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共有地の悲劇を解決する

『生態学は環境問題を解決できるか?』より 人と自然と環境問題
環境問題とNIMBY
 地球温暖化や大気汚染、水質汚濁、ゴミ処理の問題。現代の共有地の悲劇は、マグロの獲りすぎだけではなく、さまざまな環境問題を引き起こしている。僕らが生活するとゴミが生まれる。そのゴミは、どこかで誰かが処理しなくちゃな'らないことはわかるんだけど、そのために手間やお金はかけたくない。自分が私有する領分がゴミに侵されるのはイヤだから、自分の目に触れることのないどこか遠くでゴミを処理してほしい。こんな感覚が共有地の悲劇を生む。
 走っている車から、道路にタバコの吸いがらを捨てる人がいる。なぜ自分の車のなかに捨てないのだろうか。自分の所有する車が汚れたらイヤだ、車内が燃えたらイヤだ、と思うからだろう。その一方で、共有地である道路が汚れようが、道ばたで火事が起ころうが、自分の財産に被害はないから平気、という感覚なのだろう。このような感覚を、英語の環境学の教科書では「not in my backyard(NIMBY)」と呼んでいる。自分ちの裏庭はやめてくれ、という意味だ。たとえば、ゴミ処理場は世界のどこかには必要なことはわかるけど、近所につくるのはやめてほしい、という感覚だ。日本では葬祭施設などでもNIMBYを根源とした反対がよく起こる。葬祭施設が近所にできることに反対する人は、自分は永遠に死なないつもりなのだろうか? NIMBYは環境問題の本質をついている。自分だけよければ他人はどうでもいい。これが公害などの環境問題が生じる心理的な根源だといえる。
 地球温暖化だって、それはある意味「ゴミ」の問題だ。文明活動から出てくる無色透明の「ゴミ」、それが二酸化炭素だ。このゴミは、共有地である大気に捨てられて、温暖化を引き起こす。世界中の人がこのゴミを捨てている。でも、ゴミを減らすための努力(省エネや代替エネルギーの導入)はたいへんだ。だから、「自分よりもあいつのほうが悪質だ」「あいつが先に改心しない限り、オレも生活を改めない」というような言い訳で国際会議で争っているのが、温暖化問題の本質なのである。
共有地の悲劇を解決するには?
 今回は共有地の悲劇について考えているが、では、どうしたらこの問題を解決できるのだろうか。ひとつのやり方は、共有地を分割してすべて私有地にすることだ。村の共有地を分割して私有の牧場にしてしまえば、最初に考えたヨーロッパの村のような問題は、すぐに解決できるだろう。
 でも、これだけではうまくいかないこともある。世界の「環境」には、本質的に分割が不可能なものが多いからだ。たとえば、マグロが回遊する海に柵をつくって、魚が自国の領海から出て行かないようにすることはできない。あるいは、大気に戸を立てて、他国の二酸化炭素が流れ込むのを止めることはできない。
 そうなると、僕らにできることは、おのずと決まってくる。読者のみなさんもお気づきだろう。解決策のひとつは、ルールづくりである。「村のおきて」をつくって、「牛の数は一家に1頭だけ」というように決める。そして、そのルールを破った者には何らかのペナルティを与える。実力行使できるだけの強制力があれば、村の共有地の悲劇は解決されるだろう。国際的な環境問題も同様に考えてみる。すべての国が強制力のある条約を結ぶ。違反した国にペナルティを課す。これがうまく機能すれば、多くの環境問題は解決するだろう。
 ところが現実には、うまくいかないことも多い。世界各国は、それなりに筋のとおった理由をつけて、自国のわがままを通そうとするからである。たとえば、国と国との平等の問題がある。中国やインドなどの新興国が発展し、先進国並みに二酸化炭素を出すようになったら? 彼らが先進国並みにグルメになったり、エアコンやラグジュアリーカーをガンガン使うようになったりしたら? そうしたら世界の環境問題はさらに深刻化するだろう。だから新興国の発展を規制せよ、みたいな身勝手な論調もある。しかし、考えてみれば、アメリカや日本などの先進国がいま豊かな理由は、温暖化が問題になる前に石炭石油をガンガン燃やしてきたから、そして自然保護が叫ばれる前の時代に天然資源を乱獲してきたからともいえる。世界人類が平等な権利をもつのならば、新興国の国民も、僕らと同じクオリティの生活を追求する権利があるんじゃないだろうか。ならば、新興国に対しては規制を緩めてあげるべきじゃないんだろうか。このようなわけで、一律のルールを決めるのはたいへんむずかしい。
「良かれと思って」の功罪
 わざと自然環境や社会環境を悪化させようと思って行動する人はあまりいないだろう。僕らは自分なりに、正しいと信じている行動をしている。その行動は自然や社会に良いことだと思っているわけだ。でも、結果としてその行動が逆効果になることも多々ある。それが環境問題のむずかしさだと思う。
 その例は枚挙にいとまがない。たとえばフロンガス。フロンガスは、エアコンや冷蔵庫の冷媒として広く使用されてきた。フロンガスが発明される前はアンモニアが冷媒として使用されていたそうだが、アンモニアは不安定で扱いにくかった。そのため、とても安定しているフロンガスが開発されると、「夢の物質」として歓迎され世界中で広く用いられるようになった。しかし、私たちの日常の生活環境では便利なフロンガスも、その安定性があだとなり、次第に大気中で濃度を上げていく。そして大気圏の上層まで到達し、紫外線が当たって分解され、その結果オゾン層を破壊することがのちにわかった。オゾン層が破壊されると地表面に降り注ぐ紫外線が増加し、皮膚がんなどの健康被害を引き起こす。そのため、フロンガスの使用は制限されるに至った。フロンガスが開発されてから何十年間も、人類は「良かれと思って」フロンガスを使い続けてきた。しかし、フロンガスが開発された当時は思いもよらない形で、それは環境問題を引き起こしていたのだった。
 日本でも、「良かれと思って」の功罪の例は多々ある。たとえば外来種の問題。沖縄や奄美に分布するハブは猛毒で、人や家畜がかまれて死に至ることもある。そこで人びとは、ハブの新たな天敵となることを期待して、捧猛な小型哺乳類のマングースを移入することにした。たしかに、マングースはヘビと出会うと、うまくたたかって相手を殺すことが可能だ。しかし、マングースの立場からすると、危険な相手であるハブをわざわざ狙うよりも、もっとおとなしい生き物を狙うほうがずっと楽だ。そして、これまで搾猛な哺乳類のいなかった沖縄や奄美の島々には、マングースにとって簡単な獲物はたくさんいたのだった。たとえば、ヤンバルクイナやアマミノクロウサギなどの固有種や絶滅危惧種がそうだ。このようなわけで、在来の生物多様性への悪影響が生じていることから、いまではマングースは「特定外来生物」に指定され、積極的な駆除が進められている。連れてこられたマングースに罪はないのだが、益獣から害獣へ、人間の都合で扱いが変わってしまった。
 ハブを減らすことが期待されてマングースが移入されたように、天敵を導入することで何かをコントロールしようとすることを、「生物的防除」という。マングース以外にも、生物的防除には悲しい歴史がある。たとえばカダヤシという魚。「蚊を絶やす」からカダヤシという名前になったように、カダヤシは蚊の幼生であるボウフラを食べることが期待され、日本に移入された。英語ではモスキートフィッシュとよばれることからも、ボウフラの駆除に有効だと考えられていたことがよくわかる。蚊はマラリアや日本脳炎など、多くの健康被害を及ぼすことがあるため、蚊の駆除は公衆衛生の役に立つはずだ。約半世紀前の論文を読むと、こうした目的で移入されたカダヤシは蚊の数を減らすことにつながったと結論づけている。この論文では、天敵の導入による害虫駆除は、殺虫剤のように毎年の散布が不要なので手間いらず、一度繁殖すればお金もかからない、殺虫剤と違って環境問題を引き起こさない、とされている。このように鳴り物入りで導入されたカダヤシだが、結局ボウフラを減らすことにはあまり役立たなかった。その反面、彼らはメダカなど日本在来の魚のエサやすみかを奪うことがわかってきた。結果的にカダヤシは特定外来生物に指定され、駆除が進められることになった。
 厄介な外来種として取り上げられるブラックバスやブルーギル、アメリカザリガニやショクヨウガエル。これらも、そもそもは「良かれと思って」日本に連れてこられたものだ。よく育ち、食べておいしい外来種で日本の食卓を豊かにしようという善意が、かえって日本の生態系を破壊する事態になってしまったのである。
 このように環境問題は、「良かれと思って」がスタートになることも多いから厄介だ。「いいことを思いついたら、まずやってみよう」なんていうことがある。ふっうの「失敗」ならそれでもいいし、失敗から学べることも多々あるものの、環境問題や生物多楡既に関する「失敗」はたいへんで、取り返しがつかないことがある。やっちゃいけない失敗もあることを肝に銘じて、良いと思ってもしっかり考えることが大事だと思う。自分か環境科学や生物学の専門家だと思っている人も例外ではない。沖縄へのマングースの導入を進めたのは、当時の有名な学者だったのだから。「まず行動しよう」は逆効果になることもある。環境問題のいろいろな側面を総合的に考え、慎重に行動することが求められるのだ。
 以上のように、人間が良かれと思ってしてきたことは、たしかに僕らを幸せにしてくれる一方で、環境問題を引き起こしてもいる。僕らがもつべき視点は、「文明はベストな答えだから環境問題なんて気にしなくていい」ではなく、「文明は悪だからすべて捨てて原始時代に戻れ」でもなく、文明の恩恵を享受する一方で、その負の側面にも目をっぶらず、賢く、時空間的2)に広い視野で後先を考えるべきなのだと思う。

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単一性という概念

『哲学の技法』より すべては一つ 「私の教えはすべて一のことで貫かれている」
中世には、イスラム世界じゆうに宮殿が点在していた。それらの宮殿のうち、現在も残るのは一つしかないが、そのアルハンブラ宮殿を訪れた人は必ず、こう思うはずだ。もし後世の人たちに、一つだけ残す宮殿を選ぶチャンスが与えられたとしても、これ以上の選択はできなかっただろう、と。宮殿は絶好の口ケーションにあり、起伏に富んだグラナダ市旧市街のちょうど反対側の丘の上に立つ。旧市街のどこからでも息を呑むほど美しいその姿を拝むことができる。場所によって違った表情を見せる他、夜明けと夕暮れどきには、宮殿全体が残り火のような輝きを放つ。それは壁が赤い鉄分を含んだ塵で覆われていることによるもので、名称の由来にもなっている。「赤いもの」を意味するアラビア語「アル・ハムラー」が「アルハンブラ」の語源だ。
アルハンブラ宮殿は、単一の建造物でもなければ、複合施設のようなものとして計画されたものでもなく、数世紀にわたって増改築が繰り返されてきた住居だ。壮麗な中心部には、ユースフ一世(在位一三三三~五三年)とムハンマド五世(在位一三五三~九一年)の治世下で建てられたナスル宮がある。それらの建物の装飾やデザインは細緻を極めるとともに、見事な調和を保っているだけではなく、イスラムの中心思想を生き生きと表現したものにもなっている。それはこの宮殿が、宗教的な施設ではないにもかかわらずというより、宗教的な施設ではないからだ。少なくとも私たちがふだん理解している意味では、この宮殿は宗教的なものではない。イスラムの思想では、聖と俗が区別されない。「世俗という分類そのものが不要になるほど、聖なるものがあらゆる様式の建築物に備わっている」と、セイイェド・ホセイン・ナスルはいう。アッラーがいないところはない。裕福な世俗の支配者の家にすらいる。なぜなら「魂に大きな影響を与えるのは、日曜日に美術館や教会で見る絵よりも、日々の経験だからだ」。
いちばんわかりやすいのは、建物のあちこちにアラビア語の言葉による装飾が施されていることだろう。そのさまは英国の歴史家ロバート・アーウィンがいうようにまさに「住める本」のようだ。ナスル朝の理念である「アッラーの他に勝者はいない」は何百という壁や、アーチや、柱に刻まれている。コーランの言葉が記されているのは、宮殿内の最も高い場所、つまり神には読めるが人間には読めない場所だ。また宮殿内の見どころとなる場所は、すべて神の栄光を表しており、「ライオンの中庭」の噴水には、「至高のアッラーがあらゆるものに美しさで優ることを望まれた噴水」という碑文がある。
装飾の中心をなす幾何学的な形や模様は、イスラム教では偶像崇拝が禁じられていることを示すだけのものではない。それは神によって定められた、宇宙の秩序も示している。例えば、多角形とアラベスクが絡まり合った模様は、男性と女性の象徴であり、「生命のリズム」を表現していると、ナスルは見る。またアーウィンによれば、アルハンブラ宮殿の複雑さや細緻さには、私たちがわかった気になるのを防ごうとする意図がある。私たちは理解しようとするのではなく、永遠の探求に「浸って」、自分たちの有限性を自覚することを求められる。ここに観光で訪れても、建物の美しさに見とれるばかりで、その宗教的な意味を見過ごせば、建物が「深く考えるための装置」になっていることはわからない。
あらゆる世俗のものの中にある聖なるもの、あらゆる有限のものの中にある無限なるものはすべて一つであり、全一であり、単一であるというイスラムの精神的、知的な理想を、物理的に見える形で表現したのが、アルハンブラ宮殿だ。イスラムでは、すべてのものは根源的に一つであり、神は絶対的に単一であると説かれる。イスラム思想の研究者ジョン・リナードは次のように書いている。「あらゆるイスラム神学の思索や議論で中心に置かれているのは、絶対的に単一のものである神からなぜ多様なものが生まれるかという問題だ」。ナスルも次のようにいう。「イスラム世界で昔から受け継がれ、深められてきた学説はすべて、単一性(タウヒード)の教義と一致している」
単一性や唯一性という観念は、世界の多くの哲学の伝統に見られる。例えば、インドでは、すべての主な学派によって、あらゆる存在が根源的には一つであると主張されている。そのような考えをはっきりと述べている最も古い文献は、初期のウハニシヤッドだ。そこでは、私たちの個々の自己(アートマン)は、普遍的な自己、すなわち「一なるもの(ブラフマン)」の部分であると説かれている。
 それは動き、それは動かない。
 それは遠くにあり、それは近くにある。
 それはすべての中にある。
 それはすべての外にある。
インド哲学には、この単一性を簡潔に表現した重要なフレーズがいくつかある。その一つは「タット・トヴァム・アシ」だ。このサンスクリット語はふつう「それはあれである」と訳される。例えば、「それは最良の本質である。この世界全体はそれをその自己として持っている。それが実在である。それがアートマンである。それがあれである「タット・トヴァム・アシ」」というようにいわれる(アートマンはブラフマンと同一の普遍的な自己を意味する場合と、個別の自己を意味する場合があり、ここでは前者の意味で用いられている)。またこれに似た表現で、「アートマン(普遍的な自己)はこれではない、あれではない(ネティ・ネティ)」という表現も有名だ。これはもう少しわかりやすくいうと、アートマンは個別の何かではなく、すべてであるという意味だ。アートマンは「大きさを持たないから、大きさを測ることはできない。破壊されることはないから、滅びることはない。何にもくっつかないから、執着することはない。束縛されず、揺るがず、傷つかない」とされる。
インド哲学の中で単一性という概念を最も発達させたのは、不二I元論を唱えたアドヴァイタ・ヴェーダーンタ学派だ。「アドヴァイタ」とは、文字どおりには非(「ア」)二元性(「ドヴァィタ」)を意味する。同学派の代表的な思想家であるシャンカラは、実在には絶対的な次元と、日常的な次元の二つの次元があると説いた。日常的な次元では、世界は多様に見えるが、絶対の次元には単一の実在しかない。絶対の次元ではすべてがブラフマンである。
もしすべてが一つなら、自己と他者や、主体と客体に違いはなく、ひいては個人の意識や意図もない。私たちがふだん経験している世界は、強力な幻影以外の何ものでもない。自己と他者の二元性があるときに初めて、私たちは他者の姿を見たり、匂いを嗅いだり、声を聞いたり、互いに言葉を交わしたりできる。絶対的な単一性に気づくとは、嗅いだり、聞いたり、考えたり、理解したりする者が一切いないことに気づくことである。「それによってこのすべてを理解しているのであるから、何によってそれを理解することができようか。理解する者を理解することができようか」という。
同じように、宇宙の原理と私たちひとりひとりの義務との調和を明らかにするダルマという概念も、ものごとの根源的な単一性を想定することで成り立っている。ダルマは全一なるものとしては宇宙の原理であるが、同時に個々人の義務でもある。したがってひとりひとりの正しい行為によって、根源的な唯一性、全体の単一性は支えられているとされる。
中国思想にも、単一性の強調は見られる。道教では、ものごとの区別は思考と言葉によって生ずるものであり、それらの人為的な区別を超えたところでは、すべては一つであるとされる。「どれだけ多様でも、どれだけ異なっていても、道においてはすべてが一つである」と『荘子』は説く。そのことがわからないのは、「朝三暮四」といわれる。「朝三暮四」とは、次のような逸話に由来する言葉だ。ある猿回しが猿たちに「朝に三粒、夕に四粒、木の実をやろう」といったところ、猿たちは怒りだした。そこで調教師は「それなら朝に四粒、夕に三粒やろう」といった。すると猿たちはたちまち喜んだという。どちらでももらえる木の実の数は同じであることが、猿たちにはわからなかったという話だ。
単一性は、儒教ではあまりテーマにならないが、孔子は一度ならず、「私の教えはすべて一つのことで貫かれている」と述べている。曾子が弟子たちに説明したところによれば、これは孔子の教えはすべて「誠実さ(忠)と思いやり(恕)」に行きつくという意味だという。すべてのものごとが一つであることは次のようにも表現されている。「私がものごとの一つの隅を示したとき、君たちがそれによって残った他の三つの隅のことを学べないなら、私は同じ教えを繰り返さない」

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トポロジー発想

国家を乗っ取るものに対しての対抗策。超国家がある。 #超国家
超国家は基本空間のようなもの。そこに照らし合わせて行動を決めていく。 #超国家
共有地の問題も超が存在することによって解決する。有限であることを理解するものが一番上にいる。 #共有地問題
国の暴走を捉まえる。国というのは乗っ取られるもの。日本も米国もスペインも乗っ取られている。超がいて、はじめて安定する。重要なのは、超と個が一体化できること。 #国の暴走
数学的な思考の時になぜ、トポロジーをベースにしないのか。三角関数ではないでしょう。デカルト平面はナンセンス。 #トポロジーが基本
トポロジーは座標系と異なり、点から発想する、個から発想する。そして、全体を作り上げる。そこからベースとなる基本空間で連続性を保つ。これが新しい社会の構造そのもの。それでつくられたのがインターネットの世界。 #トポロジーが基本
組織は上から作るものではなく、下から積み上げるもの。ローカルとグローバルに分けて,その間にハブを置く。 #トポロジー構造
観光立国が成り立つ条件。地域が平和であること。トルコとに入った時に感じた。農業国から観光立国に変わったという説明。ギリシャ国鉄のストがなければ、それを聞くことはなかった。 #観光立国の条件
ヨーロッパはスペイン風邪がベースになっている。第一次世界大戦時に、米国と欧州を三度回っていた。その都度、拡大していった。第一次大戦の欧州派遣軍が仲介。駐屯地、途上の船で亡くなっていった。戦死よりも多かった。 #スペイン風邪
災いは欧州から。その思いを反映しての政策。時として、逆の場合が多い。米国発祥。その場合は対策にならない。ともかく、すべてを止めることしかない。その上で考えてみる。 #災いは欧州から
『数学的な思考とは何か』を読んでいたら、参考文献として、ポントリャーギン『連続群論』が上がっていて、驚いた。好きな本です。位相群にロマンを感じていた。 #連続群論
数学のすごさは根底から観ていくこと。それを表している本は未だにない。インターネットはトポロジーで出来ている。空間の考えは数学的思考がないと理解できないのに。第2章の主旨を明確にする。人類が生きてきた証にする。 #人類が生きてきた証

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