていた。平和に共存していることそれ自体が、過激派イスラム集団の攻撃目的だった。この集団は今日、クルド人を攻撃しているが、目的は人々の共存を撲滅することだ。とりわけクルド人女性が目をつけられている。なぜなら、自分たちだけでなく、すべてのシリア人女性を守ろうと、戦闘において積極的に一翼を担っているからだ」。
 二〇一四年八月、イスラム国はヤズディ教徒とキリスト教徒の村落と都市を襲い、七〇〇〇人以上の女性を捕らえた。女性たちは繰り返しレイプされ、財産として奴隷市場で売られた。戦利品としてジハーディストに与えられたり結婚を強制されたりした。子どもたちも性奴隷として売られた。奴隷とされた女性は携帯電話を持つよう強要され、女性たちは自分の家族に電話し、残虐行為のことを話した。自分たちが囚われているところに爆弾を落とすように軍隊に話してほしいと家族に懇願する者もいた。何度もレイプされるよりも死ぬことを望んだからだった。「私は今日三〇回レイプされた。昼食の時でさえも。トイレにも行けない。爆弾を落としてください。私はなんとしても自殺するつもりだ」とある若い女性は言った。
 クルド人女性運動は資本主義的家父長制を「レイプ文化」と特徴づけた。イスラム国はこの究極の搾取文化のもっとも極端な形の一つである。著作家のディラー・ディリクは、次のように書いている。「イスラム国の多くの方法と機構は、二〇一四年の世界の各地を統治する支配的な国民国家を志向する、資本主義的・家父長制的な世界秩序の模倣である。多くの点でイスラム国は進歩的といわれる世界の至るところでの女性に対する暴力の非常に極端な型である」。
 以下は、トルクメン人の村落で、二〇一四年六月二六日にイラクとシリアのイスラム国が布告したいくつかの法である。
  ・女性は顔を完全にヴェールで覆わなければならない。
  ・女性は男性の付き添いがなければ家を離れてはならない。
  ・女性は男性の付き添いがあっても市場に行ってはならない。
  ・家族に二人の娘がいれば一人はイスラム国に引き渡さなければならない。「夫」が戦線で死んだ女性は、イスラム国戦闘員に「与えられる」。
  ・夫のいない家で女性が三ヵ月以上暮らしていれば、イスラム国戦闘員が選んだ男と結婚しなければならない。
 ロジャヴァの女性中心社会は、したがってイスラム国へのアンチテーゼである。ロジャヴァで政治的に活動している女性たちは私たちに、女性がどこでも組織を作り、イスラム主義者による恐怖から自らを守り、女性の新しい役割のために戦うことを望んでいると語った。
展望
 ロジャヴアの全女性が女性組織に参加しているわけではない。多くの地域では女性は夫や家族に経済的に依存したままである。多くの女性は、自らの運命を決める能力や心構えを未だ持つに至っていない。女子学生は、初めは熱心に関わろうとするが、個人としての夢を叶えるのができずに失望して諦める。戦争状態のために、多くの願望は断念されねばならなかった。かつての政権のもとで特権を持っていた男女は、革命前の時代に戻りたいと切望している。自己統治のシステムには非常に多くの仕事が求められ、しかも無給である。独裁とバース党主義の六〇年間のあとで、多くの人々は新しい国家がやっと再び現れ、私生活に引きこもれると期待している。しかし民主主義的自治には多くのやるべきことが要請される。
 依然として女性たちは、女性解放への歩みを進めている。もっとも重要なことは組織を作ることである。女性が組織を作れば、もう一つの生活をどうイメージしたらよいかが自分にもお互いにも明確となる。そして女性たちがこのイメージを実践するために組織の力を用いれば、将来の構造的な抑圧に反対できるテコを持つことになる。さらにイルハム・アーメドが指摘するように、少なからぬ犠牲者を出しているからには、女性たちは後退することはないであろう。
 ロジャヴアでの革命は、国家・権力・暴力を超えた女性解放の社会というアブドュラ・オジャランのパラダイムを、クルド人コミュニティが実感できるものとした。ケルンで開かれた女性評議会で、ある活動家は次のように言っている。「三〇年開私はクルディスタン労働者党の運動の中にいて、オジャランの本はすべて読みました。しかし、心の深いところでは私はいつも『私たちはクルド人国家を目指して闘うべきだ』と考えていました。ロジャヴァ革命とアラブ人やアラム人との女性コミューンを知って初めて、国家なき女性中心社会を想像することの意義を本当に理解しました」。
 女性活動家の指導によるロジャヴァ革命は、全中東での新しい女性のイメージに変化を引き起こしている。シェンガルのヤズディ教徒とアラブ人女性はすでにこのモデルにしたがって組織化を始めている。ヨーロッパでもこの展開状況は大きな感激を引き起こした。ロジャヴァのアカデミーのシステムを見習って、ドイツのフェミニストはこの教育活動を知ろうとし始めている。
 ロジャヴァのクルド人女性運動は、組織的にはクルディスタン女性評議会(KJK)のシステムの一部ではないが、イデオロギー的には関係していて、その目的を共有している。この目的には以下のものがある。「クルディスタンで始まった女性革命を成就し、この革命を中東全体に拡大し、世界的規模での女性革命に尽力すること」。これは決して小さな革命ではない。さかのぼると一九九三年に、クルド人女性たちが女性の軍隊の創設を決めた時、こうしたことができると信じたのは実際ほんの数人だった。今日、女性軍は正規軍としてイスラム国との戦いを成功裡に進めている。

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