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数学は天賦の才か、習得した能力か?

『なぜ理系に進む女性は少ないのか?』より
数学は天賦の才か? 女性を危険にさらす考え
 なぜ多くの最も聡明な女性たちは数学や科学のキャリアを追い求めないのだろうか? ある不思議な発見がきっかけで、私は急にこの論争に放りこまれた。私は、同僚たちとの共同研究において、学生がまったく新しい題材を学ぶときのとまどいに対し、どう対処するかを調べていた。数学や科学でのとまどいは日常的に起こるものである。というのも、多くの言語の領域と異なり、数学や科学にはまったく新しい技術、概念や概念的体系が新たな題材に含まれることがよくあるからだ。そこで我々は、学生に新たな学習課題を与え、そのうち半分の学生に対しては、はじめの頃にいくつかの混乱しやすい題材を提示した。
 その結果、頭の良い女子はこの混乱をまったく処理できないことがわかった。実際、その女生徒の知能指数(IQ)が高ければ高いほど、結果は悪かった。多くのIQの高い女子は、混乱を経験した後にはその題材を学習することができなかった。これは男子には起こらなかった。男子ではIQが高いほどよりよく学んだのだ。混乱は彼らにやる気を起こさせただけだった。
 これらの発見は、我々の実験対象が第5学年の生徒だっただけに、なおさら衝撃的だった。女子は、依然としてほとんどすべての科目において男子よりも良い成績を収めていた。また女子の成績に不名誉な点は何ひとつなかったのだ。また、我々が彼らに与えた題材や問題には、数学は含まれていなかった--だから、女性と数学についてのステレオタイプは働いていなかったのである。
 IQの高い女子は困難にぶつからないときには驚くほど良い成績だったので、我々がここで見ているものは、能力の違いではなく、生徒が自分の能力に疑問を投げかけられるような経験にどう立ち向かうか、つまり困難によってやる気を出すか、士気をくじかれるかどうかの違いなのである。バーバラ・リヒトはこれらの発見の裏づけを進めた。それに続く研究の中で、彼女は異なる課題と尺度を用いて、聡明な女子、つまり物事が順調なときには勝者である子は、困難に出くわして自信を失ったり有能さが目減りしたりしたとき、精神的に傷つきやすいことを指摘したそして、まさに能力分布の頂点でこそ、数学におけるジェンダー差が現れる部分なのである。よって、数学で現れる差の少なくとも一部分は、数学能力のジェンダー差というより、むしろ挫折や混乱への対処の性差と考えられる。
良い知らせか、悪い知らせか?
 数学や科学分野の女性の問題にとって、このことは良い知らせか? はたまた悪い知らせか? もちろん、もし能力があるならこれは良い知らせだろう。しかし、同様に悪い知らせにもなりうるのだ。結局、もし賢い女性が難題にうまく対処できないならば、これは彼女達には数学や科学の専門職、つまり難しいとわかっている問題に取り組むことや、それらを根気強く追求する作業をともなう職業には適していないということを意味するのではないかと考えられるからである。このことはまさに、女性では挫折への感受性がより大きいことの根底にあるものを発見しようとなぜ我々が一生懸命になったのか、その理由になっている。我々は、もしその根底にあるものを見いだすことができれば、この状況を変えられると信じていた。確かに、我々にはその状況が変えられるのだ。
 最近の研究で、我々は、傷つきやすさに対する心理学的基盤を突きとめた。我々はまた、この要因への対処が数学の成績でのジェンダー差を小さくするような介入を報告した--それは課題の上でも実社会でもそうであった。
数学は天賦の才か、習得した能力か?
 この研究は、一般的に学生が知的能力と特に数学の能力について信じこんでいることから始まる。彼らはそれらの能力を天賦の才、つまり単に持つか持たざるかの能力と見なすのだろうか? それとも発達可能なもの、つまり初めの能力をもとに訓練と努力で広がるものと見なすのだろうか?
 我々は過去の研究で、知的能力を天賦(不変のもの)ととらえると、その学生は挫折に出会うと、その能力に疑問を持ち、やる気を失うということを明らかにした。対照的に、知的能力を発達可能な資質ととらえると、その学生は、困難に直面した際、積極的で効果的な改善法を探した。
 我々はまた、こういった知的能力についての思い込みが、成績が急に下がったり多くの生徒が学校に興味を失う、非常に難しい時期である中学校への移行期に、どれだけ成績をとれるかを予測できることを示した。ここで、知的能力を発達可能なものと見なした生徒は、知的能力を天賦とした生徒よりも学習への興味を持続したと同時にずっと良い成績を収めた--実際、2つの集団は、中学入学前の成績も入学時学力検査の成績も同じであったにもかかわらず。さらには、成績の差は、2年間連続して広がったのだ。
 これらの発見をジェンダーの立場で見ると、第8学年の終わりには、男子と女子の数学の成績にはかなりの隔たりがあるが、これは知的能力を天賦と考えた生徒のみにいえることである。知的能力を発達可能なものと考える生徒では、差はほとんどなかった。実際に、そのような考えの男子は能力が固定していると考える男子より少しだけ成績が良かったし、女子では、同様の比較でとても成績が良かった(繰り返すが、実際彼らは同じ数学の成績で入学しているにもかかわらず、である)。これは、知的能力を単に天賦の才だと信じている女子は数学があまりよくできないが、知的能力を発達可能な資質だと考える女子はよくできる場合が多いことを示している。
 同様の研究で、我々はコロンビア大学の医学部進学課程における化学課程を受講する学生らを第1学期の期間、追跡調査した。この講義はかなり難しいものであるが、科学的職業に就く人にとって大きな影響力を持つ。ここで我々は科学の成績における典型的な男女の差を見いだした。しかし、繰り返すが、これは知的能力を天賦と考えている学生だけに見られたことである。知的能力を発達可能なものと考える学生については、そのジェンダー差は逆転していた。女子学生は、最後には男子学生より高い成績を収めていたのである(通例に従い、入学時の成績を今回はSAT〔大学進学適性試験〕の成績をもとに比較している)。
 こうして、すべての頭脳明晰な女性が同じように傷つきやすいわけではないという状況が見え始めた。能力は不変のもので成績で判定できると見なす人間は傷つきやすいと思われ、したがって困難にぶつかると自分の能力に疑問を持つ--「じたばたしなければならないなら、天賦の才を持っていないに違いない」「最初の成績が悪いなら、天賦の才はないに違いない」--と。

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